雑記910

なんか7月下旬ぐらいから、腕とかお腹に、1センチ強ぐらいの感覚で謎の点々ができるという、皮膚の状態としては点々ぐらいは「なんだこれ」ぐらいで、もっと酷い状態の部分もあるけど。

必ずニコイチなのは、何だこれは、アリンコです。

いつからそうなってたのか思い出せないというかいつの間にかなんですが、右足首に掴まれたようなドス黒いあざができてて、気付いたのゴールデンウィーク明けですけど、それがどんどん広がって、痛みが出てきて、今となっては常時痛いんですが、点々の方は視界に入る部分で、赤みが引いて来たなと思ったら、同じような点々が別の場所に出来るって、アリンコはもう十年近く虫に刺されない、なんか蚊とかも、今にも力尽きそうな「背に腹は変えられんのや」みたいな、ヘロヘロのやつが、稀に向かってくる事はありますけども。

点々は痛みも何もなく、気づいたら何かなってるって妙に気になる。

足のあざはもうあの、色んな所がガタついてきてる不具合の一環だと思ってるんで、ただ痛いだけですね。
外傷的な痛みですがどこかしら痛いってのはもう慣れてるんで、別に良いかなと思ってます。
アリンコの持病は脳かなんかのバグ説が有力なんで、何も起きてないのに体内で、ウィルス出すぜとか怪我治すぜとかが余計な仕事をしようとするから、免疫力を下げるという措置を受けてるんですが、免疫下げてるから本当に怪我とかした時に仕事をしないという矛盾がありますね。
それで、「どこか怪我したかもしれない」とか「何か入り込んだかもしれない」とかを、痛覚でも察知してしまう時が多いので、何も起きてないのに「大変だぁ!」っていうめんどくさい人みたいな、誤認だらけなんで、痛みのバリエーションは多い。

それと何がどう関連してるのかは不明ですが、痛覚過敏とか体感温度がバグってるとか、色々ややこしい事にはなってますが、「合併症とは見做さない」とされてる、類似した病気も診断されてるので、どっちがどっちの症状なのかはわかりません。
どこがバグってるのかといえば脳の可能性が高いだけで、脊髄説もあるのですが、その類似した病気の方がちょこっとだけ、判明した人が感知できない症状からデータで「脳じゃないか?」って研究結果が日本から出たらしいので、まぁどこが原因だろうが起きてる事は変わらんし、免疫を下げ続けてりゃ不具合も出ますよ。

こんなバリエーションの多い痛みが続いて、精神を病まない人がいるもんかい!とも考えてた事ありますが、痛みとかはあんまり出ないけど、病気の症状事例として「うつ状態になる」っていうのも、その病気の特徴としてあるので、もし私がくたばった後も、原因解明と治療法の研究が発展すれば良いなと思ってますが、私は結構面白い「一人大騒ぎ」状態になるので、いや他の人から見て私が騒いでるとかじゃなくて、「どういう誤認識でこういう事になるの?」っていう事が多いので、誰かに話してしまうと「なんでそんな怖い表現するの?」と、痛い話が苦手じゃない人も引く、みたいな例えになってしまうんだけども。

人様に話せる面白痛いエピソードで、「エア通り魔事件」ってのがあります。

私電車待ってて、いつも使ってる駅ではなくて混雑してる駅で「立ち位置がわかんねぇよ」って、ベンチとかもなくてですね、立って待ってたら、背後から、そんな経験ねぇよって、袈裟懸けにバサッと刃物で斬られたみたいな、なんだ、斬られた軌道も認識できるぐらいに、衝撃と、皮膚が破れる感覚と、熱→痛み、みたいな一瞬ですけど、文字にすると順番があった、みたいに、大きな駅だとそういう事件もあるので、前方に人がいなかったのが幸いでしたが、そのまま前のめりに倒れて、声も出ない。

それで周囲の人が「何やこいつ」みたいな目で見てると落ち着いて来た時に、背後を振り返ったら壁だったっていう、一人でなんか「辻斬りに遭った」みたいな現象とかあるので、どういう世界観で生きてるのか自分でもわからないんで、私自身は、面白い事もあるのでそれで良いんだけども。
説明するとややこしいので「内部疾患」で片付けてますが、外傷的な痛みと、筋とかが痛いって場合と、謎に内からも外からも同じ部位が集中砲火されてる的なのと色々あります。
この病気の症状が大きく出始めてから知ったのですが、痛む部位がランダムで、「腕が痛い日」「足が痛い日」とかですらなく、腕が痛い時間っていう、一日の間であっちこっち発生するのと、実際は何もなってない訳ですから、そりゃ痛む箇所も違うわって話ですが、身体的な不具合を抱えてますよってお国からの認定を貰うのに、「どこが悪いのか」という証明が出来なければいけないルールがあるらしくて。

足なら足、腕なら腕、頭なら頭って、どこが悪いのかわかんねぇからこんな事になってるのによ、「どこ」って証明できないと使えねぇよって基準があるんですよ。
アリンコは体幹機能と指の可動域って、診断されてから十年ほどで実際にガタが来てるのと、同年代の人と比較しても著しく運動機能が低いってんで認定受けましたが、患者の年齢層の中では私は若い方なんで、もうちょっと年齢が高い人とか、同年代で私より実際動けないんだけど「動ける日もある」みたいな人には、もっと臨機応変な基準を設けて頂きたいですな。
たいていの場合は二段構えで発症するんで、未成年者で症状出てるって場合は事情変わるらしんですが、国の基準でどうしようもねぇからって、発症時期で今の成人年齢に達していなければ、病名が微妙に変わるんですよ、それもなんか複雑な事情があるのでしょうが、20歳で発症したら成人と同じカテゴリーになるんで、これはおかしいだろうって言ってる人も当然いらっしゃいます。

二段構えの内容がエグいんで、個人的には18歳までにそれを経験したっていうのが、しかもそれで痛みで動けなくなっちゃうって、30で出て「若い」って言われた私としてはどういう事なんだよ、と子供達の置かれてる環境とか事情に、なんでその二段階の構成なのかもまだわかってないのに、「何があったんだ」と勝手ながらに複雑な気持ちになるので、未成年者の為の抜け道みたいな、苦肉の策みたいなのは、無いよりはマシだと思いたいですが。
あとおかしいのはさ、複数併発してて、一つだけ指定難病になってるのを認定されたら、国からは指定難病の措置しか受けられなくなるっていう、融通の効かん感じの仕組みがある。

二段構成の詳細とか詳しい事は書けないんだけど、病名も出さないけど、なんでこれまであんまり書かなかった持病の話を出してるかというと、もうこの先機会がねぇからだよ。
病名を出さない理由は、初期の頃に書いた「同じ病名の人がやってる事は出来るという誤解を招きたくない」ってのもあるけど、これは私が遭遇した悲しい話ですが、世の中には「自分は動けません」って理由を欲してる人もいる。

私はその、所謂「詐病」をしたがる人がいると情報では知ってたんだけど、最初は物腰の柔らかい良い人そうなおじさんが、そんな理由探ししてる人だと思わなくて、ちょろっと持病の話したら、そこから根掘り葉掘り「どういう症状なんだ?」「どうやって診断されるんだ?」「二段構えの詳細」とか質問攻めにあって、ああこの人はそうなのかと思って、「男性の発症例は極めて低いですよ」って局地的な話をしたら、「じゃあ良いわ」って言われたのが、悲しかったですね。
男性の発症例が低い訳ないだろ、発症率が元々低い上に、二段構成にもちょっと絡む事情で、他の病気や怪我で別の診断受けて、実はこっちでしたってなるパターンが女性よりも多いだけなんだわ。

指の可動域に関しては私は実は、実生活でそれだけでそんな不自由してないしてませんが、今もこうやってキーボードで文字打ち出来るぐらいには動くんだけど、その、指だけの力で動く範囲が狭いってなって、「あ、じゃあ手首で」と切り替えられてる部分も大きいけど、手書きの文字とかが書けねぇんだよ、住所と署名ぐらいは、二周目ぐらいから「ああ、痛い」ってなるから、書く場所が二つ以上あるのなら段々字が雑になっていくっていう現象が起きる。
何枚も書類を書かなきゃならんとなると、役所とかの窓口で「ちょ、ちょっと待って」って冷や汗が止まらなくなるとかもあって、待っては貰えますけど、自分の意思とは関係なく、プルプルしてる現象に、あの、慣れてない職員が「引いてる事を隠しきれてない」とか、そういうのはこっちも慣れてるんですよ、多分その不具合に引いてるんじゃなくて、私が無表情で「痙攣が止まらない、どうしよう」って、全然どうしよう感出さずに、プルプルしてるからだと思いますよ。

ただギリギリ勤めてた時に、お箸が持てないって事にすごいショックを受けてて、当時そんな、「出来ない事が自分にある」と認めたくない時だった事もあって、その時から引きずってるのが「飯食うのが作業になってる」って感覚ですな。
今考えると完全に頭おかしくなってる人ですが、食事が苦行になって、仕事も辞めてから実家にいた時に、「ご飯って三日食べないと、気分が悪くなってくるって知ってた?」とか、真顔で言ってたぐらい、薬飲む為だけに胃にはなんか入れないとと思って、六本入りのスティックパンみたいなのは、ちょっとずつ食ってたけど、そのパンも、ばーちゃんに見つかると食い尽くされるんで「どこに隠すか」になったけども、スティックパンしか食ってないから、そりゃ三日目にはしんどなるわって、一日に一本食うかどうかなので、胃が守られてたのかどうかすらわからん。

動かないというか動けなかったから、エネルギーを必要としてなかったのかもね。

発症してから、その前日どころか当日の朝まで山を駆け上がるようにして通勤してる人だったんで、あちこちバチバチ痛いわ、これまで当たり前に出来てた動作ができなくなるわで、当時30ですよ、やっぱりアリンコちょっとおかしいなと思ったのが、「私には肉体があるのか」と再認識したというか、肉体の輪郭というか、外見的な要素じゃなくて、体にはこういう制限があるのか、とか、そういう事を理解したというか、思い知らされたというか。
神経伝達なのかな?指に限らず、上手くいき渡らないタイミングみたいなのがあって、一度ベランダから室内に入る時に、自分としては足を部屋に入れてから扉を手でスライドさせたつもりなのに、片足が入ってなかったって、扉にバチン挟まったこととか、そういう時はヨイショって手で足を持ち上げるようにして動いてから、確認してから扉を閉めないとと、「足を忘れた事件」とか、全部事件にしてるけど。
力加減ができなくて「生卵握りつぶした事件」とか、どっちかというと力入ってないから落っことす方が多いんですが、卵ちゃんと持たないとと気をつけてたら、ぐしゃあってなったとかもあるんだわ。

もうね、そういう失敗をした時って、落ち込むから「無になる」っていう癖がついて、事が起きたらしょうがねぇや、これ片付けないとって、そっちに意識向けられるようにはなってるんですが、これを第三者に目撃されてて、奇異な視線を向けられてるのも、笑われたりするのも多分私が「起きた事」に対してほぼノーリアクションだからだと思いますが、なんやかんやで傷つくのって、他人ありきなんですよ。
人の反応が怖いんだなと思って、一人で自宅で滑って転んでる時とかは「...痛い」で済むんだけどなって。
アタイのリア友は、私に負けず劣らずのノーリアクション王ですよ、むしろ彼女の「そうなっちまったらしょうがねぇや」と即座に切り替えるのが、参考になってる。
もう私が「ぬわぉう!」みたいな、珍妙な声で階段踏み外してても「気ぃつけや」って、手荷物を奪い取って手すりに誘導するという、もうアタイが「何だ今の悲鳴?」って自分でツッコミ入れるぐらい、ハイハイ、みたいな感じなんで、随分救われました。

何にもおかしい事はないって、当たり前のように、受け入れてくれて。
救われた、本当に、何度も、何度も、助けてくれて。
何度も、その度に「私にも心があるんだ」と教えてくれて、何も考えてないんだろうから、その「通常運転」っぷりに、救われて。
「出来ん事が出来んって、当たり前やろ」って、だから何なのと、当たり前の事のように。

この世界には、怖い物事や怖い仕組みや、怖い人がたくさんいて。

どうして私は、こんなところに来てしまったのだろうと、私に何が出来るってんだよって、悲しい事を悲しいとも思わず、寂しい事を寂しいと知らず、自分が思い描く欲求や願望は全てワガママなのだと考えて、私がいったい何をしたっていうんだと、思い当たる節が一つでも見つかったら徹底的に責めて、責めて、もう許してくれよ、どうしたら贖えるんだよって、他の誰でもない、自分自身が、私が、私を、軽蔑の目で見てるのに。
何度も、何度も、救って、くれて。

人間が人間である以上、肉体も心も存在していて、時にそれらは思い通りに動いてくれない事もある。
「当たり前」を当たり前に出来る人とそうでない人、そもそも当たり前ではないという人もいて、それでも共存する為に線引きがあって、その線引きが高い壁のようになる事もある。
善人、悪人、真面目、不謹慎、ただでさえ複雑怪奇に線が敷かれてるのに、単純明快にカテゴリーに振り分けようとする、悪癖。
「ああいう人になりたい」「ああはなりたくない」自分の水準を他人と比較して定めて。
向上心は必要だ、良くも悪くも「見本」がいるのなら参考にすればいい。

でも、そこに該当しなくなった時に、どうか、慌てないで欲しい。

正解を模索するのも混乱するのも、自暴自棄になるでも構わない。
自分自身を自分で苛めてしまったらさ、他の誰が、助けてくれるの?私は運が良かった、信頼できる友人に恵まれた、もしも彼女が誰に対しても同じスタンスだったとしても、信頼出来なかったらその言葉や態度も疑ってしまっただろう、よくやった私。
いっぱい間違えたし、間違えてる事に気付くのも遅かったけど、救いの糸を一本、向こうから断ち切られてもおかしくはない醜態を晒しながらも、しっかりと掴んでいた。

不謹慎だと知りながらも敢えて、もう、あんまり時間がないから、書きます。
人が人間としてこの世で生きていく為には、「肉体と心と魂のような何か」の三つが必要です。
多少壊れてしまっていても、社会という枠組から弾き出されても、三つがあるのならそれは人間です。
そして私がこれまでのトンチキな人生の中で分かったことは、「死」は、その内のどれかが欠けてしまう概念で、多くの人は肉体から離れることをそう呼びます。
でもそれは自然な事で、どういう「死」であっても、種から発芽し、雨を飲んで幹を伸ばし、花を咲かせて散って実になる、たとえ無慈悲な手によって摘み取られても、踏みつけられても、あそこのお花の色が素敵だわと願ってても、咲いてみたら全然違う色じゃねぇかよと、なる事もあるでしょうよ、それが自然ってもんです。
植物に喩えたから、専門家の人がいたら「いや花ってのはな」とツッコミどころはあるでしょうけど、お花を咲かせない植物だってあるのは知ってるよ、喩えだ。

でも肉体的な「死」ってのは、終わりではないんですよ、あらゆる意味で。

その人の遺した何かが後に繋ぐ何かになる事もあれば、とんでもねぇ負債や面倒事を置いていきやがってって場合もあるでしょう、全然近親者もおらず、孤独な死を迎えたとしても「一切の痕跡なく」という事はあり得ないよ、生きてたんだから、これがまず一つ。

私は幽界だか霊界だか天界だかどういう呼び名か知らんけど、どっちが上とかでもなくて、肉体を失ってそれが「命」と呼称する物ではなくとも、何かしらの「存在」になる、もしくは、肉体を得るまではそういう「存在」だった、幽霊ってのは肉体を失った成れの果てとは私は思わんので、「存在」をなんと呼ぶかはお好きにどうぞ、別に幽霊でもいいと思いますけど、多分直近の肉体を持ってた姿を維持出来る期間なんて大してないと思うので、その辺の詳細は知らんねんけど。

言いたい事は、人間である内は「心、身」といった、自分で取り扱える物は、大切に扱ってください、そうすれば連携してんだから「魂」も、なんか、上手い事なるやろう。
「心身」はどういうわけか、「神」と同じ音になるんだよ、こじつけだけども、厨二っぽい事をいうと、「sin」にもなるけど、私はどこの宗教にも属してないから、そっちのシンはジェクトさんじゃないかと思いますよ、なんでそこに捻じ込んでくるんだと自分でも不思議ですが、あんまり真面目な話が続かないという、難儀な性格なんで。

肉体も心も、あって当たり前だと粗末に扱ってちゃ、結局自分と自分を大事に思ってくれてる人を蔑ろにするだけだから、っていうお知らせなのかなこの点々は、と、考えまして、今回は元々話す予定のなかったアリンコの事情を、書いてみた感じです。
この点々の正体が何であるのか、あたしゃ知りませんが、別のタイミングでこんなん出来てても何も思わないので、もしかしたらこの謎に、近場で発生する現象はもっと前から起きてた、肌の何かだったのかもしれないけども、何でもかんでも啓示だと思いたいんだよ、考えるのは好きにさせてくれ。
点々よりもアザを気にしろよとも、どっかで思うんだけど、もう他にも書いてないだけで不具合も、お知らせっぽいのも来てるんで、視界に入ってくる点々の事ぐらいしか書けないわよって、痛い話とかも詳細とか書いたところで誰が知りたいねんとか、色々ある。

不謹慎ついでに、自分で自分の肉体を生きていられないぐらい損壊させるってのは、何の解決にもならんから、これに関しては色んなジャンルで言われてるけど、色んな説があるけど、末路に関してはそれも色んな事情があるから、あんまり怖い事を書きたくはないんだけど。
私が知ってる話だと体にしろ心にしろ、自分が抱えてる不具合を抱えたまま彷徨う事になる。
アリンコだと体痛いし人の目が気になるって性質から、そこから逃げようとしてもそれずっと抱えたままになる。
誰とも関わりたくないのよ、一人になりたいのよ、と本心から願ったとしても、そうだとしたら一人にはなれないだろうね、嫌な感じに言ってくる人にずっと付き纏われるよ、自分が恐れてる事を的確に突いてくる、どちら様か知らんけど。
もし、やむを得ずそうせざるを得なかった、って人が身近にいるとすれば、生きてる人間に出来るのは、もうその人が早く、なるべく早く解放される事を祈る。
祈る事が全く無駄だとは思いません、私も、何名か知ってるのですが、続くってのはあんまりじゃないかって、祈る事しか出来ないけど、祈る事は出来ますので。

あの、本当にガチで追ってくるので、「これはどうやって抜けりゃ良いんだ?」ってなっても、その時になって「誰か助けてください!」ってなっても、自力で抜け出す事は出来ないからさ、祈る事で灯一つ、道一つ、その人に差し出されるかもしれないから。
それで滅茶苦茶寒いし、寝落ちとか気絶とか出来ないからさ、アンタ見てきたかのように言うなって、思う人もいるかもしれませんが、あの、極楽も奈落もこの世にあるからよ、それだけはそういう気持ちになったら、心のどこかに留めといてくださいまし。

何にせよ、誰かが使ってる言葉で物事を説明するのは難しいなと思う今日この頃です。
オカルトにせよ何とでも取れる事に関しては、特にね。
精神性を向上させるのも結構なのですが、肉体を置き去りに考えてるんじゃ意味ないと思いますんで、健康であれという話ではなくて、アリンコみたいに意味わかんねぇ病気になって「もうどうにも何ねぇよ」ってなっても、返品交換は受け付けてないので、大事に大事に考える事は私はもう、遅いんだけど、ちゃんと使い切るまでは、使い切りますよ、普通の事を言ってるんですが、薬とかも本当は「今」の為に、別のところに負荷かけてるなとわかってるんだけど、しょうがないよね。

どっかの記事で、錯乱して山に入ったら全然違う山から発見されたって話書いたけど、その山中の話をもっと詳しく書くと相当なホラーになるので、あれはかなり削ってます。
こないだ、普段観ないんですが「関西の心霊スポット」みたい動画で入った山も出た山も入ってたんで、山の歴史の詳細を動画でそのまま観てたら、今だと考えられないぐらいデンジャラスな領域に足を踏み入れてたみたいで、サムネで「見た事あるぞ」って風景があったからなのですが、入った方の山が心霊スポットになってる理由の、歴史とは関係ない目撃者みたいな紹介は、「あれ心霊現象やったんか」って、結構遭遇した事のある、話だったけども。

どの時点でどこまでがどの山だったのかは分かりませんが、そんなところに足を踏み入れた私は、一体どうなるんでしょうかね。
まぁこの点々も、あざも放置したままになるでしょうが、自分を苛めるのも結局自分、自分を許してあげるのも自分、「自分自身」に対する話は別の事例もありますので、もし書けたら、別の機会に、自死が絡む話なのでこれも出すつもりはなかったのですが、気が変わったので。

それで、私がリア友に救われたように、どういう人にどういう対応が良いのかは人それぞれですが、その気があったら、その気があったらよ?人の心に、寄り添えるかもしれないと、その可能性を見落とさないでください。
救うとか大したことを考える事はいらない、何気なく放った一言が、誰かを救うこともあるという可能性。
傷つけるばかりが人間ではないと思うので、「自分には何も出来ない」と感じた時こそ、その可能性をどうか見落とさないで。

それが巡り巡って、いつか貴方のところに返ってくるかもしれないから、見落としてしまわないように、どうか、「ご自愛」くださいませ。

では。

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