『婚姻FA』第三話
「なぜ、今なんですか?」
井上の問いは、カフェの喧騒をかき消すように、二人の間に沈んだ。
「タイミングが悪いのは分かっています。昇進の話もあって」
「いいえ、そうじゃなくて」
井上は言葉を選ぶように、カップに手を伸ばした。
「どうして、こんなに急ぐ必要があるんですか?」
窓の外は完全な夜になっていた。オフィス街の無数の明かりが、ガラス越しに二人を見下ろしている。
「焦っているように見えます」
井上の声は、優しかった。
いつもの相談事のときのような。
だからこそ、葛西は言葉につまる。
「大丈夫ですか?」
「ああ...」
嘘がつけない。嘘をつくべきじゃない。
けれど、全てを話すには、まだ早すぎる。
「少し、時間的な制約があって」
濁した言い方に、自分で嫌気がさす。
井上の表情が、僅かに曇る。
「制約、ですか」
テーブルの上で、井上の指が小刻みに動く。
「私たち、今まで何も隠し事はなかったはずです」
その言葉に、葛西は目を逸らした。
嘘だ。
二人とも、大きな嘘をつき続けてきた。
週に一度とも言えない偶然の出会いを装って。
何気ない会話を演じて。
「本当のことを」
井上が言いかけたとき、スマートフォンが震えた。
井上の画面が、青白く光る。
「あ...」
「どうかしました?」
「人事部からの...」
井上は画面をスクロールする。
「明日の午前中に、最終面談があるみたいです」
沈黙が落ちる。
井上は、ゆっくりとスマートフォンを置いた。
「葛西さん」
「うん」
「FAの手続き、どれくらいかかるんですか?」
予想外の質問に、葛西は息を呑む。
「オンラインでの申請準備が2週間ほど。最終的な手続きで1週間...」
答えながら、井上の意図が読めない。
「分かりました」
井上は立ち上がった。
「明日の面談が終わってから、改めて」
「え?」
「きちんと、お話ししましょう」
蛍光灯に照らされた井上の横顔が、どこか凛としていた。
「私にも、覚悟が必要です」
そう言って、井上は小さく息を吐く。
「でも、葛西さんの"制約"の理由も、その時に聞かせてください」
立ち去る井上の後ろ姿に、言葉が見つからない。
背筋の伸びた歩き方は、もう次期部長のものだった。
窓に映る自分の顔が、心なしか青ざめて見える。
ポケットの中のスマートフォンが、急に重く感じられた。
カフェの外では、誰かの笑い声が響いていた。
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【完結】婚姻FA エピソード1
婚姻関係円滑化法(通称:婚姻FA制度)が施行された。 結婚3年以上の既婚者に、新しいパートナーとの人生をスタートする権利を認めるこの制度。…
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