吾輩は野良である。
吾輩は犬である。名前はいっぱいあってな。行く先々で違った名前で呼ばれている。
昭和も後期に差し掛かるまで、軒下や庫裡下や橋下はじめ、雨風凌げる住処に事欠かなかった時代には野良がたくさんおってな。吾輩もそのうちの一人ならぬ一犬であった。
犬だから、野良だけどドラじゃない。ドラは猫の専売特許。ほら、サザエさんが追いかけていたあいつ。お魚くわえたドラ猫を追いかけていたじゃない。ドラ猫とは言うが、ドラ犬とは言わん。
元来ドラ猫とは、飼い主のいない悪さをする猫を指すわけで、ドラ犬がおらぬのは、犬は猫と違ってこそっと拝借つまみ食いなどというはしたない真似はできないようになっておるからである。
かつて猫には悪いやつが散見できたが、古今東西、犬に悪いやつは史実の中にも見当たらない。
犬は孤高の狼と似て、誇り高き種族であることが、悪い噂の火種を作らずにきた理由である。されど高楊枝で食ったふりしても空腹は残酷で、生き延びぬことには明日はない。だから、したたかな知恵の産物、媚びの托鉢、忖度求めてご飯ちょうだいの体で従順の演出、それも飢えを回避するための方便、ご飯くれたら尻尾を振って欣喜雀躍演じてみせて、次につなげる。かくして三度の飯をゲットしてきたわけである。
『吾輩は猫である』のあいつのように、慈悲深き英語の先生に拾われ居座りたいわけでなく、未来の科学力でロボットと化したドラよろしく、ダメダメの間の延びた少年に尽くしたいとも思わない。よって今でも一人身ならぬ一犬身であってな。
一犬身を、なんと読むか、だって? そんなの、わかりきったことでしょう。吾輩に尋ねることじゃない。馬に聞かせる念仏が無駄骨で終わるように、犬に質問は猫に小判と同義と考えてもらいたい。投げかけられれば、取りにもいくさ。でもそれは、ボールとかフリスビーの類に限ってのこと。肉体を駆使するのに厭いはないけど、知能がらみの話にはあえて関わらないようにしているのである。犬には犬の思考回路があって、人の思考回路は相容れないようになっておる。言葉を尽くして語り合ったら、どちらかがショートしてしまうから、喋れないことにしている。昨今の喋る犬、喋る猫には頭を悩ませておるのだが。あんな掟破りが現れるものだから、いつかバレるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしておるのである。
というわけで、仮に語り合ったとて、理解し合えない意識の壁が邪魔をする。どうせわかり合えない二人なら、無駄な努力はしたくないから、傷つく前の妙手を一つ、一線引いて互いに超えないことである。
超えれば男女の仲になるのと似て、取り返しのつかないことに発展することだってありうるのだ。
超えぬが花。超えぬは互いのため。超えれば吾輩も子飼いのペットに成り下がっちまう気がして恐ろしい。
犬の生き方は、犬の数だけあってな。人間の下僕として生きるもけっこう、人とパートナーシップを組むのも一興、吾輩のように人類とつかず離れずのスタンスで犬らしく生きる一生も大ありなんである。
現代と違って、飼い犬か保護犬かしかいなかった狭い了見が幅を効かせる前の、古きよき時代に生きた吾輩のおはなし。
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