エッセイ「イマイチ明晰でない明晰夢について」

告白すると、私は7割がた夢をコントロールできる。出てくる人物から起こる出来事まで。ただし「ある程度」であって、失敗して悪夢を見ることもままある。

こういうのは「明晰夢」と呼ばれる。大学一年生のとき、国際教養学部の英語で行われる授業で、茂木健一郎から「lucid dream」なる言葉を聞いたときにはもう既にその意味を知っていた。川上未映子がエッセイで、デビュー当初から現在に至るまで再三再四明晰夢について書いていたからである。彼女いわくそれはこの世の至福の体験らしく、氏はどうやら覚醒している状態から明晰夢の状態へと入っていけるプロ級の腕前(?)らしい。
往時18歳の私は、大学へ入るも知り合いはゼロ、人に声をかければダッシュで逃げられと散々な日々を送っていて、いっちょまえに人生に絶望していた。長期入院もしたし、震災の前後は4ヶ月家からほとんど出なかった。そんなとき、ふと或る考えが閃くのである。「ふつう人は、起きてる時間を主、寝ている時間を従と考えるけど、これ、逆転させちゃえばいいのでは?」
つまり寝ている時間が「人生の時間」であり、起きている時間などは添え物も添え物、パセリのようなものだと思って過ごすこと。これを実践してみて、夜になると「よし、1日が始まるぞ」という気持ちが俄に起こった。肝心の夢のクオリティも上げなければ意味がないから、日本には当時ほとんど明晰夢の本はなかったが(今に至るまであまりない)、読めるものは日本語や英語で読んで、とりあえず眠りながら「これは夢だ」と認識できればよいらしいとわかった。ステップ1として足元を見る練習などがあった。たしかに寝ているとき自分の足がとうなっているかなど意識しない。やってみると、どうしてもそこではたと目が覚めてしまう。
夢日記も克明につけた。だがこの頃から、本当に主従関係が逆転し始め、今自分がどっちにいるのかさえよくわからなくなってきた。
そのあたりで自分の置かれている環境も変わり(具体的には友達ができるなどして)、夢というものが持つ破格の重要性は自分の中で少しずつ薄れていった。本当は明晰夢にはまだまだステップ2以降があるのだろうが、私はペーペーでここ止まりだ。しかしそれでも、冒頭に書いたように、夢にはほぼ毎日大好きなアイドルが出てくる。え? 何をしてるかって? そいつぁ聞くだけ野暮ってものよ…。

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