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スマイル・アゲイン 第3話

 翌日午後1時。わたしの仕事は終わり、最後にゴミを捨てに行くため、地下のゴミステーションに来ていた。
 病院のゴミステーションは燃えるゴミやプラスチックゴミなどの一般廃棄物のほかに、注射針や注射器などの医療廃棄物というように細かく分類されている。わたしは右手に燃えるゴミ、左手にプラスチックゴミの袋を持っていたので、それぞれの指定の場所に置いた。
 さて、着替えて帰ろうかな。
 バックヤードに戻り、女子更衣室で着替える。ここの制服は上下は自由で、支給された茶色のエプロンを着用するだけだ。それを外して自分のロッカーに仕舞う。春用の薄いカーディガンを羽織り、机に置いていた、自分で淹れたホットココアLを持ってカフェを出た。
 いつものように救命救急センターの出入口から外に出ようとして、前から白杖で床を確認しながら歩いてくる老人が見えた。目にはサングラス、口元には少し伸びた白髭を蓄えており、足取りはしっかりしている。パッと見で年齢を言い当てるのは難しそうだが、ざっくりと70代から80代といったところだろうか。
 その老人は院内に足を踏み入れると、立ち止まってしまった。どうしたんだろうと首を傾げて、院内には点字ブロックが無いことに気がついた。
 飛鷹総合病院には、わたしがいつも利用している南玄関——救命救急センター側と、内視鏡センターのある北玄関、タクシー乗り場のある正面玄関の3つの出入口がある。大きい病院だからか医療コンシェルジュと呼ばれる案内人が数人いて、院内の案内や車いすの患者さんのサポート、体が不自由な人の受け付けの代行などを行ってくれる制度があるが、その人たちがいるのは正面玄関なので、こちら側には案内人がいない。あの老人はサングラスに白杖をついているので、きっと視覚に障害がある方なのだろう。
 周りを見ても誰も彼に手を差し伸べる様子はない。むしろ、見て見ぬふりをしている気がする。チラチラと視線はそのおじいさんを追うけれど、そっと距離を置いている。
 わたしはそっとそのおじいさんに近づいて、前から話しかけると驚かせてしまうので、肩を軽く叩いて横から「こんにちは。なにか手伝うことがありますか?」と声を掛けた。
 おじいさんはサングラス越しにこちらに顔を向けた。
「ええと……2時からレントゲンの予約があるんですけど、どちらに行けばいいか分からなくて」
 ゆったりとした口調で首を傾げたおじいさんは、わたしに物腰が柔らかそうな好々爺の印象を与えた。
 現在時刻は午後1時半。このあと特にしなければいけないような予定はない。
「よかったらご案内しますよ」
 ここのカフェでアルバイトをしている木下さくらです、と好々爺に名乗ると、彼は「それじゃあお願いします、木下さん」と口元を優しげに綻ばせた。
 どう案内するのがいいか聞くと、肩に手を置かせてくださいと言われたので、そうしてもらう。ゆっくり歩きながら色々聞いた。
 おじいさんは白石健三けんぞうさんと言うらしい。ここに来るのは2回目で、電車に乗って来たようだ。前回は奥さんと一緒に来たようだが、今日はひとりで来たらしかった。
「今日話しかけてくれたのはあなただけです」
 生まれつき弱視だったらしく、今は光がなんとなく分かる程度で、ほぼ見えていないんだそう。
 光を奪われた世界というのはどんな世界だろうと考えて、少しだけわたしのような世界かもしれないと思った。家族に置いてけぼりにされた世界。
 自動再来受付機に診察券を入れると、『本日のご予定』と書かれたA4用紙が1枚出てきた。さっき白石さんが言っていたようにレントゲンがあり、その後呼吸器内科で診察予定だった。
 まずはレントゲンを撮りに画像・生理検査受付へ向かい、受付を済ます。レントゲン室は1室から5室までの5部屋あり、その前の長椅子には子どもからお年寄りまで数人が座って待っていた。空いたスペースに白石さんを座らせ、わたしは白石さんの前に立って呼ばれるのを待つことにした。
 顎を少し持ち上げた白石さんは、孫を相手するような柔らかい口調で言った。
「木下さんはここのカフェ店員だと仰っていましたが、元々は医療関係者だったんですか?」
「まさか! しがないフリーターです」
「案内も上手ですし、慣れてる気がしたので医療関係者かと思ったのですが……」
 自信があった推理だったのか、明らかに肩を落とす白石さん。その様子がちょっとかわいいと思ってしまったのは、失礼だろうか。
「えっと……サービス介助士という資格を持っているので、そのせいかと……」
「サービス介助士? それはどういった資格ですか?」
「高齢者や身体の不自由な方々に対する正しい手助けやサポートの仕方を身につける資格です」
「どうしてその資格を取ろうと思ったんですか?」
「……妹がここに入院していたとき、車椅子に乗ることがあって、その操作方法とかが知りたくて」
 ただ、少しでも妹の役に立てれば、と思って取った資格だった。なんなら妹の為だけに取得した。他の人のことなんて一切考えていない、自己満足の資格だった。
「妹さんの為に取られたんですね。木下さんはお優しいのですね」
 白石さんにそう微笑まれて、わたしは少しむず痒い気持ちになった。優しさで取得したわけではない。妹が苦しんでるのにのうのうと生きている自分が恥ずかしくなっただけなのだ。ただの偽善だった。
「いえ、わたしは優しくなんかないです」
 そう呟いた時、少し遠くの方で「白石さーん。白石健三さーん」と呼ぶ声がした。
 1室前で待っていたのだが、呼ばれたのは奥の5室だった。白石さんに肩を持ってもらい、誘導する。近くまで来て、「白石健三さんですね」と技師さんに確認されたところで、わたしとその技師さんはお互いに「あ」という顔になった。
「さくらさん」
「守永さん」
 ほぼ同時にお互いの名前を呼び合う。そうか、放射線技師ってレントゲンを撮ったりするのか。
 いつも羽織っている白衣を着ておらず、白いユニフォーム姿で現れた彼となぜかしばらく見つめ合って、ハッとした守永さんが「さくらさんのご親戚ですか?」と白石さんを見て言った。
「この方は見ず知らずのわたしが困っているところに声を掛けてくださって、ここまで連れてきてくださったんです」
 ゆったりとした口調で白石さんはそう説明した。すると守永さんはフッと笑った。
「僕もこの間、この方に助けていただいたんです。一緒ですね」
 じゃあ代わります、と守永さんはわたしの肩から白石さんの手を外して、自分の腕を持たせた。「これからレントゲン室に入ります。お洋服に金属がないか確認させてもらいますね」と言いながら5室に2人で入っていった。
 今までココアを買いに来る姿と貧血で倒れた守永さんしか知らなかったので、こうして仕事をしている姿を目の当たりにすると少し不思議な感じがする。莉衣菜ちゃんが『ココア王子』と呼んでいたことがふと蘇り、王子も仕事するんだぁ、などと失礼極まりない感想を抱いた。
 さきほどまで白石さんが座っていた椅子が寂しそうにぽっかりと空いてしまったので、わたしはそこに腰掛けた。どこかのレントゲン室から子どもの鳴き声が聞こえる。わたしは手元にある白石さんの予定表を眺めていた。
 病院の検査というと、ひよりの車椅子を押しながらいろいろな検査室へ行ったことを思い出す。レントゲン、心電図、超音波検査……
 力を入れなくても少し押しただけで前に進むほど、日に日に小さくなっていく彼女の後姿は今でも鮮明に覚えている。
『お姉ちゃん』
 マスク姿でそう言って振り向いて目尻を下げるひよりの声が聞こえた気がした。
 まだここには彼女の香りが色濃く残っている。
「さくらさん。お待たせしました」
 感慨に耽っていると、白石さんに腕を掴まれた守永さんが顔を出した。わたしは咄嗟に立ち上がる。
「お疲れ様です、白石さん。じゃあ、次の呼吸器内科に行きましょうか」
 守永さんに「ありがとうございました」とお礼を言って、案内役を代ろうとすると「このまま僕が行きます」とレントゲン室を出て歩き始めた。
「え、でも仕事中じゃあ……」
「ちょうどこれから昼休憩なんです。白石さん、さくらさんと2人で付き添ってもいいですか?」
 守永さんが白石さんに訊ねると、白石さんは「願ったり叶ったりです」口元を綻ばせた。
「それじゃあ行きましょうか」
 立ち尽くすわたしにアイドル顔の守永さんは小首を傾げて微笑んだ。
 先ほど白石さんが入ったレントゲン室から、女性の技師さんが出てきて患者さんの名前を呼んだので、守永さんが昼休憩だということは嘘ではないらしい。
「はぁ」
 少々強引な申し出に不信感が募るが、この人も大概お人好しなのだろう。わたしは先を行く2人を追いかけた。

***

 丼から発された白い湯気が目の前をふわふわと飛ぶ。木製のスプーンで丼の中身を掬って口に入れると、得も言われぬ幸福感がわたしの口の中に広がった。
「白石さんから聞きましたよ。入院していた妹さんの為にサービス介助士の資格を取ったって」
 今、わたしは飛鷹総合病院の社員食堂で、守永さんと向かい合って親子丼を食べている。周りには白衣姿の人や若草色のスクラブ姿の人、事務服の人など社員食堂なので職員の人しかいない。その中にひとりだけ私服姿のわたしは明らかに浮いていた。
「ええ、まぁ」
 完全に場違いだと思いつつも、目の前の親子丼がとても美味しいので肩身の狭い思いをしながらも食べ進めていく。
 事務員さんは事務員さん、看護師さんは看護師さんで同じ職種の人と食べるのかと思いきや、意外にも違う制服を着た医療従事者たちが集まって食事をしている島もあった。職種を越えてみんな仲がいいんだな、と少しほっこりする。
 ……ここにも例に漏れず、もはや職業を越えて食事をしている島がある。
「やっぱここの親子丼は最高に美味しいなぁ」
 あまりよく知らないわたしの前だというのに、どうしてこんなに無防備なんだろう。そもそもなぜ、わたしと守永さんが社員食堂で一緒に食事をとることになったのか。
 それは、盲目のおじいさんを2人で呼吸器内科に案内したときに遡る。

————

 守永さん誘導の元、3人で呼吸器内科へ行くと、割とすぐに白石さんが呼ばれて看護師さんと共に診察室へ入っていった。わたしは守永さんに向き直る。
「ありがとうございました。あとはお会計だけなので、わたしが付き添います」
 お礼を言って守永さんに休憩行ってらっしゃい、と言うと目を丸くされた。
「なに言ってるんですか。ここまでご一緒させてもらって後はよろしく、なんて言うわけないですよ。僕も最後まで付き添います」
 どうやら結構頑固らしい。
「いや、でも……」
 押し問答が続きそうな予感がした時、誰も乗っていない車椅子を押す女性が現れた。首に花柄のスカーフを巻き、CAさんのような服を着たその人は、受付の事務員さんの方を見て「白石健三さんのお迎えに来ました」と言った。医療コンシェルジュさんだ。
「まだ診察中です。そちらのスタッフがご案内されてました」
 受付の事務員さんが手のひらで守永さんを指すと、コンシェルジュさんはわたしと守永さんの前にやって来た。
「医療スタッフの手を煩わせてしまって申し訳ありません。後はこちらにお任せ下さい」
 丁寧に腰を折り曲げて謝罪するコンシェルジュさんに、わたしはたじろいだ。しかし、わたし以上にたじろいでいたのは守永さんだった。
「あ、ぜ、全然大丈夫、です。あ、後はお会計だけですので……」
 顔を真っ赤にさせて両手をブンブンと振る。その人に対しての反応とは真逆に、守永さんは落ち着いた様子でわたしを見た。
「それじゃあ後は案内のプロに任せて、僕たちは行きましょうか」
 あまりに違う態度に複雑な気持ちになりながらも、わたしはなぜか「はい」と頷いて、歩き出した彼の背中について行った。
「あの、どうしてコンシェルジュさんが来られたのでしょう」
 無言でついていくのも憚られて、タイミングよく来たコンシェルジュさんのことを聞いてみた。守永さんは目線だけ天井に向けたあとにっこりと笑った。
「多分、呼吸器内科の事務員さんがコンシェルジュさんに連絡したんだと思います。職員の僕が白石さんを連れてきたから」
 聞けばこの病院はコンシェルジュさん以外の職員が患者さんの案内をしていたら、コンシェルジュさんに連絡するシステムになっているらしい。付き添っていたわたしと守永さんもお互い敬語で、白石さんまでも敬語だったので怪しまれたのかもしれない。
 呼吸器内科は2階にあり、帰るなら1階に下りなければならないのに、守永さんがエレベーターの上階行きのボタンを押した。これは、無言でお前は階段を使って下りろ、と言われているのか。
「それじゃあわたしは下に行くので、階段で行きますね」
 お疲れ様でした、と頭を下げると「お昼ご飯ってもう食べました?」と聞かれた。わたしは首を横に振って「まだですけど……」と答える。
「じゃあ、こないだのお礼、させてください」
 こないだのお礼というと、守永さんが貧血で倒れた際にわたしが勝手に介助した時のことだろうか。別に見返りが欲しくてしたわけではないのだけど。
「いや、お礼されるほどのことはしていませんので……」
「しましたよ? お礼させてもらわないとまた貧血で倒れるかもしれません」
「どういう理屈ですか」
「あ、でも今財布持ってないや……いや、昨日社員証に5,000円チャージしたな……」
 どうしてもお礼がしたいらしい。守永さんはひとりでボソボソ呟いた後、右側の頬にくぼみを作った。
「社員食堂でご馳走させてください」
 社員食堂。そこは社員が利用する食堂のことだとわたしは認知している。
「いや、わたしは併設するカフェのアルバイト店員で、この病院の職員ではないので……」
 やんわりと断ったつもりなのに、守永さんは「僕がいるから大丈夫ですよ」などと微笑んでくる。
「この時間は休憩してる人も少ないですし、ここの食堂の親子丼が絶品なんです。ぜひさくらさんに食べてもらいたいです」
 頑固で強引なのになぜか嫌じゃない。人の心に入ってくるのが上手いのか、単純にわたしが彼のえくぼの落とし穴に落とされたのか。
「……ではお言葉に甘えて……」
 相手が守永さんでなければ殴ってでも帰っていたと思う。アイドル顔だから殴れない、と本能がストップをかけたのかもしれない。
 わたしは小さく頷いて、職員通路を進む彼に付いていった。

————

 で、向かい合って座り、一緒に親子丼を食べている今に至る。
 守永さんは親子丼2人前を注文すると、顔写真入りの職員証を提示して支払いをしてくれた。どうやら職員の人たちは職員証に現金をチャージすることができ、院内の食堂や売店で利用できるらしい。
「『見ず知らずの若い女性にこんなに優しくされたのは初めてだ。本当に嬉しかった』って、白石さんが言ってましたよ」
 中学生にも見える童顔の守永さんは、育ちがいいのかキレイに親子丼を食べ進めていく。真っ直ぐ目を見て話してくれる彼にさっきから褒められるばかりで、もともと悪い居心地がより一層悪くなった。
「いや、別に……ただ放っておけなかっただけなので……」
「その精神がすごいですよね。僕も見習わなくちゃ」
 畳みかけるように尊敬される。わたしも守永さんのその真っ直ぐさは見習いたい。大人になって誰かを褒めたり、誰かから褒められたりすることがあっただろうか。
 周りの喧騒が、わたしにとって心地の良いBGMに変わっていた。本来ならば守永さんとわたしは客と店員という、それ以上でもそれ以下でもない関係だった。それなのにこうして一対一で面と向かって言葉のラリーを続けていることに、不思議さはありつつも違和感はないのはなぜだろう。ほぼ毎日カフェで顔を合わせているからだろうか。
「あの、わたし、守永さんにいくつか聞きたいことがあるんですけど……」
 丼を空にして、ご馳走様と手を合わせた守永さんに、どういうわけかわたしは口を開いていた。
「はい。なんですか?」
「あ、えっと……」
 特になにも考えていなかったので自分で言っておいて言葉に詰まる。真っ直ぐわたしの質問を待っている守永さんを見て、心の奥底にあった好奇心がひょっこり顔を出した。
「守永さんは、おいくつですか……?」
 いきなり年齢の話をするのはどうかと思うが、気になるので聞いてみる。勘では24歳のわたしより年下だけど……
「今年26です」
「26……?」
 思わず反芻してしまった。え、この容姿でまさかのわたしより年上? 人は見かけによらなさすぎる。
 そんなわたしの心の内を読み取ったのか、守永さんはそっと微笑んだ。
「この身長と見た目のおかげでよく中学生に間違われます」
 それは笑って言うやつじゃないでしょう。でも彼は特に気にしていないのか、「その反応だとさくらさんは僕より年下ですね?」と意地悪そうに言った。
「すみません。てっきりわたしと同じか年下だと……」
「でもそんなに変わらないですよね。さくらさんは僕より2歳くらい下ですか」
「当たりです。今年24です」
「でしょうね」
 なんだろう、この喋りやすい感じ。初めましての人ではないからか、守永さんの雰囲気が良いからなのか、年齢が近いからなのか……居心地の悪かったはずの社員食堂は、居心地のいい場所になりつつあった。
「で、他に質問は?」
「あ、えっと……守永さんって、女性が苦手、ですか?」
 莉衣菜ちゃんやさっきのコンシェルジュさんに対する受け答えがしどろもどろだったのが気になっていた。いや、それだけではない。わたしも性別上は女性なわけで、わたしとは普通に話せている理由が知りたかった。
 守永さんは少し驚いた顔をして、「バレちゃいましたか」と言った。
「僕、女の人ってなぜか苦手で、うまく喋れなくなっちゃうんですけど、さくらさんとは普通に喋れるんですよね」
 それが自分でも不思議で、と付け足した。
「さくらさんってなんか、話しやすいんですよね。僕的には」
 クールだと言われているわたしが話しやすい。この人の目と勘は腐ってるらしい。頭部MRIでも撮ってもらった方がいいのでは?
「それってわたしを男性だと認識してるってことですか」
「まさか! 可愛らしい女性だと認識してます!」
 食い気味でそう言われて、ボッと顔から火が出た。
 か、可愛らしいって……!
 対する守永さんも自分の発言に気が付いたのか、顔を真っ赤にした。髪の毛に隠れていない耳までも真っ赤に染め、氷しか入っていないコップを慌てて傾ける。
 この短時間のトークラリーで分かったことは、守永さんは正直者だということだ。タチの悪い年上である。
 小さく咳払いした守永さんは、赤い顔を隠すことなく、わたしと目を合わせた。
「さくらさんってクールそうに見せて、実は情に厚くて人間がお好きでしょう」
 情に厚くて人間が好き……?
「自分では分かりません」
 そんなこと考えたこともなかった。わたしはただ、息をして生きているだけで、夢も希望もないつまらない人間だと思っている。
 真っ直ぐな守永さんは、優しく微笑んだ。
「僕には分かります。だから多分、普通に話せるんだと思います」
 接続詞の使い方がおかしい気がする。『だから』で繋がる理論だとは思えない。
 でも、よく分からないけど、守永さんと話していると心が温かくなる気がする。アイドル顔のくせに包容力がありそうで、思わず飛び込んでしまいそうだ。そんなに仲良くないのに不思議だな。
「あ、やばい。休憩がそろそろ終わる……」
「すみません、気が付かず……親子丼、美味しかったです。ご馳走様でした」
「いいえ。こちらこそありがとう。明日またココアを買いに行きます」
 まだ聞きたいことはあったが、守永さんはまだ仕事中だった。名残惜しさがありつつも、一緒に1階に下りてわたしたちは別れた。
 振り返ることなく去っていく守永さんの背中を見て思った。
 この人とはいい友だちになれそうだ。羽原君の次くらいに。


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