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『婚姻FA』 第七話



土曜日の午前九時四十五分。
葛西は自室のデスクで、届いていたメールを再度確認していた。

「婚姻FA制度 オンライン面談のご案内」
システムから送られた手順書には、必要な準備が簡潔に列挙されている。
マイナンバーカード、通帳、補償金の振込確認書——。
全て、机の上に揃っている。

スマートフォンのFA管理アプリを開く。
事前確認用のチャットボットが起動する。

「本日の面談に向けて、最終確認をさせていただきます」
淡々とした文字が、画面に流れる。
「補償金の準備は完了していますか?」
「はい」
「新パートナー様の同意書は提出済みですか?」
「はい」
「本人確認書類は...」

機械的な確認が進む中、葛西は何度も時計を見ていた。
あと十分。

PCの画面には、面談用のウェブ会議システムが立ち上がっている。井上も、もう待機中だった。自宅のリビングだろうか、整然とした本棚が背景に見える。三日前の部長就任決定から、彼女の表情はいつもの落ち着きを取り戻していた。

「おはようございます」
「おはようございます。緊張されてます?」
「いえ」
言葉とは裏腹に、葛西の声は僅かに震えていた。

定刻の十時。
画面に、FA管理課の担当者が現れる。若い女性職員の後ろには、オフィシャルなバーチャル背景が広がっている。

「本日は婚姻FA制度のオンライン面談にお時間をいただき、ありがとうございます」
クリアな声が、スピーカーから流れる。

「では、まず本人確認からさせていただきます」
「はい」
「スマートフォンアプリを起動していただき、マイナンバーカードの読み取りを行います。その後、顔認証に移ります」

葛西は言われた通りにカードをかざす。
画面上で、データの照合を示すバーが伸びていく。
緑色のチェックマークが次々と点灯。
「顔認証をお願いいたします」
スマートフォンのカメラに向かって、目を開けたまま三秒。
確認音が鳴る。

井上も、同じ手順を進めている。
部長就任から間もない彼女は、この手続きにも慣れた様子で対応していた。

「お二人の本人確認が完了いたしました」
担当者の画面が拡大される。
「次に、FA制度での婚姻移行に関する最終確認に移ります」

画面が切り替わり、細かな条項が並ぶ。

「まず、婚姻FAの基本事項について」
担当者が読み上げる。
「現在の婚姻関係からの移行が、即時に効力を持つことを、ご確認ください」

一つ目の電子サインを入れる。
移籍の即時性。

「補償金に関する条項です」
二つ目。
金額の最終確認。

「新たな婚姻の成立要件について」
三つ目。
井上との新生活の始まり。

サインを入れる度に、システムが静かに記録を刻んでいく。

「井上様も、同様にご確認をお願いいたします」

画面の中の井上が、静かに頷く。
彼女の電子サインも、次々と記録されていく。
最後の一つを入れる時、一瞬、目が合った。

「続きまして、補償金の決済確認に移ります」
担当者の声が続く。
「事前にご準備いただいた金額の確認と、送金手続きを実行いたします」

画面には、エスクローサービスの決済画面が表示される。
事前に準備した補償金が、一時的な専用口座で待機している。
この送金と同時に、新しい人生が始まる。

「ご確認の上、送金実行ボタンの操作をお願いいたします」

カーソルが、決済ボタンの上で止まる。
画面の隅では、井上が静かに見守っている。

クリックする指に、人生の重みを感じた。
電子音が、静かに鳴る。

「これにて、FA制度に基づく全ての手続きが完了いたしました」
担当者の声が続く。
「システムより、関係各所に通知が送信されます。通知の到着は本日中、補償金の移動は三営業日以内に完了いたします」

井上との画面共有が終わる直前、彼女は小さく頷いた。
新任部長の凛とした表情の中に、かすかな安堵が見える。

デスクの上のスマートフォンが震える。
経済紙のニュースアラート。
「婚姻FA制度 利用3000件に迫る——制度開始から8ヶ月」

葛西は深いため息をつく。
これで終わったはずなのに、
どこか、落ち着かない気持ちが残っていた。



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