ヴィトンの冒険。
美男美女がポーズを決める姿は、薄っぺらく味がなく、嘘っぽい。ありふれすぎ、見慣れたせいもある。
ヴィトンの広告紙面が目に飛び込んできた。苦味を含んだ一過言を醸すとうに角を過ぎた巨人女の赤髪おかっぱ頭の上に、ビキニ女がO脚で無言の抗議をするような顔をして、ポップなバッグをコメディタッチで持っていた。これまでのヴィトンでは考えられない格好の悪さ。だけどそこには味がある。
正に対して負の引力で抗うギャグの面もち。それは、表面ではなく、レコードでいうB面からの訴状。
もしこうした地べたからの逆襲的な、雑味苦味を含んだ着飾らない生身の人間的なアプローチがこれからの主流になってしまったら、梯子をあえて踏みはずすギャグの不可逆的アプローチはどうなってしまうのだろうと不安になった。裏をかくのがギャグの宿命ならば、裏を裏返せば元に戻って表になってしまうではないか。それとも裏には別の裏があって、裏の深みにハマっていくだろうか。
ギャグは格好いいものじゃないと相場は決まっている。その格好悪さを醸す雰囲気の雲に、人のもついやらしさや醜さをひっくるめ、桁をはずした滑稽を剥き出しにしてきた。「きれい」と発する言葉の本心は、目にするパステルカラーとはほど遠いまだらの濁色で、表面の美化膜を針で突いて破れ去り、露わになった中身を茶化してギャグとしてきた。それなのに、ヴィトンときたら。ギャグの専売特許領域に土足で踏み入っちゃって。
綺麗事では渡り切れない渡る世界の荒波を進んでいけるのは、きれいな心なんかじゃない。
世は押し並べてきれいじゃない。作り込まれないと、きれいは雑多で種々交々のなんでも収納袋から這い出すことができない。玉石混淆の海から浮かび上がることはできない。きれいは稀で貴重なものだ。滅多なことではお目にかかれない高貴な光輝だから、人はきれいを求めるようになったわけだし、憧れの的としてきた。こうしてきれいが横行してきたのだし、大手を振って玉座に君臨するようになった。だけれどもともときれいは希薄で軽薄なものだったから、それらは積み上がるほどに嘘っぽさが増してくる。避けがたい現実だったわけよ。
きれいの思ったほどではない質量に、人は気づいてしまったんだね。そして本物を求めるようになった。製品の本物具合を見栄をもって求めるのと並行して、着飾ることでは見えてこない本物の人間らしさを覗き込むようにして探しはじめたんだね。
それをヴィトンが新戦略に利用したというわけさ。もっともらしいホラ話ーー自分の勝手流解釈で、きれいごとを並べたてた戯言なんだけれどもね。
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