エッセイ「TVにちょびっと物申す」

コロナ禍に、「アクリル板」論がついに書かれなかったことは、人類の大いに恥ずべき負の歴史である。かく言う私が一番乗りをあげてやろうと書き溜めていたのだが、残念ながら書き上げるより先にアクリル板というもの自体が消滅してしまった。アクリル板が挟まることでバラエティにいかなる効果がもたらされたのか、そしてそれをマイナスのものではなくプラスの笑いに変えてみせた芸人やタレントのことについてなど、包括的研究がぜひ書かれるべきであった。
アクリル板はなくなってしまったが、ワイプとテロップは俄然なくならない。「ロケ/それを見ているワイプ」という二層構造に宿る権力差(ワイプの発言がつねにあとからなされるものであるのに対し、ロケ現場からスタジオに向けてツッコミを入れることは時制的に絶対にできない)という基本のキについてすら、誰も書いているのを見たことがない(noteをもっとディグれば書いてる人もいるのか)。
それからテロップについて。元来私は発言に付されるあのテロップというものが大嫌いであるが、それは「しゃべる」と言う発言を平気で「話す」に書き換えたりするからである。こういう蛮行を、皆さんは許せなくないのであろうか? 先日も林先生の「初耳学」に米津玄師(私の一日前に産まれた男)が出ていたので見たが、この番組の演出、編集はひどい。役所広司の回から思っていたが。もしあの番組のテロップ付けだとかを素晴らしいと感じている人がいたら、私のフォローを今すぐ外して二度と記事を見なくて大丈夫である。全くもって気が合わないから。まあ愚痴はこのくらいにして具体例を挙げると、米津がしきりと「私という人間は〜」とか「人間」という言葉を頻発するのに対し、テロップはそれをことごとく「私という人は〜」と「人」に訂正するのである。米津が「人間」って言ってるから「人間」が合ってるの! と駄々っ子のような口調で述べたくなるが、発話者の発言を尊重するとはそういうことだろう。それを勝手に「人」に変えてしまうというのは私には許せない。
それから思わず失笑してしまったのは、この番組では米津のトーク中ずっと端っこにワイプが出ており、スタジオにいるタレントが大袈裟なリアクションをとってみせるのだが(それはいい)、ただ一箇所、米津がフェミニズムの話をしたその瞬間だけ全ワイプがふっと消えたのである。まるでタレントは思想とは一切関わらせませんよ、と言わんばかりに。フェミニズムは忌避するようなものではあるまいに。米津も男性の側からそのことを真摯に述べているのに、スタジオは我関せずといったわけか。これはタレント陣というより編集の問題である。「初耳学」よりはよほど良質な番組である「EIGHT-JAM」(旧関ジャム)に米津が出たときも、King Gnu常田大希とライブで共演したことについて、テロップでは「楽しかった」と表示されていたが、私の耳には「やかましかった」と言ったように聞こえた。ボソボソと喋る特徴のある米津のことだから、どちらが正解かはわからないし、私も別に正解争いをする気はない。そうではなく、テロップなどやめて「○△×しかった」という音声をそのまま流せば、聞いた人は聞いた人なりに自由に解釈するのだ。
林先生が専門とする高校国語の現代文には「作者の意図」なるものがあり、それがただひとつの「正解」とされる。ある作家が、センター試験で自分の文章が問題に出たので解いてみたら、「作者の意図」のところで間違えた、という話は二度や三度ならず聞いたことがある。なぜ国語は「物語=内容」を教えて「表現=形式」を傍へ追いやるのか。それは、内容や「正解」はたったひとつで、たったひとつのものは大勢の人々を統べてコントロールするのにおあつらえ向きだからである。表現は多種多様で正解も持たないから、人々のコントロールに向かない。だから忌避されるのである。この程度のカラクリは最低わかっていないと、テレビを見るリテラシーなどというものもあったものではない。かくいう私はテレビをそこまで見ないが、いつも批判的な姿勢を持ちつつ番組を楽しんでいる。テレビに飲まれてしまってはいけない。

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