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史上最低のラブコメ漫画家というのは正しいか

先日増田でこのようなエントリが投稿されていた。

ここではぼくたちは勉強ができないの筒井大志氏が史上最低のラブコメ漫画家であると言われている。
果たしてこれは正しいのだろうか?
結論から言えば誤りである。
なぜならぼく勉は漫画ではなくルールブックである、という意見を作者が是としているからだ。
これは漫画の定義がこう。ルールブックの定義がこう。だからぼく勉はルールブックだ、という話ではない。
作品の創造主たる作者がルールブックであるとしているのだからルールブックであるというごく単純な話である。
したがってぼく勉は漫画ではないのだからそれを書いた筒井大志氏もラブコメ漫画家ではなく、増田の書いた「ラブコメ漫画家」という括りに筒井大志氏は存在しないのだから誤りだという結論になる。
これだけではどういう経緯でそうなったかわからないと思うのでこれから解説していきたい。


なぜあのリプライはなされたのか

上記の増田で筒井大志氏が「勉強になります!」とリプライしていたと言っていたツイートの発端がこれだ。

これからFの人氏のツリーが続くが、長文のため下記に一部省略して引用する。

一言で総括すれば
「私が読みたかったのは漫画であってルールブックではありません」
物語をぶん投げたものを漫画と呼びたくないとの感想です。

4年間連載を続けてのオチが「僕達には無限の可能性がある」エンド。
ここだけ忌憚ない表現を用いますが作者氏や担当編集氏のセンスを疑います。
これで物語を総括できると本気で思ったのですか。
「僕達の戦いはこれからも続く」構文は打ち切り漫画が最後まで描けない事情をどうにか希望ある〆にしようと生み出された苦肉の策です。
とても4年もの時間とマルチエンドを書き切る余裕ある連載で用いるそれでは無いと思います。
ところがぼく勉さんの最終回はそれまでの積み上げを全て可能性でしかないと投げ捨てました。
作者氏は以前より「この漫画の正史は読者次第です」とおっしゃってましたが。
まさかマルチエンドの選択かと思いきや、すべて更地にして設定だけ残す事を指すとは思いませんでした。
例えるならレストランで5種類の料理を出されて
好きな物を選んで食べてくださいと言われていたのかと思いきや
材料を投げ渡されて「好きな料理を作ってください」と告げられたようなもの。
私見で言うならこれは料理ではありません。
ただの素材です。
最初に例示したルールブックとはそういう意味です。
TRPGのルルブには世界観が設定され、キャラクターの性格や能力データが用意され。
遊ぶためのシナリオまで掲載されています。
しかし設定を用いてどんなストーリーを展開するかはゲームマスターとプレイヤー次第の教本。.
ぼく勉はそんな作品として完結しました。
作者は設定だけ用意して道程は何も決定しない。

無限の可能性、夢のある表現ですが物語に限定すると
何も決まってない、何も起きてない、何も書かれてないのと同義です。
そもそも最終回はどんな過程を経た世界なのでしょう。
無限の可能性を踏まえると如何なる工程を経た現在であるかを定義できません。
連載1話から連続する時間軸である事すら保証するものが何もない。
あらゆる可能性が広がるならあの世界が連載中のそれと繋がっている保証はありません。
最終回に一致するシーンは連載中に描写された様子もないですしね。
物語とは設定を踏まえ過程を経て結末に向かう一連の流れを指すものと考えます。
ぼく勉はこれを全て「読者の想像にお任せします」と投げうちました。
作者はデザイナーに過ぎず、ストーリーテラーの座を捨てたようなものです。
なので最初の結論になります。
ぼく勉はルールブックであって漫画足りえてません。
物語部分が欠落、キャラクターが辿った人生を描かず構築の権利と義務を放棄したのです。
打ち切りでもなく事情により筆を折るでもなく完結として。

あと余談ながら。
某呪術ネタを使うのは止めましょうよ。
存在しない記憶がヒロイン達に浮かぶシーンにはひたすら苦笑い。
あれ何の現象ですか、何の説明も無かったのでそれも読者が決めるべきなのでしょうか。
ならあんな妄想浮かばなかった事にしたい所です。
或いはあの意味不明な演出はシュタゲコミカライズの影響で異なる世界線の流入なのかとも。
何も決めない事を決めたはずなのに余計な設定だけは無意味に付け足しますね。
それも何の説明もない現象として。
以上、作者が投げ出した以上は何も決まる事のない、公式設定は初期設定くらいしか残らない不毛の感想でした。

恋愛要素以外の評が無いとのご指摘を受けましたので軽く。
当然勉強要素も積み上げ全て無意味、当然です。
ヒロイン達は苦手分野を克服する可能性もある、その程度に集約されるでしょう。
そして同程度に克服できず大学受験に失敗する可能性も残されました。

無限の可能性。

一見すると夢のあるワードですが、これは別に成功だけを保証するものではありません。
現に先生ルートでは苦手な片づけを克服できてなかったように。
作者氏も失敗の可能性が残ってる事は認識されていたのだと思います。
そして当然最終回の頃だと主人公は未だVIP推薦を望む立場。
主人公が教師を志す事もないかもしれません。
そんなわけがない、と思うのは無理があります。
しかし何しろ無限の可能性です、可能性の否定は最終回の主張の否定になるでしょう。
物語を綺麗ごと、何もかも上手くいく前提に立たせるならそれを作者氏が描くべきでした。
それをしなかったぼく勉は繰り返しますが設定の羅列でしかありません。
これも繰り返しになりますが「私にとっては」との主語を念のため。
あくまで一読者の感想です。
他の人に共感を促すものではありません。

https://x.com/FactionOfTrue/status/1341152739271667713

※件の「勉強になります!」は「物語を綺麗ごと、何もかも上手くいく前提に立たせるならそれを作者氏が描くべきでした。それをしなかったぼく勉は繰り返しますが設定の羅列でしかありません。」というツイートへのリプライ。

これは一ファンによるツイートである。
本人も言っているように一読者の感想であり、他者に共感を促すものではない。
漫画を読んで批評するという人間として当たり前に行う創作活動だ。本人が繰り返し述べているように「私にとっては」の感想でしかなく、誰に対するものでもない。
これに対して作者である筒井大志は「勉強になります!」などというリプライをした。
一見すると「最終回を掲載し終えてエゴサして気持ちよくファンの感想を読んでいたら、癇に障る批評が目についたので威圧するつもりでリプライをした」と感じるだろう。
(増田によればぼく勉の最終回が掲載されたとき、作者は自身へのリプライに全て返信していたが、エゴサしてまでリプライをしていたのはこれくらいだったらしい。)
おそらく自然な感受性であると思うし、私自身そう感じた。
だが果たして本当に一ファンの個人的な作品への批評に対して、そんな理由で作者がリプライをつけるだろうか?その疑問を持ったうえであとがきを読んでみた。

最終巻のあとがきから

ぼく勉最終巻のあとがきに下記のような一文がある。
「今巻をもちまして、僕が切り取った「ぼく勉」の物語はおしまいとなります」
ここでは文字数が増えてページに収まらないという事情がないにも関わらず、作品の正式タイトルである「ぼくたちは勉強ができない」を使わず、しかもカギカッコで囲っている。であればここには特殊な意味が込められていると考えるのが自然だろう。
結論から言えば「僕の切り取った」という言葉はこのFの人氏への返信なのだ。
このあとがきの中で作者は「どの世界のキャラも全員それぞれの道で幸せに成ります」と言っている。
しかしそれぞれのルート以外では関城佐和子は両親と和解を果たせず、あしゅみーの父親は親友を殺したという罪悪感を抱えたままで、桐須真冬は生徒たちと真に向き合うことは永遠に出来ない。
果たしてこれで本当に幸せと言えるだろうか。
令和に勃発したkanon問題である。
では作者がこのことに無自覚であったという可能性はあるだろうか? これはないと言ってよい。
なぜなら作者の筒井大志はシュタインズゲートのファンディスクのコミカライズをしておりシュタインズゲートの大ファンであると語っているからだ。
シュタインズゲートとは言わずとしれたADVの傑作であるが、この作品の要点の一つは主人公がヒロインたちの望みを失わせてでも自分の考える理想の世界へ到達することである。
すなわち岡部倫太郎は鈴羽の、フェイリスの、るかの、そしてまゆりの望みや理想を自らの手で消しながら、それでも牧瀬紅莉栖を助けるために奔走するのだ。
この作品を経験した人間が、個別ルートでしか解決できない事件を作り出すことの意味を理解しないとは考えられない。まして彼は創作者であるのだから。
つまり彼がここでいう幸せとは本当の幸せではなく、妥協した結果の偽物の幸せでしかないのだ。
ではぼくたちは勉強ができないという作品は、この作品以外の素晴らしいラブコメディのように、たとえ想いは報われずともキャラクター各々の問題を解決したグランドエンドにたどり着くことは出来ないのだろうか。
出来ないわけではない。作者が描かなかった(描けなかった)だけで存在するのだ、ということを最終回では示唆している。
ぼく勉の最終回は各ヒロインの個別ルートを終わらせた後の第6のルートの冒頭であり、これからどうなるかわからないが物語は続いていくというものだった。
例えるなら美少女ゲームでいうところのグランドルートのプロローグで物語が打ち切られたと言っていい。

イメージ図(白い矢印が最終回。黒線の太さ長さに意味はない)

つまり作者は何も書ききってはいないのだ。終わった物語はここにはなく、これから続く物語しかない。
したがってこれはまさに言葉通りのものであって、キャラクターの人生の一部ではなく、作品の一部を切り取ったに過ぎないという表明なのだ。
僕は中途半端にしか切り取れなかったから、読んだ君たちが続きを書いてねという言葉なのだ。
作者はkanon問題を認識しており、最終回において唯我成幸が語った無限の未来が存在するというセリフはグランドルートの存在を示唆したものであるのだろう。
私は描かないが存在はする。この作品には、この設定から生まれるあらゆる可能性が内包されている。それを伝えるために最終回はあったのだ。
ここでFの人氏のツイートに戻る。
Fの人氏はこの作者の意志を正確に読み取った。だからこそ、これは物語ではなく設定の羅列に過ぎないと看破したのだ。

そして作者である筒井大志もFの人氏のツイートにより自らの盲が啓かれ、自分の描いたものが漫画ではなくルールブック、設定の羅列に過ぎないと気がついた。
描かないが存在するというのは創作者としての義務の放棄に過ぎない。示唆するだけでは意味がない。
みんなが本当の意味で幸せになる未来は読者の心のなかにあるという優しさは、物語を作らないという怠惰や、読者が想像してくれるはずという傲慢と同じなのだ。
だからこの「勉強になります!」という、一見してクソリプに見えるリプライは、まさにそのまま勉強になったという表明に過ぎない。
だからこそ他の人にはしていない、エゴサしてリプライをするという行為をあえて行い、感謝の気持ちを伝えたのだ。
最終回を掲載し終えてしまったのだからそのエッセンスを漫画に反映することはできない。
だからそのことを自ら読者に伝える手段として、単行本のあとがきで、漫画として描いてきたぼくたちは勉強ができないと区別化する意味で、カギカッコで囲った「ぼく勉」と書いたのだ。

ぼく勉は漫画ではない

ここまでくれば「ぼく勉は漫画ではない」という概念を共有できるだろう。
Fの人氏のツイートに感銘を受けた作者はそのことに感謝してリプライをし、あとがきの中でその思いを込めた。
つまりぼく勉はルールブックであるという意見を筒井大志氏は是とした。だから漫画ではないのだ。
ぼくたちは勉強ができないという作品の外形がどうだという話ではなく、作者がそう言っているからそうなのだという簡単な話である。

繰り返すがこれは作者が「勉強になります」と言って是とした概念である。作者が漫画ではないという主張を是としている以上、ぼく勉は漫画ではない。
冒頭の増田はぼく勉が漫画であるから筒井大志氏を史上最低のラブコメ漫画家としているが、ぼく勉はルールブックであるのだから、筒井大志氏が史上最低のラブコメ漫画家とはなり得ない。
よって増田のいう史上最低の漫画家というのは誤りとなる。
個人的にはルールブックである以上キミの考えたぼく勉を作ればよいということであるから、増田もそれを作るのが一番ではないかと愚考する。

(余談だが上で打ち切られたと書いた。本来は全ての不幸を解決するグランドルートに進む予定だったが、ジャンプというアンケートシステムの中では不人気で不可能だったということもあったのかもしれない。それであれば全て丸く収まったのだろう。そう考えると新連載が探偵ものというのもあからさまである。)


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