【二輪の景色-2】街と、その不確かな道。
走るべき道はあまりに多く、走り得る道はあまりに少ない。おまけに時間は死ぬ。「ああ、今日、無理してでも遠くへ走りに行けばよかった」と悔やむ日があっても、走らなかった時間は走らなかったものとして刻まれ、過去の倉庫に放り込まれていく。あとから思い出箱の鍵を開けて振り返ることはできるけれども、失われた時間を新たになぞり直すことはできない。
街はいつもと同じように目覚め、さも昨日を繰り返すみたいにして今日を上塗りしていく。だけど今日は昨日とは違う。新聞の間違い探しに目を止めるみたいにして、街を観察してみるといい。そこには、見過ごしてしまいそうな些細な変化がある。必ず。花屋は新装オープンし、古老の店主が死に店を閉じているかも知れない。目に止まりにくいところで、街は昨日と違った姿を見せてくる。
街は不確かで、蠢いている。少しずつ。街に張り巡らされた道も街に合わせて微細な変化を怠らない。まるで太鼓持ちが仕える主人のご機嫌を損なわないように、金魚のフンみたいにして主人についてまわるのと同じように。
たとえ今日の道が昨日の道と違っても、その差異は微々たるもの。気に留めるほどのものではない。だから、手の届きそうなところには行きたい時に出かけるようにしている。私には翼がある。タンクに描かれたシンメトリーのウイングがその象徴だ。私はその翼で街の上空を飛びまわる。キーを差し込み通電し、セルを回してエンジンを温め、メットをかぶって自動遠心クラッチのギアをローに入れる。あとはアクセルをひねるだけ。街の、不確かに変化していく道に繰り出す。
ただし私の翼はささやかだ。世界を股にかける渡り鳥ほど航続能力に長けているわけでもないし、馬場を疾走する駿馬ほどの馬力もない。私自身に根性もない。
手の届かない、足を伸ばせないところもまたあまりに多い。国内を見まわしただけでも数え切れないほどの未知がある。
走りたい道はあまりに多い。だけど走り得る道はあまりに少ないのだ。おまけに道は日々不確かになっていく。昨日得た道の知識は、今日には通用しなくなっている。不確かな道が、昨日築いた自信を、今日、いとも簡単に打ち砕く。
街の道に不安はない。ホームで戦うサッカー選手がフィールドにできた多少の難をゆとりでこなすのと同じように処理できる。違いは些事であり、慣れが難をねじ伏せる。
ところが街を出た道は、変化を積み上げている。日々の変化は畳の目ほどでも、チリも積もれば山となる。どれほどの変化を遂げているのか未知数だ。
だから恐さがある。昨日「だいじょうぶ」と自分を鼓舞しても、根拠のない自信は煙が霧散して宙に溶けていくのと同じように、しばらくするとすっかり消え失せ、今日には踏み出すはずの一歩を踏みとどませる。湧いて出たはずの勇気が萎んでいく。
明日、明日には出かけようと心に決めたのに、翌日には来週にしようになって、翌月に、になった。さらに来季に、に引き伸ばしたら、結局は年が変わって1年経って今日を迎えた。
私はさて、籠の中の小鳥だったのかしら? 踏み出したくても、小心が鳥籠から出ることを躊躇わせたのかしら? あるいは定まらない街を縫う蠢く道に翻弄されているだけ?
籠に飼われているのではいけない。私には走りたい道がある。走るべき道がある。壁に阻まれたまま終えてしまうのではいけない。
私には翼がある。時代を超えて蘇ったダックス125の、首輪の横にちょこんと生えた左右の翼。私の翼。
街も不確かだけど外の世界はもっと不確かで、道はそれに輪をかけて不確かだ。だけど翼は、きっと一足飛びに壁を超えてくれるに違いない。
あれから1年が飛ぶように過ぎている。そろそろ覚悟を決めなければならない。
幸い私には時間がある。雨の心配もないではないが、ちょうど今、雲が切れた。
今しかない。
私は防水バッグに1週間分の荷物を詰め込み、リアシートにくくりつけた。