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4次元は我にあり。

『三体』。
 いよいよ終盤に差し掛かる。
 Ⅰが出てその高評価を耳にし、Ⅱが出て続きがあることを知り、Ⅲが出て完結だと言うから読み始めた。まずは順当にⅠから。
 あらすじをどこかで読んでいたのか、見慣れた風景と展開が続く。それとも評論の読み込みが過ぎたのか。読み進むにつれて、既視感がますます強まっていく。なぜだ?
 それもそのはず、読み終え結末まで知っていたということは……Ⅰは出版されてすぐのころ、すでに読んでいたのだ。今でも既読だったことに違和はあるが、状況証拠はそろっていた。「ワタシはすでに読んでいる」という。
 3部合計で5冊。5分の4まで読み終わり、いよいよ終盤に差し掛かった。物語が二転三転し、一体どこに流れつくのかまったく予想がつかない手に汗握るサスペンス(ただしⅢの上巻は先を急ぎすぎたのか、出版社が完結させたかったのか、全体的にト書き調で、プロットの台本を読んでる感が否めない)。
 そのⅢの上巻、終始4次元世界が登場する。

 4次元といえば実際に触れたことも目にしたこともないけれど、耳になじんでいるところではブラックホールが割と想像しやすいところ。立体3次元を飲み込むその様は尋常ではなく、人知のおよばない空間(あるいは空っぽ?)だ。
 そのブラックホール、宇宙のどこにあるのかわからない。天文学も不案内だし、科学に至ってはちんぷんかんぷん。それでもラックホールのことをぼんやりと考えてみた。ぼんやりとしたブラックホールは芒として漠で、想像できないほど遠くにある。遠くにあってよかったと胸を撫で下ろせるほど遠くにある。よかった。だって仮に月の隣なんかにあったなら、いつ飲み込まれてしまうかわからないんだよ。

 4次元世界は、科学者や思想家があれこれ思いを巡らせ、いろんな仮説が意味をなさないまな板の上に乗せられているけれど、どれかに正解が含まれているのかな? それともまだ「コレ」といった核心に迫ったものはないのかな。真実もまた未だブラックホールの中にある。

 現時点での科学力では、4次元世界を解き明かすことはできないのだろうか? 考えあぐねていると、イメージに近い世界が身近にあった。意識だ。意識は理性で3次元立体構造を描き、2次元コミュニケーションツールを通じて対話相手に3次元で復元してもらって伝えるべき内容を伝達するのに使う。いわば現世の『思考による悟られ』送受信きだ。その『思考による悟られ』で第三者に伝えられるのは、あまたの閃きから余分を取り除き、都合の悪い部分を切り落とし、考えうる言語や記号や数字を駆使してもっとも無駄のないシェイプアップされた形態でだ。3次元で構築された意味や内容を2次元変換し、伝達相手の思考の中でお湯に浸けて元に戻す食材のように3次元の立方体に復元してもらうことで、一連の伝達儀式が完結する。
 伝達するために存在する次元は、実は便宜的に2次元と表現した世界も含め、すべて3次元で展開されている。
 だが意識には、伝達を目的としない世界がある。つまり。そう。シェイプアップする前の意識こそ3次元を超えた高次元世界そのものなのではないか。

 事業のプレゼンのさなか、クライアントの反応に次の手を精査しながら、すでに成功した暁の未来に何かしらの算段(皮算用)をとる自分がいたり、摂り損ねた遅めのランチメニューに期待を膨らませてしまう意識は、3次元世界の域を逸脱している。
 荒くれ漁師にしても、荒れ狂う大波の大海原で漁獲に命が晒されていようとも、ふと前夜の子煩悩に破顔した時間が去来して、にたり思い出し笑いで周囲に気味悪がれることもあるだろう。これらはすべて3次元を超えた世界で展開される向こうの次元▼▼ ▼▼ ▼▼の現実なのだ。

 これらを4次元と呼ぶにはまだ証拠が足りない。ただ、3次元より次元数が多いことだけは感覚的にわかる。
 これ以上のことは、まだ未知数だ。劉慈欣りゅうじきん氏の締めくくる『三体Ⅲ下巻』に、すべての謎が解決されていくことを期待するばかりである。

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