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『婚姻FA』 第六話

マンションの駐車場で、葛西はエンジンを切った。
上階の一室の明かりが、夜空に浮かぶように見える。週末にしか来ない場所。いつもと違う曜日に、いつもと違う重さを抱えて。

助手席のノートPCに目をやる。画面からは既にスリープの文字が消えている。その中に、FA管理システムのシミュレーション結果が保存されている。焦る必要はない、と自分に言い聞かせる。でも、ハンドルから離した手は、微かに震えていた。

「早く決着をつけなければ」

独り言が、車内の闇に溶ける。妻に証拠を突きつけられてから、落ち着いて眠れる夜はなかった。

エレベーターは15階まで、ゆっくりと上昇していく。
井上から呼び出されたのは、面談前日のこの時間。
「今夜、ゆっくり話がしたいんです」
電話越しの声には、迷いがなかった。

チャイムを鳴らす指が、やけに重たい。

「お待ちしてました」

開いたドアの向こうの井上は、普段のスーツ姿ではなかった。
落ち着いた色のワンピース。肩の力が抜けた、休日の装い。
それなのに、その表情には、どこか覚悟めいたものが感じられた。

リビングは、キャリア女性らしい洗練された雰囲気。
壁際のデスクの上には、明日の部長面談用の資料が積まれている。背表紙には「IoTソリューション事業計画」の文字。その横には、英語の経営書が何冊も並んでいた。

「座ってください」

コーヒーテーブルには、ワインとグラスが二つ。
普段の週末なら、仕事を離れた他愛もない会話に花を咲かせる場所。
でも、今夜は違う。

「実は、昨日から考えていたんです」
ワインを注ぎながら、井上が切り出す。
「明日の面談のこと。新しい部署のこと」
グラスが差し出される。
「でも、それだけじゃなかった」

「井上さん...」

「新規事業部の立ち上げって、大きな挑戦なんです」
井上は夜景に目を向けた。
「IoTソリューションは、これからの会社の柱になる。その責任者として」
言葉が一瞬止まる。
「女性管理職の先駆けとしても、期待されている」

窓の外では、都会の光が煌めいている。

「でも、それ以上に考えていました」
井上がゆっくりと振り向く。
「私たちのこと。これまでの関係。そして、これから」

葛西は黙ってうなずく。

「FAについて、調べました」
井上の声は落ち着いていた。
「制度のこと。必要な手続きのこと」
そして真っ直ぐに葛西を見る。
「シミュレーション、見せていただけますか」

葛西は静かにPCを開く。
起動音が、静かな室内に響く。

「私の収入と資産の情報も必要になりますよね」
「ええ」
「ここに、メモしてきました」

差し出された紙には、几帳面な文字で数字が並んでいる。
葛西は画面に向かって、打ち込み始めた。

「キャリアと結婚」
井上が、遠くを見るように言う。
「よく言われる言葉です」
打鍵の音が続く。
「でも、私はそんな単純な二択だとは思っていない」

カーソルが点滅する画面に、計算結果が表示される。

「私の決断です」
井上の声に、強さが戻っていた。
「明日は面談。新しい部署の責任者として」
PCの画面に視線を移す。
「そして、あなたとの新しい人生の始まりとして」

「井上さん」
「決めました」
「本当に、いいんですか」
「ええ」

井上は立ち上がり、デスクから一枚の紙を取り出した。
明日の面談資料の間に挟まれていたそれは、FA制度についての事前調査メモだった。

「私たちの関係を、きちんとしたかったんです」
井上の声が、柔らかくなる。
「あなたが切り出してくれて、良かった」

夜景に映る二人の姿が、ガラス越しにぼんやりと揺れている。




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