やむにやまれぬ表現

前回の記事「サンドウィッチマンの技巧2」で、伊達が時々言う同じ言葉の繰り返し(「1時間1時間」「1回1回」など)は、ネタの中で余計なところを切り詰めた結果たどりついた表現だ、というようなことを書いた。

私はこのような「やむにやまれぬ性」があるものだけを真に「表現」と呼びたいと思う。他の言葉でも別によかったんだけど…なんとなくこれで、といったようなものではなく。今日はそのような域に達していると思われた表現2例を紹介する。

ひとつ目は私が最も尊敬する人物の一人である酒井基樹さんの替え歌。彼についてはいずれしっかりと書くつもりなのだが、ともかく大まかな紹介だけしておくと、「さんまのスーパーからくりTV」の素人替え歌コンテストでその時代の(プチ)スターになった印刷会社の社長さん。現在もTIKTOKで変わらぬご陽気な歌とダンスが拝める。

そんな酒井さんが、からくり最終回で替え歌オールスターズとともに歌った「栄光の架け橋」の替え歌の本当に最後のフレーズ。
「君の心へ続く架け橋へと」のところを彼は「君と酒井に宿れ生き力(いきじから)を」と歌った。
この「生き力」というのがまさに私の言う「やむにやまれぬ造語」なのではないかと思う。
酒井がこの文脈で「生き力」と言った時、意味がわからない聴き手はおそらく一人もいないだろう。だが、果たして彼が言うまで「いきじから」という5文字は存在(あるいは流通)していただろうか? どうもそうは思えない。熱っぽく言えば、彼が替え歌に人生を捧げてきたその最後の最後の数文字に、この言葉を詰め込んだことの意義を我々はちゃんと考えなくてはならない。
酒井の替え歌が巷に溢れる普通の替え歌とは異質であることは、またこのnoteで探究していきたい。

それからもうひとつはアメリカの児童文学作家、アーノルド・ローベル。
彼が書いた「かえるくんとがまくん」シリーズ(『ふたりはともだち』など4冊ある)は、とても素晴らしい。これについてもいずれ別稿を設けたいが、今回はこのシリーズの最終話の最後の言葉にはなんと書かれていたか、だけ見ておきたい(酒井と同じような注目の仕方になってしまった)。

その話は(今本が手元になくうろ覚えになってしまうが)、いつも一緒のかえるくんとがまくんのどちらかが急に「一人で過ごしたい」と書き残して去ってしまい、もう片方はとても悲しくなるのだが、仲違いではなく単に一人で過ごす時間を作りたかっただけだとわかるとホッとして、二人で一人きりで過ごしたというものだ。

この最後のところがポイントだ。今わざと「二人で一人きりで」というよくわからない書き方をしたのだが、ここを原文ではalone together.と書いている。そして、なんとも見事なことに、訳者の三木卓はここを「ふたりきりで」と訳している。「一人きりで一緒に」…「二人で一人きりで」…さまざまな訳出可能性は考えられるが、突き詰めるとどうしてもalone togetherとしか言うことのできないこのやむにやまれぬ表現。これを三木はまさに生ける日本語に移し換えたと思う。

私の好みから言って、文字制約のある短いフレーズの中にやむにやまれぬ造語を創り出すと、それを表現と感じやすいのかもしれない。このような表現をこれからも探していきたい。

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