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失くしたくないものについてを斜に構えて考えてみた。

 その人は、経過時間に合わせて物事を考え口にできる人だった。職業柄、というのではないとは思うが、終業チャイムできっちり授業を切り上げるまさに先生向きの思考回路だと思った。あの人の、空に浮かぶ思考を銀河鉄道の夜の鳥を獲る人みたいにして形ごとに切り取って、意味ごとにまとめて脳味噌という鳥入れ袋に詰め込んでいくタイプとは明らかに違う。なんて言えばいいのかな、時間は思考とセットの固形物で積み上げていくものとして捉える者と、思考も時間も無形物で可視化しないと理解できないと考える者との違い、と言えばわかりいいだろうか。

 便宜上ここであの人と呼ぶ人と、無駄を悉く切り分け排斥していく青年とは、理路整然と知識をまとめ積み上げていくという点で共通しているように見えたが、まとめ上げたものを反芻して吸収しようと試みるあの人に対し、青年はブラックホールが光を飲み込むみたいにして他を巻き込むことなく深く濃く確かにそして静かに聞いたそばから知識を人知れず丸呑みする点において異なっている。青年は何事に対しても自分という基軸に物事が集まってくるといった雰囲気を放ち、他の頭のいい人と称されるのと同じ色彩の空気を行燈の淡い光の如く放つ人物だった。

 これら個性と呼ぶものは、教室もしくはその周辺では感じ取れない類の無形物だ。教室もしくはその周辺では意識は黒板にピン留めされたまま固定すべきものとして空気感が強いてきたし(もっとも今どきの教室は黒板などという文化遺産クラスのアナログ機材に頼ることなく、パソコンで作成されたテキストのサマリーをスクリーンに投影する味気の抜けたものに変容してしまっているのだけれども)、順位を競うものではなく各々が合格点を目指すものだから敵対心の対象は他人ではなく自分自身であるという自己責任に委ねられているために(しかも完結しない自己責任)、気を抜くことができない。いつ足元を掬われるかわからぬ恐怖と戦い続けなければならないのだ。だから生徒は答えのない問いの正解率を上げるために、血走らせた目で科目習得のためにひとつでも多くの正解探しに躍起になる。余念が滅せられる所以。
 教室もしくはその周辺で繰り広げられる聴講外時間の話題は、もっぱら授業で生じた不明点の探究であり、聞き取れなかった単語の取りこぼしを拾い上げる作業に当てられる。中には愉楽としては唯一の昼食のお店選びをつまみ上げる者もいるが、三歩歩けば忘れ去られてしまうような個人の思い出に帰結する話題に重みが宿ることはない。

 人の心にふれるには、解放された瞬間こそを狙わなければならなかった。つまり、翌日に試験を控えていない、縛られない放課後▼▼▼▼▼▼▼▼に的を絞ったってわけなのさ。

 なぜそんな無駄なことをする? と4人目が問うてきた。君は言う。だってみんな資格を取りに来ているだけなのよ、と。
 確かに無駄なことかもしれない。それに、重い腰を上げなければ場が組み上がらないから億劫でもある。先頭に立って旗を振るなんて、馬鹿げていると考える自分もいる。ラカンの唱えた鏡像は、常に我の内側にあって、いちいち干渉してくる。反対勢力に押し切られそうになることも多々あるけれども、押しのけ挫けそうになった悄気を奮いたたせて、する。
 これまでやってきたことだから、というのもある。慣れが長い休眠を終えて、雪解けの春に流れ出ようとしたのかもしれない。そこに実はもうひとつ理由があった。長い自粛期間で多くが内に籠るようになった。でもこれを放置すると、人を知ることができなくなってしまう。人を知れないと気力が細り、つまらなくなっていく。つまらなくなるのは嫌だから、厄介ごとと知りながら着手する。

 そうすれば何が起こるか。
 起こしたことの渦中に入らなければ知れないことが起こるんだよ。

 東大の院を主席で卒業した人が言っていた。「うちに無駄はない」。使用頻度の高い靴しかない実用一辺倒の下駄箱、汎用性優先で絞り込まれた食器類、動線も考え抜かれ、すべてが効率的に組み上がっている。就職先で昇級があり管理のために出社日が増えたというが、小さい子供が遊びまわる家での在宅勤務に気を遣うよりはよっぽどいいと本音がこぼれた。家では猫を飼っている。「猫がいるから保っていられる」と次なる本音が追い打ちをかける。

 ほら。

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