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ざらざらとした質感

手に残るざらざらとした質感。
秋はそんな感じ。
夏のじめっとした空気が急にどこかへ行ってしまって、湿度の無い空気だけが取り残される、そんな感じ。
長い間公園でぼーっとしていると、着いていた手のざらついた質感がなんだか秋っぽいなと思ってしまった。物理的なザラつき、というより秋はなんとなくノイジーな感じだから総じて「ざらざらとした質感」がしっくりくる。

春夏秋冬とある中で、春と秋は似ているけど違うよね。という会話っていつしたんだっけな。
春は光が青っぽい、新緑の青ではなくて光そのものが青く感じる。秋はその青みがない。黄みもない。1番ストレートにそのものたちの色がダイレクトにくる。光で誤魔化されてた質感もなくなり、余計にざらついてしまう。

こんな時は感傷的な音楽がいちばんその凸凹にしっくりきてしまうから、嫌いだけど大好きなサブカルっぽい自分に浸ってしまう。中学生、高校生の時に素直に聞けた青春ソングを聞けなくなったのもそのザラつきのせいかもしれない。「青っぽくて嫌だ」なんてまるで春が嫌いだとでも言わんばかりの。中途半端な2つの時期は、心象的には真反対だなと常々思う。冬や夏が真反対なのと同じで。
冬や夏で言ったら私は冬が好きだし、春と秋で言ったらこれはどちらも好きだ。つまり夏が嫌いだ。好きだったはずなのにいつの間にか嫌いになってしまった。

最近はそういうのがよくある。
好きだったことを好きなままでいられるのは才能なんだろうな、と考える時が増えた。
死なない程度に心が死んでいたことにも気がついてしまったし、好きだった写真を撮ることも減った。自分の写真を見返すこともしなくなってきたし、見て今の写真にときめく事が無かったらどうしようと不安になってしまうことが大きい。
なんとなく心もざらついているのかも。

少し、ほんの少しだけ自分のギアを緩めることにした。この1ヶ月目まぐるしく自分を遣っていた感覚があったけど、止めようにも変えようにも方策尽きた感覚が漠然とあった。

自分の言葉のはずなのに自分のものじゃないな、と思うこともたくさんあった。

今はゆっくりと好きな冬に向かっていくざらついた感覚が馴染んでいくのをじっくり待とうと思う。

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