作りたい女と食べたい女…すごい一体感を感じる…
ニコニコ大百科で申し訳ないんですけど、先日、たまたま上記のページが目に止まったので見てみたわけなのですが。
このマインド、『作りたい女と食べたい女』(以下、『つくたべ』)を高尚漫画と言って譲らない人に非常によく似てますね…。
上記の「すごい一体感を感じる」のそもそもの発端は、毎日新聞の英語サイトに問題があったという件で、電凸だの何だのと大盛り上がりになったことが記録として残っています。けっこう古い話で、2008年の事件です。
さて。『つくたべ』も、この作品を崇める人たちが当事者の批判意見に群がっては叩きまくっていました。このあたりのことは後世にも伝えるためアーカイブにしてまとめたほうが望ましいのですが、一般の個々人の言動を記録するというのは「合法だから」で押し通すのには現実問題として無理があり、残念ながら口伝で残すしかありません。
『つくたべ』という漫画が合法の範囲内で盗作的行為が多数ある点を誰も擁護しないように、合法なら何やっても構わないとは言い難いのです。
最近『薔薇族』が電子配信されており、私は初期の一部のみを読んでみたのですが、かわいそうなゲイ男性のために自分が偽装結婚の相手になってあげたいみたいな女性読者の投稿があり、当事者からするとイヤだっただろうなあとか想像したりしました。こういうのを見ると、やはり紙というメディアの伝承能力は偉大だなと考えてしまうわけですが、それはそれとして置いておきましょう。
そもそも何故『つくたべ』に対する当事者視点の批判が差別発言でしかないように叩かれまくったのでしょうか。創作においてマイノリティを描くという課題に関して、パーフェクトな回答を持って描くというのは、例えば『ふたりでおかしな休日を』で描かれている総意問題のように、当事者を含めて非常に難しいものであり、特に当事者による批判意見に関しては素直に受け止める謙虚さを必ず持たなければなりません。
にも関わらず、『つくたべ』における一部読者のネット上における暴徒的行為はとにかく思考が狭すぎる非常にみっともないものであり、まさしく「すごい一体感を感じる」以外に形容のしようがありません。「極右と極左は隣り合わせの近い存在」などと呼ばれて久しいものですが、昨今においてもそういった現象は相変わらずなのでしょう。
そもそも『つくたべ』のチャリティ活動は「同性愛を描く人間として、できることはないかと考え」から始まっているらしいのですが、創作において行うべきことは本来創作を通して訴えかけることであり、作品の「正しさ」が外部活動に依存するのであれば、それは作家としての怠慢に他なりません。
何故、同性カップルが同性婚を求めるかと言えば、最も多く挙げられるのが病院絡みや死別の時の不安であり、同性婚訴訟の当事者による著書にもそのあたりはしっかりと書いてあります。果たして『つくたべ』はそこまで触れたでしょうか。「そんな現状を、物語を楽しむひとたちにも知ってほしい」と述べた著者が自らの発信の責任を取らないままであるのは何故なのでしょうか。
さらに付け加えるなら、『つくたべ』は各マイノリティ当事者を特別扱いせずにひとりの人間として接することを完全放棄したデタラメ漫画であり、極めて深刻な差別的作品であると私は繰り返し指摘してまいりました。「ふたりの幸せは、物語のなかだけで完結してもいいのでしょうか」と打ち出しつつも、レズビアンを「助けてあげなきゃいけない人」とだけでしか捉えていないのは一体何のギャグなんでしょうか。
極端な話、「すごい一体感」という名のエクスタシーに浸るのも自由ではありますが、そこから何の進歩も生まれないことはきちんと知るべきだと、私は思います。
余談
最近(2024年11月基準)の漫画で「レズビアンを特別扱いしない」「同性婚が認められていないという問題提起がある」の2つが満たされてるのは、私が読んだ中ではやっぱりこの漫画かなあと思います。まあ、ところどころ「これでええんかな?」と個人的に感じる描写もあったりしますが。