【二輪の景色-13】行き違い。
バイクは時にヨーヨーのようだと思うことがある。どれだけ足を伸ばしても、糸が目いっぱい伸びきれば、じき自分の巣に戻ってくる。留鳥が上昇気流には乗っても偏西風には乗らないのと似て、限られた枠の中で完結していく。枠といっても可視的なものではなく、線引きは心の揺れが教えてくれる、そうした類の精神的な境界線の内側で。
糸の切れた凧のようにどこまででも走っていけそうなクルマとはどこか違う。クルマは渡り鳥になれるが、バイクは止まり木を求めて先へ先へと進まないし、彷徨わない。バイクにとって道は彷徨うためにあるのではない。道は走るためのもの。走ることが目的だから、彷徨っているのではない。道に踊り出れば、それはすなわちいきなり目的が達成されることになる。バイクはその完結を連続させて悦に浸る道楽。読み終えれば閉じる書籍のように、目的は旅をひと花咲せるごとに終わっていく。
君はひと咲きしたのちに、僕の元に戻ってこなければならない。
「そんなだったから、私は籠を飛び出してきたの」と女は言った。旦那がどれだけレクサスのアクセルを踏み込み、女の襟首を捕まえようと必死の形相で手を伸ばしても、高級車とて日本国内で売られるクルマはリミッターの制約で時速180キロを超えるととたんに加速を止めてしまう。
「典型的な昔のエンジン、空・油冷ではあるけれど、伝統的な水平対向エンジンはたった80馬力しかない。それでもこのバイクはリミッターとは無縁の外車よ。時速180キロを超えればレスサスをぶっちぎるなんて容易いこと。時速200キロを越えるあたりから、みるみるレクサスをバックミラーの後方に置いていける」
テーブルに無造作に放られたiPhoneは電源が切られていた。電源を入れるととたんに騒ぎ出す旦那からのメールやLINEや留守電にはもううんざり、放られたiPhoneはそんな女を代弁しているようだった。
「時速200キロを超えた世界って知ってる?」噛み合わない視線にかまうことなく、女が観客のいない空に向かって訊いた。ほかの誰かが近くにいたら、誰に問われたのかわからない。それほど人から距離を置いた投げかけ方だった。
「いいえ、わかりません」敬語で応えていた。しかも、予習できていなかったところを問われた生徒みたいに、精神が気まずさと羞恥によって直立してしまった。
「教えてあげようか」まさかその発言に深い意味はないのだろうが、つい不埒になって、映画『個人授業』の高校生ボビーにされてしまった気分になった。映画では大人の女性に手ほどきを受ける。どんな手練手管で迫ってくるのか、心臓も違うところもドクンと脈打つ。女からは色香がいたるところから滲み出てきて、誘惑の触手が見る間に広がっていく。
だけど女はいともあっさりと幻夢を振り払う。「しがみつくの」
「しがみつく?」誘惑する女なのに、まるで従順な奴隷のようにすがるということ?
「そう。しがみついていないと生きていけない世界」
女は、過去の自分を振り返っている。しがみついていないと生きていられなかった過去の瞬間を。それは、握っているハンドルからひと時でも手を離すと、直後に体が後ろに吹っ飛ばされる世界。「あ〜れ〜ってなもんよ(表現はいちいちいやらしかった)。生身の体が路面を転がり、止まることにはズタボロになっている。いろんなところを剥かれて(またしても刺激的なお言葉で)。そんな世界。しがみついていたって、生きて止まれる保証はない。石ころひとつで前輪が弾かれて、バランスを崩す。そうなった状態を持ち直すなんで無理な話。無事に生還できたら奇跡でしかないわね。それでも無事にこの現世に戻れたら、終えたあとの充実感そのものを味わえる(女は明らかに挑発している。そうとしか思えなかった)」
女はそこまで話すと、冷めかけたコーヒーに口をつけた。ずっと冷めるのを待っていたんだろうか。口をつけて初めてカップに口紅がついた。
冷めるまで待っているよ。熱は放っておけばじき下がる。悪い病気に侵されているのじゃなければね。
冷めていく過程って魅力的だと思わない? 切ったエンジンが膨張を解いて元の静止した姿に戻っていくところかんか、とってもセクシーだと思う。止めたエンジンが小さな金属の吐息を吐き出すように、君もクールダウンしてくればいい。君が僕に冷めなければ、世の中のほかのすべてが冷めきってもかまわない。
「お互い、バイクが好きだっていうのにね。囚われているところがまるで違うのよ」
口をつけたのに、女はコーヒーをすすろうとはしなかった。持ち上げたカップをそのままソーサーに戻し「そろそろ帰らなくちゃ」と言って手をあげた。ウエイターが席まで来ると料金を支払い、女は「冷めたことだし、帰るとするか」と、誰に向けてかわからない言葉を宙に放った。
バイクはBMWのR nineT。高輪ナンバーだ。ここからだと優に1000キロは離れている。女は一気にここまで走り、元きた道をそのままなぞり直すように帰ろうとしてる。
「そんなだったから」と女は言っていた。お気に召さない何事かが起こってしまったからバイクをぶっ飛ばしてきたというわけか。おそらく時速200キロを振り切る勢いで、超えてはいけない壁を抜けて。
すり抜けた壁のこちら側で、女は心をコーヒーに映していた。あくまでもメタファーとして目視し、客観的にそいつが冷めるまで待っていたのだ。
唇で熱が取れたことが確認できれば、それが合図となった。「私も冷めた」そう自身に言い聞かせたのだろうと思った。
彼女のモヤモヤはおそらくうまいこと消化できたに違いない。だけど女が去った今、なぜだか僕がモヤモヤしてる。