ケリー・ライカート

ケリー・ライカート監督映画の秘密は「距離感」にあると思う。人がもしライカート映画に「なんとなく雰囲気良いな」という印象を持っているとすれば、そのことを掘り下げて考えればきっとこの問題に逢着するはずだ。
まずはキャメラと被写体の距離感。ライカートは画角の配置のセンスがあることは誰でも認めるだろう。見ていて心地良いのだが、完全なる思考停止ともまた違う、今までに味わったことのない感覚。spotifyで放送されているラジオ「PARAKEET CINEMA CLASS」を聞いてその魅力を少し掴めた気がしたので、気になった方は聞いてみてほしい。
次に、人物同士の距離感という側面。私は人の心がほとんど読めない性質なのだが、そんな私の素朴なライカート観といえば、ワンシーンワンシーン「この人「今こう思ってます」って全然表明しないからよくわからないなぁ」という思いの連続であった。1回見ただけで内容(特に心理の機微までも含めた)を説明しろと言われたらとても難しい。しかしこれは全く否定ではなく、普段から多くの映画に対してそう感じているのだが、ライカートは特にこの感触が強い。かといってなんの引っかかりもなくこぼれ落ちていくわけではない。確かに強く印象を残すのだが、ただその心の疼きのようなものが、「喜・怒・哀・楽」といった言語的にわかりやすく分節された感情としてではなく、そのさらにずっと奥の方にあるような部分を刺激してくるのだ。これが心地良い。
翻ってみると、他方で昨今のドラマは感情のぶつかり合いが非常に多くも思える。「私今怒ってます!」「泣いてます!」が全面に押し出されてくるような。これは人間的あまりに人間的な対立だろう。
ライカートの映画には動物がよく出てくるが、人間と動物の交流は、先述したような言語的に分節された感情によってなされるわけではない。むしろ、犬をなでたり馬をなでたり牛をなでたりするするときに行われているのは、異質なものが同時に共存しているということそれだけでなんらかの交流が生まれているといった事態ではないか。つまり言語(的に分節された感情)以前の交流。
つまりライカートは、人物対動物の関係を描くようにして、人物対人物の関係も描こうとしているのではないか。言語ももちろん交わされてはいるが、その会話はきっと人間的会話とは少し違うはずだ。友情や愛情だってそう。しかしこれを単に自然派への回帰と捉えてはならない。目に見える項のアップデートではなく、項と項の関係をアップデートすることにあまりに無頓着であったわれわれは、まだライカートが何をやろうとしているかに気づけていないのではないか。

いいなと思ったら応援しよう!