小説「トイレットで起きた小さな奇跡」
二年に一回もないことだが、珍しく腹を下してデパートのトイレに駆け込んだ。シクシク痛む腹に年甲斐もなく目の際から涙を滲ませていると、隣の個室から、がんばれい、と聞こえてきた。陳腐な言葉だ、一番唾棄する類の、と思いながら、いやがんばれって…、とつい口に出してしまった。慌てて口を塞ぐがもう遅く、静まり返ったトイレの中でおそらくこちらの反問は相手方に聞こえてしまった。狼狽するが、まだ腹の痛みは治らず離室するわけにもいかない。緊張感が張り詰める。ややあって、いや、黒虎みたいな…とポツリ返ってきた。瞬間、絶語した。確かに黒虎はがんばってるとしか言いようがないが。黒虎…。いつもなんとなく目にしてる彼らの顔を脳裏に思い浮かべているうちに、その輪郭は次第に曖昧に溶けてゆき、どれくらいの時間が経っただろう。ふと気づくと水をフラッシュする音が聞こえた。腹は痛む。痛む声で、あの、とまた思わず言ってしまった。返事はない。もう破れかぶれだ、あの、黒虎、いいですよね。水流の音にかき消されたか。腹の疼きに声が細ったか。それとも声は頭の中で出ただけか。何か聞こえた気がして耳を澄ませると、スーパーのBGMか何かだ。しかしそれはどう考えても美しく青きドナウだ。ティッ、ティッ、ティー、ティリリリリリティッ、ティッ、ティー、間違いなくそうだ。そして今確かに男の声が聞こえたのにそれもまたドナウにかき消されてしまった。またあとで、と言った気もするし、外で、と言った気もするがどれも強引なこじつけであることはわかっている。完全にドナウと雑念にかき消されてほとんどわからなかったのだ。用さえ済ませれば今すぐこんなトイレなどあとにできる腹づもりはあるのだが、いかんせんその腹に足をとられている。クラシックの名曲をサンプリングした安っぽいBGMのせいで、一期一会のやりとりに思いを馳せることができなかった、不覚きわまる、などといつの間にか隣の個室の男相手に真剣になっている自分がいた。しかしいきなりの黒虎には驚いた。面識のない隣室の男に黒虎が通じると思ったこの男の豪胆さ。いや、そうではないのか。彼自身がもしかして黒虎のメンバーだったのではないか。一度でも彼の気持ちになってみたことがあったか。そもそも何に対するがんばれだったのか…。そんなことを考えているうちにドナウはクライマックスを迎え、腹の痛みもツルリと治った。おずおずと個室のドアを開けると、手洗い場には誰もいない。ただふと気配を感じて振り返ると、隣の個室のドアは閉まっている。そういえば、フラッシュ音が聞こえたあとドアが開いたかどうかはよく確かめていなかった。今この中にいるのが黒虎か、声をかけるべきか、迷った挙句、美しく、青きドナウ…ですよね、と頓狂なことを口走ってしまった。沈黙。完全に終わった。俺は変人だ。走って外に出ようとした背中に、コンコン、という扉を内側から二回叩く音が聞こえたが、私は構わず外に走り出した。ドナウはもう流れていなかった。