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『婚姻FA』 第八話

オンライン面談から三日後の午前十時。
葛西は、五年間暮らしたマンションの前で、携帯の画面を見つめていた。

「本日、9:15 S商事本社ビル到着」

妻——いや、元妻の行動を示す位置情報が、青い点で表示されている。普段通りの出社時間。予定通り、不在を確認できた。

足早に階段を上がる。休日の午前中、マンションは静かだった。

「お待たせしました」

階段の踊り場で、引っ越し業者の作業員と合流する。事前に荷物を纏めておいたダンボールの搬出と、残った家具の仕分け。二時間ほどの作業になるはずだ。

鍵を差し込む手が、僅かに震える。
ドアを開けると、見慣れた玄関が、どこか他人の家のように感じられた。

「こちらの段ボールからお願いします」

作業員に指示を出しながら、葛西は部屋を見回した。
五年前、二人で選んだダイニングテーブル。休日の朝食を共にした場所。
キッチンの吊り戸棚。料理の腕を競い合った思い出。
全てが、今は他人の持ち物のように見える。

「お客様の荷物は、この札のついたものだけでよろしいでしょうか」

作業員の声に我に返る。
そうだ。今日は自分の荷物だけを、慎重に運び出さなければならない。

リビングの本棚から、自分の本を抜き取っていく。
仕事関連の専門書、趣味の小説、写真集。
一冊一冊が、記憶と共に重い。

書斎のデスクの引き出しを開ける。
ノートや文具、小さな電化製品。
全て、事前に仕分けをしたものだ。

クローゼットの中も、既に整理済み。
スーツ、カジュアルな服、靴。
全て、自分のものだけを選び出している。

「すみません、これは...」

作業員が手にしていたのは、結婚式のアルバム。
「それは、置いていってください」

言葉が、妙に響く。

携帯が震える。
ウィークリーマンションからのメール。
入居手続きは完了している。
今夜からの新しい住まい。

「お客様、クローゼットの荷物の搬出が完了しました」
「はい、お願いします」

段ボールが、一つ、また一つと運び出されていく。
五年の記憶が、段ボールに詰められ、消えていく。

最後の見回りをする。
彼女の持ち物には一切触れていない。
それでも、二人分の生活の痕跡が、部屋中に残っている。

「全ての搬出が完了しました」
「ありがとうございます」

玄関に立ち、もう一度部屋を見渡す。
何も声を掛けることなく去っていく自分。
これが、最善の選択だったのだろうか。

ポケットの中の鍵を取り出す。
玄関の鍵と、郵便受けの鍵。
五年間、当たり前のように持っていたもの。

封筒に入れ、部屋の中のテーブルに置く。
一言のメモも添えない。
それが、お互いのためだと信じたかった。

「では、ウィークリーマンションまで」
作業員の声に頷く。

ドアが静かに閉まる音が、廊下に響いた。
二度と開けることのない扉の前で、葛西は深いため息をつく。

スマートフォンの画面には、まだ青い点が会社の位置を示していた。



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