92 議論や対話が無条件でよいものとは限らない

水原希子さんの記事を読んで

彼女は父はアメリカ人、母親が韓国人で以前からネット上で出自のことで攻撃対象になっていた記憶あるが、情報発信について、あるいは議論について、語っている部分が興味深い。

「差別についてブログなどに書いている時期もありましたが、コメント欄で意見が分断していいくのは本意ではなく、ただ自分らしく楽しそうに活躍する姿を見てもらえばいいと考えるようになっていきました」

ネット創成期の無邪気な理想論の中で、言論空間の自由が促進され、議論が活発となり多様性やデモクラシーの側面で良い効果があるようなイメージが流布したが、現実はご存知の通り感情のゴミ箱だ。

ネット空間のそこここで議論がかわされることは理想的で健全か?沈黙の螺旋理論、集団極性化など人間がアホである事実をふまえて場を設定しないと
議論は逆効果となる。で、その逆効果は今も集団の思想形成に寄与していて、意見表明がよいものという誤解がそれに拍車をかけ、ライオンの檻に生肉が投下され、それぞれの人が自己のトラウマや抑圧のはけ口に収集はつかなくなり、それぞれの人の心に歪んだ物語が形成されるのみで、攻撃性を増幅させたまま、日々の日常、社会生活にアジャストできず、あらたな抑圧を感じ、そのうちのいくつかは誤った議論により生成された自らのイデオロギーにコミットする真剣さ純粋さゆえに過ちに至る。


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