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人間失格、書いてください。そう編集者は詰め寄った。

映画を語れるほど偉くもないし造詣も深かないから、ふだんは観た映画に対するロクでもない自意識の錯綜は表に出さずにさっさと収納袋に投げ込んで口を結わえてしまうのだけれども、noteの某タイトルに足を止められて、口をついで出る口笛のようにコメントしてしまった。

重さも説得力もない、風の歌みたいな軽口である。

コメントは、記憶に新しい映画だった。
観て、批判、批評、感想はおくびにも出さずに、そのままを受け止めていた。
何事もなければ、波風が立つことなく、心の引き出しにしまって終わるはずだった。

だけど、20歳代前半女子の投稿が、しまいこんだはずの記録ボックスに切れ目を入れた。

映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』見たけど、人の愛ってこんなに突き抜けられるもんなの?

その切れ味は、和紙にすうーっと引くカッターみたいに清冽で、内側に収まっている臓器をみごとに白日の元にさらした。

いったん閉じたはずの包みの膜が、ぱっくりと口を開けている。
剥き出された内臓が、痛痒く辛く、眩しさに眉をひそめて疼いた。

太宰を研究している助教授に教えを乞い「卒論は太宰で」などと専門家で立場もレベルも違いすぎる相手に対し、なんと無謀で稚拙で傲慢を口にしたことか。忘れてしまいたくて、幸いしばらくの間は記憶から飛んでいたけれども、ずっとなりを潜めていた過去の恥部が、押し込んでいた分の反動を加えてあからさまな存在感をもって蘇った。
取りかかって初めて身の程知らずを知った。
思い出したくなかった大学時代の思い出。

映画で復習するまでもなく、太宰が根源的に振り払おうとしていたものと自分の恥が重なってくる。
恥の多い人生は、きれいさっぱり振り払ってしまいたい。今なお、その思いは健在だ。

投稿者asu さんは、現代女性の、彼女の立場(年齢を含む)から太宰を切った。
それについてとやかくいう権利はないし、口にするつもりもない。むしろその投稿内容から気づかされたことがあって、読ませてもらってよかったと思っている。
少なからず太宰に傾倒した前歴ある身としては、僭越だけれど、良くも悪くも太宰にふれてくれてありがとうございます、である。

畏敬と感謝の意を込めて、キーを打った。
以下が彼女の投稿に寄せたコメント。

「asu さん

不思議な映画でした。
恋愛から見たのではなく、折れそうになる心をつなぎながら生きていくのに恋を求めた、その生き方として。
映画の主人公は、恋愛の代わりがあれば、恋をモチーフにしなくてもよかったように思いました。
投稿された恋愛感、考えさせられながら読ませてもらいました。
思考を刺激してもらった思いです。」

返信があって、目を通したらケバついた心情が凪に戻っていった。彼女の、立場を違えて物事をとらえられる機転の効いた視野の多様性に、懐の深さが備える安心感を覚えたからだと思う。

受け止められる人は広く、そいつが心地よい。


卒論では村上春樹論を書いた。当時『1973年のピンボール』が氏の最新刊で、『羊をめぐる冒険』はのちに発行される、その狭間のことだった。

余談。
卒論の対象にするには早すぎた。
助教授の開口一番のひと言。
「だれそれ?」

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