椎名林檎「私は猫の目」と芸人・アイデンティティ

椎名林檎の楽曲「私は猫の目」は、出だしが「弱り目祟り目当たり前世知辛い」であり、ここを発声された音として読むと「よわりめたたりめあたりめーせちがれー」である。すでに4つの「えー」が入っていることがわかるだろう。この曲は全編「えー」の音で構成されており、以前いくつ入っているか数えたが忘れてしまったが、とにかく平均して3秒に1回は「えー」が出てくる。それも「呪い」を「のれー」と言うくらいからだんだん言葉の変形はエスカレートしていき、ついには「土台状況次第相手次第で」を「どでーじょーきょーしでーあいてーしででー」とリズミカルに読むところで感動はクライマックスに達する。

「千鳥の鬼連チャン」のほいけんたによって、「歌詞ずらし」(「体が」→「からだぐぅ」など)はちょっとしたブームになってしまっていたが、私はもちろんそれより遥かに以前から、音楽の魅力をそこに感じていた。椎名林檎でいうなら「ここでキスして」の2番サビは「あたしの思想を見抜いてよ」だがここはどう聴いても「あたしのしゅっそうをみぬいてよ」にしか聴こえないし(だからシビレる! と言っても、「どこが?」と聞き返されてしまえば「いや、そこが…」としか答えようのないところがもどかしいが)、ME:Iの「Click」ならサビ前「輝き出すstory」は「ストーレー」に聴こえて心地よいし、BIGNANGの「ガラガラGO!」ならこれもサビ前、SOLさんの「踊ろよhoney」は発音よく「おどろよホネー」と聴こえて、シビれる。シビれることには理由も根拠もあったもんじゃない。シビれるからシビれるのだ。私はこのことを10年以上前から、音楽の「メッセージ」だとか「意味」だとか言いたがる連中に対して孤軍奮闘の体で訴え続けてきたのだが、ほいけんたブームだったり、ミーアイのAYANEの歌い方が「中毒性ある」と言って広く受け入れられてきたところを見ると、私の旗色もちょっと悪くなくなってきたんじゃないかと思えてきた。AYANEはレコーディングのときに、「feeling」という歌詞をAYANE節で歌ったら、歌唱指導の先生から「そこ“フェーリング“に聴こえてしまうから、もうちょっと“フィーリング“で」と直しを受けていた。少し「いやそこがいいのにぃ!」と思いつつも、自分色を出し過ぎると注意されてしまうのだなと興味深かった。

さて椎名林檎「私は猫の目」の「えー」に話を戻そう。もし、アーティスト間の「影響関係」なるものを勝手に夢想することがオーディエンスに許された自由だとすれば、私はこの曲をお笑いコンビ、アイデンティティの田島がどう聴いたかがめちゃくちゃ気になる。アイデンティティというコンビは、田島がドラゴンボールの声優、野沢雅子さんに格好から扮して、ドラゴンボールネタを主にするのだが、そこで「おめー」「ぜってー」のようにすべての言葉を「えー」変換するのである。最近ではYouTubeに様々な流行曲のアレンジコピーをあげており、その中でも「未来」→「みれぇ」や「曖昧」→「ええめぇ」といった行き過ぎ変換が面白ポイントになっている。椎名が「えー」語でいこうと着想した源にアイデンティティがあるなどと強弁するつもりはないが、椎名がアイデンティティのネタを見、アイデンティティが椎名の曲を聴いたときどう思うかはとても気になるのである。脳内で「SWITCH」的な対談でも行わせるか。

「努力 未来(みれぇ) 如意棒 スカウター」
米津玄師「KICK BACK」アイデンティティ版替え歌より
「オラたちはもっと曖昧(ええめぇ)で 複雑で不明瞭なナニカ」
SEKAI NO OWARI「habit」アイデンティティ版替え歌より

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