テキストで奏でるピアノマン。
目の端をかすめていった映像。都会を渡る数えるのにも億劫なほど雑多な音階に紛れ、いつもなら残像さえ尾を引かないはずなのに、メロディが行き過ぎようとする足を止め、背後から手を伸ばし我が手をぐいと引いてテレビの映像に振り向かせた。
「Sing us a song, you’re the piano man
Sing us a song tonight」
ーーピアノマン、歌を歌ってよ。今宵、僕たちのためにさ。
ビリー・ジョエルのピアノマン。
なぜこんなところにキミがいる?
声はすれども姿は原田泰造氏だった。
いつもなら、つるりと手のひらから逃げていく映像が、手のひらに残っている。
NHKの土曜ドラマ『六畳間のピアノマン』。
ふだん観ないテレビに存在感はない。だけどその時ばかりは違っていた。立ち尽くしたまま、クライマックスの最後数分間を受け止めていた。
歌詞は、バーに集う孤独な客たちが語り、酔い、あしらいあしらわれながら、役に立ちそうもない時間の中でほんのり幸せになっていく様を描く。
ドラマは、幸せを踏み外した男が、新しく紡がれていく人との絡み合いにすがり、残されているかどうかわからぬ幸せを絞り出そうとしていた。
続きが観たいな、と思った。先月のことである。
だが、ふだんから観ないテレビは踏襲され、切なくも脆いアヤウイ願望は、狼煙が尽きるように繰り返される日常の中に消えていった。『六畳間のピアノマン』は、あの尻切れならぬ頭切れトンボの一話で途切れた。
「ピアノマン」もあれきり聴いていない。
ドラマのことなどすっかり忘れていた3月の大雨の日、やたらとしつこい雨音を紛らわせるためにラジオをつけた。宮城地震の被害が明らかになり、気温は4月並みだと、有名か無名か知らないアナウンサーだかパーソナリティだかが、どこか弾んだ声で話していた。プライベートで喜ばしいことでもあったのだろう。
「ではここで」
どこかのタイミングで、いつの間にやらパーソナリティが入れ替わっていた。
ラジオはテレビほどではないにせよ、ふだんあまり聴くことはない。聞き耳を立てるような聴き方をしないものだから、残像が尾を引くようなことは滅多にない。
だけど、続く言葉に心をつかまれた。
「ビリー・ジョエルのピアノマン」
「He knows that it’s me they’ve been comin’ to see
To forget about life for a while」
ーー彼は、客が僕目当てだということを知っている。束の間、日常を忘れるために。
そしてこう結ばれる。
「And say, “Man, what are you doin’ here?”」
ーーそして(ピアノマンに向かって)言う。「アンタ、ここで何してんの?」
酔いも度を過ぎれば前後不覚に。
でも。
そんな時間が愛おしい。
役に立ちそうもない時間でも、それが積み上がる毎日が続いても、息遣いは紡がれ、支えになってることってあるからね。
「アンタ、ここで何してるの?」
何にもしていなくたって、いるだけで安心することもある。