悪夢

短いスパンだけど、書ける時に書く。
誰かが読んでくれているのなら、いつか誰かが読んで来るのなら。

娘が「たろちゃんのお話」と呼んでいるお気に入りの絵本のシリーズは、お姫様の話でもなんでもなく、幼児向けの話としては、これはどうなんだと、事実上最終話となった最後の巻を読んだ時になんとも言えない気持ちになったものの、一体誰からの贈り物だったのかも思い出せない、最初から最後までセットになったそれらが自宅にはあった。

長編というほどのシリーズではないにしろどこか温みのあるタッチの絵柄と、穏やかな語り口調は確かに優しい世界を描いている。
シリーズ全般の流れとしてはこうだ、ある事情から村に属さず山奥に居を構える貧しい老夫婦は、ある晩お腹を空かせて尋ねてきた子供を怪訝に思いながらもその違和感に気づかないふりをして家に招き入れた。
もしも夫婦の間に子供が出来ていたとしても、孫とするのは幼過ぎる子供は自らを「太郎」と名乗り、舌ったらずの発音から、おばあさんはその子供の事を「たろちゃん」と呼ぶ事にした。
おじいさんはたろちゃんがタヌキが人間の子供に化けてやってきたのだと最初から気づいていた、多分おばあさんも。
何しろ小さな小さな男の子は、丸い耳も大きな尻尾も完全に隠しきれていないのだ、こいつは絶対たぬき以外の何者でもないだろうとわかっていても、本当に困り果てている様子でか弱くて可愛かったのだ。

思い合って一緒になった二人だったのに、子宝に恵まれる事はなく、口さがない村の人々から妻の心を守る為に男は村を出て、夫婦二人で人目を避けるように、自分たちが必要とする分だけの食料や生活品のみを荒屋を修繕した家に確保していたので、普段なら迷い人を招き入れる事にも抵抗はあったものの、もしこの小さなタヌキが何か悪さをするようならばお灸を据えてすぐに追い出してやろう、と考えていたおじいさんとは別に、可愛い可愛い子供をおばあさんは優しくもてなした。
それだけでお腹は満たされたのかい?というほどにしか口にせず、どこか遠慮しているとも怯えているとも受け取れる態度のたろちゃんを薄い布団の中に招き入れて、穏やかな声で子守唄を口ずさんであやすおばあさんに、やはり二人だけの生活が長く続いて、それなりに幸福であったとしても寂しかったのかもしれないとおじいさんは寝息をたて始めた妻を見てぼんやりと考えた。

たろちゃんはどこかホッとするほどに、小さいながらも温かい体だった、生き物だったから。

必ずお礼を持ってきいますと子供らしからぬ態度で朝を迎えて出ていこうとするたろちゃんを老夫婦は引き留めた。
飢えて、未熟ながらにも人の子に化けて、お腹を空かせていた小さなタヌキには、お山にも家族と呼べる者はいないという、「いつまでもウチにいればいい」と言ってしまったのはおばあさんがたろちゃんをとても気に入っていたからだ。
その日から二人だけの老夫婦は、三人家族になった。
たろちゃんは頑張り屋さんで、不器用ながらにもおばあさんを手伝い、時々おじいさんに山の恵みが豊富な場所を知らせたりもしたが、彼の口癖は「みんなには内緒にしてくれよ」だった。
自分たちに必要な分だけを頂く夫婦に、たろちゃんも心を開き始め、やがて彼がどうして人間に化けて助けを求めに来たのかという背景も明らかになってくる。

たろちゃんはたぬき達の中でも落ちこぼれで、うまく人の化けられないから、他の仲間、兄弟達のように人里に降りてイタズラをする事も出来ず、戦利品と称して掠め取ってきた食料も分けて貰えず、やがて役立たずだからと群れから追い出されるような形で、はぐれてしまった。
どうにか飢えを凌いでなんとか生きてきたけれど、かつての仲間達が自慢する戦利品そのものを羨ましいと思った事もなく、どこかから盗みを働くという勇気もなかった、もし見つかってしまえば「悪いたぬき」として成敗されるだけではなく、仲間達も危険に晒す事はできる。

でもどうしてもお腹が空いて、それ以上にひとりぼっちが苦しくて、夜の闇の中であれば騙し通せせるかもしれないとその日彼は偏屈と有名なおじいさんの家を訪ねた、尻尾は出ていたけれど。
おばあさんの優しい愛情に触れて、すっかり居心地が良くなってしまったたろちゃんは、こんな自分でも少しでも恩返しが出来るのではと懸命にお手伝いをした。
頑固でも決して強欲ではないおじいさんに、人間には知られてはいけない恵の宝庫を教えて、思った通りお山に感謝しながら少しだけ分けていただく、という在り方に心が震えるような感覚を知った。

おじいさんはたろちゃんと暮らすようになってから、山の動物達を狩ることを、食べる為に必要だと知りつつも抵抗が生まれるようになった。
でもある冬の日に、おばあさんが病に倒れてからしばらくは、たろちゃんに「すまん、すまんなぁ」と謝りながら狩のための罠を仕掛ける事になった。
もう随分と寒くなってきているから、獲物が掛からなければ自分を食べてしまっても良いというたろちゃんを叱りながら、「お前を食べてもばーさんが元気になるものか」と叱りながら、おじいさんはついに山を一人で降りて、村人達に頭を下げてどうにか薬の代わりになるような物を分けて貰えないかと、お山の神様に謝罪しながらお山の恵みをいつもより少し多く頂いて、出来る限りの事はやり尽くした。

やがておばあさんは眠るように天に帰ってしまうのだけれど、長年自分を守り続けてくれたお爺さんと、可愛い可愛いたろちゃんに「ありがとう」と伝える事は出来た。
自分が死んでしまったらおじいさんが一人になってしまうから、たろちゃんにはずっと居て欲しいと願いも遺す事ができた。

それからおじいさんとたろちゃんは、一人と一匹で暮らす事になる。
愛されて成長したたろちゃんはとっくに、尻尾も隠す事はできるようになっていたけれど、わざと不完全な化け方で「ここを追い出されたら行くところがないよ」とおじいさんに縋った。
おばあさんの最期の願いを叶えようとしている事はおじいさんにはわかっていたし、たろちゃんは人様に悪さをする子ではないともとっくに知っていたから、おばあさんを亡くした悲しみを埋めるように、その優しさに甘えるようになった。

そして、おじいさんもやがておばあさんのところに向かう事が出来るようになった頃、お前はもう立派になったから一匹でもやっていけるだろうと突き放したけれど、たろちゃんはその家から出る事はなかった。
おばあさんの時に、おじいさんに教えてもらった通り、空っぽになった肉体をお山に還すという、遺された者が最後に出来るお墓作りを、おじいさんが亡くなった時はたろちゃんが一人でする事になった。

どうか、どうか、天国でおじいさんがおばあさんにまた会えますようにと神様にお願いをして、たろちゃんはその後も荒屋で人ともたぬきとも異なる生活を続けていた...、二人が自分にしてくれたように、山で迷った人を丁重におもてなしして、でもここの事は「みんなには内緒にしてくれよ」と引き留めることもせずに、見送って。
たろちゃんが人間ではないと知ったお侍さんに斬りつけられるまで、彼はおじいさんとおばあさんのような「優しい人間」に化け続けた。

たろちゃんは何か悪い事をしただろうか?していない。
人間のように振る舞っていただけ、ただ、それだけ。

もしも自分が天国に行けるのなら、またおじいさんとおばあさんに会えるかもしれないという、希望を抱きながらたろちゃんはこの世を去った。
お侍さんはきっと間違えたんだ、たろちゃんが悪いたぬきだと勘違いしてしまっただけだから、きっと良い事をしたんだ。
お墓を作ってくれる人がいないから、その体は獣や虫の命を繋ぐ糧となって、それでもたろちゃんは天国に行きたかった。
また、二人に会いたかった、生まれ変わる事が出来るのなら、今度こそ二人の子供に生まれたかった。

そういう物語だ、イラストのタッチや、人間にはなれないたろちゃんと、おじいさんおばあさんとの共同生活の中で起きる「ふふ、」となるような失敗、小さくて可愛いたろちゃんを、娘はとても愛していた。
「ママ、タロちゃんのお話してぇ」と差し出してくる絵本の順番はその時の気分なのでどのエピソードを持ってくるのかはわからない。
私の手が空かない時や、パパがお休みの日は「タロちゃんのお話」は彼のお仕事になる。
シリーズを私と同じく読み通した夫は、たろちゃんの最期のお話に「それはどういう感情なの?」と良くわからない反応を示していた、なぜかムスッとした表情のまま、完全にフリーズしてしまっていたのだ。
感想を口にする訳でもなく、娘にはまだ早いんじゃないかとか、そうした意見もなく、よくわからん人だなぁと思いながらいつまでも見てる訳にも行かないので、洗濯物を片付けようと動き出してから、「ちょっと、風呂入るわぁ」と脱衣所で脱いだ物をはいはいと手渡してくるのは良いのだけど、アンタそれは帰宅してすぐに着替えた、洗ったばっかりのやつじゃねぇかよ、と思いながらも、なんか思う事があるんだろうと、ハイハイと受け取った。
そしてそれを洗濯機にぶち込まずに畳んで、タオルと一緒に置いておいたのだが、彼はそれについて何も言わなかった。

娘は絵本が好きだ、お姫様になりたいとか、同じ幼稚園の子はアイドルになりたいとか、女児らしい夢を見る事はなく、覚えたての歌をうたったり、買え与えたりもらった本をキラキラした目で「これ読んでぇ」と、何かお話ししてぇ、と、たまに創作を要求してくる。
ママがお話を作ったら大体ホラーだぜ、と思いながらも、パパの方がノリが良いというかテンションが高いのでそっちにお願いしてくれよと、構って、構ってと強請ってくる時間は今の内だろうな。
大きくなったら何になりたい?と訊いたら、「たけのこ掘り」と言ってたので、大きくってそういう意味じゃねぇわと、紛れもなくこれうちの子だわと呆れながら、春になったらタケノコ狩りに連れて行けないか、折を見て相談してみよう。


そんな夢を見た。


設定が細けぇなと考えながらも、私の架空の旦那と娘は一体どこから出てきやがったと、なんか、自分の部屋がとんでもなく狭く思えて、妄想の果てに作り出してしまった家族の顔も、声も、名前も覚えとらんでと、「たろちゃん」は何だったんだ、と、思って。
残酷なまでに優しい夢でした、私の置かれている環境も、絵本の内容も。

誰かしらの死者のメッセージを受け取った際の夢だと、余程「叩き起こされました」という突発的な目覚めではない限りは、必ず通過するシーンがあるので、これは単なる願望か妄想かだと思う。
絵本の言葉を引用するのであれば、天に帰り土に還る者の「願いのようなもの」を受け取った時は、私は私を認識出来ない遺族の元をそっと離れて、夜道に出る。

どういう場所であれ、外に出れば石造りの細道があって、そこを横切ると控えめな旅館ともそこそこに大きなお屋敷とも取れる、現実では見た事のない門扉を潜り抜ける...まるで葬儀場のような、喪に服していると言わんばかりの門は、私の為に開かれていて、灯篭の柔らかい灯りを、やっぱり石造りの道に沿って、広い庭園を自分のペースで歩く。
庭の向こうには海の気配を感じるし、しっかり見上げた事はないけど、空には薄い雲がかかった、少し欠けた青白い月だけが異様に大きく見える。

私は大抵和装の喪服だ、時々子供の時もあって、そういう時は黒でもなんでもない、完全なる私服の時もあれば、何故かビニール傘を二本持ってることもある、意味はわからない。

屋敷の敷地内には自分以外の人が、やはり和装で粛々と自分の仕事をしているのだけど、私が自分にあてがわれた部屋に「戻る」と、お疲れ様でございました、とやっぱり顔がわからない女官のような、少し年上の方が着替えるのを手伝ってくれる。
「お戻りになられますか?」と必ず問われるので、それ以外何があるんだいと冷めた気持ちでいたら、自室で目覚めるというのがよくある話だ。

必ずしも、現実の自分が認識している誰かの訃報ではなく、けれど気づいたら現場にいるという状況下で、恐らく故人と直接話をする、という事もあれば、その死を悼む人達を少し離れた場所から見ている、という事もある。
メッセージを託される事はもうほとんどないけど、後者の場合、亡くなった方が誰なのかもわからなくても、手に小さな傷が無数に出来ていたり、何か、心に直接響く感情があったりと、私はわからないながらに、遺族の姿を見る時は、故人が「遺していく人」を想っているのだと解釈している。
故人とのみ接点がある時は、その人は、人に限らないけど、「死」を恐れてはいない、次の世界に行くんだと、晴々とした表情で先に逝ってしまった人達との再会を心待ちにしている。

どちらが良いのかわからないし、どちらの側面もきっとあるのだろうけど。

一度だけ着替えを手伝ってくれる女官のような人に「どうすれば良いと思いますか?」と、受け止め切れずに尋ねた事がある。
遺族の方と現実的にコンタクトを取ることは不可能だと思ったし、もし接点があったとしても安易に口に出来ないような内容だったのだ、私自身、メッセンジャーとしての役割を重たく感じていたし、「これは、ちょっと、」と何回溜息吐くんだってぐらい、「はぁー」と言いながら庭園を抜けてきたのだ、現実に「戻る」としても、ヘヴィ過ぎるし、私はこの手の夢に関しては半信半疑だ、可能であるのならこんな形で託すのではなくて、遺言状とか残してくれよって、心底願う、それが不可能だから呼ばれるのだろうけども、全然知らない人から「こんな事を言ってましたよ」と聞かされても、受け入れられる人なんていないよ。

身内のことでさえ、身内だったからなのか、「酷い嘘だ」と詰められたのに。

どいつもこいつも私個人の事はお構いなしかよ、勘弁してくれよ、そんな風に託されて放置するという選択も、なかなか、キツイんだよと、言いたい事は山ほどある。
女官は「お心のままに」としか答えなかった、だから、それが出来ないから困ってる。

自分に、あまりにも縁が深い相手である場合は、「屋敷」は通過しない。
そこが「どこ」なのか見当はついてるけど、敢えて考えないようにしながらも、見送る事になる。
私も、そっちに行って良いですか?と言った事もあるけど、境目を、超える事はできなかった。
門ではないけれど、その役割を果たしている壁のような物を通り抜ける事は、まだその時を迎えていない私には出来ない。

何をどうして見せられているのかと、屋敷にいる人がどうにもフィクションくさいのとで、これら全てを全部妄想だと一蹴してしまっても良いんじゃないかなとも、ちょっとだけ考えてる。
きっと映画か何かで観た光景を、模倣してるんだ、そう考えて「たかが夢」だと無視してしまえれば良いのに、特に「屋敷」が絡む夢は、どちら様なんだ、まさか、と直感的に思い当たった誰かが、「実は」と後にその訃報を知る事になって、本当に、何が、どうなってるのか。

荷が重い、もう嫌だと何度も、何度も。

せめて誰か共有できる人がいればと、「誰か」を求めても、こんな話を誰に出来るってんだ。
だからきっと、ごく普通の、ちょっと上等な、兼業か専業かはわからん、「普通の家庭の夢」を、観たんだろう、これはきっと、願望だ。
私は病気もしてなくて、ハイハイ、あーハイハイと意思疎通が出来て、でも「アンタはこれもう一回着ておきなさいよ」ってスルーできて、いやこういう理由があって着替えたいんだよと言われたら、そうなの?と、洗濯済みの別の部屋着を「ごめんねごめんねー」と普通に、普通に出せるような、そうした幸福は今生ではもう、無い。無いから、望む。

娘、娘の方はね、これもまたセンシティブな、誰かの傷を抉ってしまう話になるかもしれないから複雑なんだけど、小学生の頃に、まだ阪神の震災とか来るもっと前の時に、災害で、自分の娘を亡くした夢を、見た事があるんだよ。
私が小学生だぜ、そんな事ある?誰かの何かをキャッチしたのか、何かの縁なのか、こういう心境の時にしか思い出す事も辛すぎて、その当時は夢から覚めても半狂乱になってたらしいんだけど。

必死で、自分がどうなっても良いから、自分の事なんて全く考えずに、とにかく必死で、名前は思い出せないのに娘の名前を叫びながら、手を伸ばしたのに、届かなくて、まだ小さいのに、濁流に呑まれて見失って。
危ないからって危険を冒して、羽交い締めにして止めてくる人に「離せぇ!」って、邪魔をするなと怒り狂って、怒りよりも娘が消えたところに行かせてくれって、自分でも信じられないぐらい喚いて、...、この時も旦那がいたな、でもその時はその場所にはいなくて、数人がかりで取り押さえられて、どれぐらい経ったか...、お前何してやがったんだ、何処にいたんだ、どうして助けてくれなかったんだ、居なくなっちゃった、あの子が居なくなっちゃったって、何処で何してたかって頭ではわかってるんだけど、訳が分からなくて、なんでなんでなんで、って、...父に叩き起こされて、「どうした?」って聞かれて、しばらく放心状態になってから、「あの人も娘を失ったのに」って、冷静になってから酷い事をしたと、思って。
事前に聞いてたのかもしれない、どういう気持ちで、狂いかけた私に、言葉もなくバンバン殴られていたのか、考えたら、「ごめんなさい」としか思えなくなって。

守れなくてごめんなさい、助けられなくてごめんなさい、当たってしまってごめんなさい、甘えてしまってごめんなさい。

現実に起きた事ではなかったと理解したから、そう、思えたのかもしれないけど。
だから、十数年前の大きな、震災の時の映像は、まだ、観れないし...あの当時どの番組もそれ一色だったから、「テレビ消して、点けないで、点けないで」って。
病院とかの待合でもテレビ点いてるから、しんどくて。
勤め先が被災した地域のフォローをするってなったけど、あんまりにも、しんどくて。

狂人の戯言だ、不快に思ったら、ごめんなさい。

幸福で、嫌な夢を見た、心が不安定になってしまって、吐き出したかった。
娘にはもう会えない、見知らぬ夫にも会えない。
私は私の人生を生きてきた、残り少なくても、最期までそのつもりだ。
でも、誰かに助けて欲しいと何処かで考えている、もう随分助けてもらっているのに、まだ、願ってる。

もしかして、何処かにいるの?いるのなら、会いたいよ。
会えないけど、会いたいよ、何処に、いるの?

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