剣でもなくペンでもなく。研で戦え。
今の大人は1世代前の大人と少し違って「大人ならこうあるべき」という枠を自分にはめなくなった。そのような傾向が間違いなく現れている。それが証に、判で押したような似たもの大人は見かけなくなった。それぞれがそれぞれ的で、町内に必ず一人はいた縁側で顰めっ面をする偏屈親父は見かけなくなったし、青島幸男ばりの意地悪ばあさんもめっきり減った。
戦後が尾を引き貧乏から脱しようとしていたかつての日本は、明日には希望を掴み取ろうとみんながそろいもそろって今日を歯を食いしばって乗り切ろうとしていた。同じ波に何人乗れるのか、まるでそのギネス記録を樹立しようとするみたいにしてね。そのようにして日本人は横並びで労働に励んできたんだよ。そのせいで、似たもの大人が大量に生産されてきた。
ところが日本の頑張りはあれよあれよと行く道を開拓し、ついにはゴールに到達しちゃったものだから、ひとつ所に向かっていたみんながゴールの先で行き場を見失うこととなった。それぞれの道をおのおので歩まなければならない時代の到来だった。個性の金太郎飴製造機時代が終わったものだから、似たもの大人がいっせいにいなくなるのも自然の流れ。窮屈な枠に自分を押し込めなくってよくなったから、自分で自分の首を絞めるようにしてやってきたこれまでの息苦しさと生き苦しさから解放されることになる。結果、私たちは長生きするようになった。違うの?
ただね、未だに旧型の押印装置が社会人人生の終わりあたりにどでんと居座っているんだよ。困ったものだ。通過すれば「はい、これまで日本のためにご苦労さん。明日から晴れてご隠居さん。ぽん」てな具合に判を押す。
リタイアしたって、優雅に暮らせるわけじゃなし。社会と縁をぷっつり切るのも寂しい話だし。
似たもの大人からそれぞれ大人になった現代の大人たちは、もうひと踏ん張りせにゃならぬのではあるまいか。それぞれがそれぞれ的にこれから先も切り拓いていかなきゃならぬのではあるまいか。体力的に剣は持てなくても、視力的にペンが持ちにくくなっても、まだ知的能力が残ってる。人生は先のほうで生命力が細まるだけじゃない。磨いて鋭利で、研磨された者でいるために。
錆び付いてはいけない。いつでも研鑽を心がけていなくっちゃ。今の時代、リタイアしても時間は半分近く残ってる。