![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/109693970/rectangle_large_type_2_baa0255de4b64a43cce8e5e26a1e4d98.jpeg?width=1200)
スマイル・アゲイン 第1話
あらすじ
24歳の木下さくらは両親を事故で、妹を白血病で亡くし、心の底から笑えなくなった。そんなさくらは、飛鷹総合病院内にあるコーヒーショップで働いている。ある日、毎朝ココアを買いに来る放射線技師・守永侑希が倒れていた所を、偶然さくらが介抱する。それを機に彼のことを意識し始めるが、両親と妹を連続して亡くしたさくらは大切な人を失うことの恐怖に慄いていた。しかし、常に優しく接してくれる侑希の隣は居心地が良く──
女性が苦手な青年と悲しみを抱える女性の、院内ヒューマンラブ。
香ばしいコーヒーの匂いを嗅ぐと、カフェインを体内に取り入れたわけではないのに、なんとなくシャキっとする。
「お待たせしました。熱いのでお気を付けくださいませ」
熱いエスプレッソの入ったカップを白衣姿の男性客に手渡すと、彼は「どうも」と言って受け取り、白衣を翻して去っていった。
時刻は朝6時半。東京にある飛鷹総合病院1階のテイクアウト専門のコーヒーショップで、わたしは朝6時から働いていた。
ここは病院内にあるため、入院患者やお見舞い客、看護師や医師など色んな人が利用する。朝一番は職員が多く、病院の外来が始まる午前9時頃から一般客が増え始める。入院病棟もある総合病院なので、夜勤や当直の職員の為にこのコーヒーショップも24時間開いている。わたしは基本、午前6時から午後1時までの7時間勤務を週5日こなすアルバイトだ。
自動ドアはなく通路に面しているので、カウンターから見えるのはクリーム色をした廊下と白い壁のみ。そこを職員の人たちが忙しそうに行ったり来たりしている。夜勤の人たちかなぁとぼんやり考えていると、目の前に人が立った。
「おはようございます。ホットココアSサイズをひとつ、お願いします」
あ、いつもの人だ。
このコーヒーショップは、通常だとココアSサイズが150円のところ朝6時から10時まで限定で、100円で買える。毎朝それを買いに来るのが、160センチのわたしと変わらない背丈に白のユニフォームと白衣を纏った、アイドル顔の男の人だった。顔が小さく、笑うと右側にだけえくぼが出来る。わたしが今年24歳なので、同じくらいか年下か。見ようによっては中学生にも見え、本当の年齢は不詳だ。
「はい、ホットココアSサイズひとつですね。他にご注文はございませんか?」
いつもと同じ質問をして「はい、大丈夫です」といつもと同じ返事をされる。
首から提げている名札には、入社したての頃の顔写真が載っていて、今とあまり変わらないアイドル顔がこちらを見ている。名前は守永侑希。放射線技師。
ここの病院の職員は、職種によって制服が違うが、白衣を着ているからといって全員が医者という訳では無いようだ。現に目の前の放射線技師も医者ではないのに白衣を着ている。なので白衣を来ている人は名札を見ないと医者かそうじゃないか判別がつかない。ここにバイトに来て約1年。白衣の人が来たら真っ先に名札を見る癖がついた。別に医者だから接客を丁寧にするとか、そういったことをする為に見ている訳では無い。ただの好奇心だ。
注文を受けた店員がドリンクを手渡しするシステムなので、レジで会計をしている間にココアのサーバーにホット用のカップをセットしてボタンを押す。湯気と共にフワッと香るココア。蓋を付けて湯気も香りも閉じ込める。
「お待たせいたしました。熱いのでお気を付けくださいませ」
会計を終えた守永さんに営業スマイルでココアを差し出すと、彼は右側の頬をくぼませ「ありがとうございます」と両手で受け取って、コーヒーショップを離れた。
先輩によると、わたしがここでアルバイトを始める前から、守永さんはほぼ毎日ココアを買いに来ているらしい。よっぽどココアが好きなのか、倹約家なのか。まぁなんでもいいけど。
「やっぱりココア王子、さくらちゃんには普通だね」
レジ係をしていた、同じくバイトの莉衣菜ちゃんに声を掛けられた。彼女は20歳の看護学生で、飛鷹総合病院の隣にある看護学校の生徒だ。授業が始まる前までここでアルバイトをしている。年下だが、バイト歴は莉衣菜ちゃんのほうが半年ほど長い。ボブカットの薄茶色の髪の毛をゆるふわに巻いて、わたしより背の小さいタレ目の莉衣菜ちゃんは癒し系。こんな看護師が担当だったら癒し効果で病気も治りそうだ。
ココア王子というのは莉衣菜ちゃんが名付けたあだなで、このカフェではわたし以外が守永さんのことをそう呼んでいた。
「わたしは男の店員と同レベルってことよね」
悲しいかな、さっきの放射線技師——守永さんは、どうやら莉衣菜ちゃんに気があるらしい。いや、莉衣菜ちゃんだけでなく他の女性店員に気がある。ただし、わたし以外。
というのも、わたしと男性店員には普通に注文したり受け答えするのに、莉衣菜ちゃんや他の女性店員だと顔を真っ赤にして目を泳がせながら注文するのだ。多分、女性が苦手なんだろうけど、わたしも生物学的には女性なわけで、男性店員に対する受け答えと一緒なことに、つい特段の営業スマイルが出てしまったりする。別にどうでもいいけど。
「顔はめっちゃいいんだけど、人によって態度変えるの、莉衣菜は嫌だなぁ」
莉衣菜ちゃんは頬を膨らませた。ハムスターみたいでますます可愛い。
「金づるだと思って働こうよ」
身も蓋もないことを言うと、「さくらちゃんってクールだよね」といつもの言葉を言われた。
アルバイトにも適用される社員特権で、好きな飲み物を好きなサイズで1杯だけまかないとして飲めるので、Lサイズでココアを淹れて上がらせてもらった。
バックヤードにある更衣室で着替えて、救命救急センターの出入口から外に出る。
3月下旬の昼間は時間がなんとなく緩やかに流れている気がする。時折頬に当たる風は冷たいが、ゆっくりと季節を春へと移している。
『咲き誇る満開の桜はもう見れないのか』
ふと妹の声が蘇る。5ヶ月前に病院のベッドに座って窓を眺めながら呟いた一言。あれから冬になり降り積もった雪は、今はもう跡形もない。
わたしの心とは裏腹に流れていく時間。今、わたしの心を温めてくれるのは、このココアだけだ。両手で包み込んで暖を取る。
病院から少し歩いたところにある職員用の駐車場へ向かっていると、白衣姿の人がわたしの前を歩いているのに気が付いた。少し猫背気味でトボトボと歩いている。飛鷹総合病院のお医者さんかな?
わたしの向かう方向にその人も向かっているので、若干ストーカーっぽく思われそうなのが癪だが仕方がない。どこかで横道に逸れてくれないかな、と思っていると、その人は突然しゃがみ込んだ。
え、なに。どうしたの?
思わず立ち止まって様子を窺う。なにか落としたのかと思ったが、一向に立ち上がる気配を見せなかったので、足元にあるものを拾うためにしゃがみ込んだわけではなさそうだった。
さすがに無視して通り過ぎるわけにはいかず、駆け寄って声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
両腕で膝を抱え、顔を埋めているので顔色が窺えない。すると、手のひらをこちらに向けて「お構いなく」と小さな声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声のような気がする。
「ちょっとショックな出来事があって。しばらくしゃがんでいたらじきに治りますので、お気になさらず」
ご心配ありがとうございます、と消え入りそうな声で丁寧に看病を拒否された。
年下の莉衣菜ちゃんにいくらクールだと言われていても、あそうですか余計なことをしてしまってすみませんでしたそれではお大事に、と言って立ち去れるほど冷淡ではない。幸い、道の端っこなので車に轢かれるなんてことはないだろうが、一応治るまで見守ろうと決めた。
「すみません、さすがに放っておけないので勝手に近くに居させてもらいますね」
背中をさすったりするべきか考えあぐねていると顔を伏せたまま「看護師さんですか?」と問われた。見えていないと分かっていつつも首を横に振る。
「いえ、違います。飛鷹総合病院のカフェでバイトしてる者です」
そう自分の正体を明かすと、その人は急に顔を上げた。顔面蒼白で唇まで真っ青のその人は、毎朝Sサイズのココアを買いに来るアイドル顔のココア王子——守永侑希さんだった。
「あっ……」
わたしの顔を確認するなり、守永さんは体勢を崩して道路に倒れこんでしまった。わたしを化け物だと思って倒れたのではないことくらい分かっている。どう見ても貧血で倒れたのだ。
「大丈夫ですか? 分かりますか?」
「あ、分かります。意識はあります。すみません」
よかった。意識消失はしてない。ただ顔が真っ青で辛そうだ。
「ホントすみません。すぐ起きますので……」
申し訳なさそうにしながら起き上がろうとするので、「ダメですよ」と制した。
「貧血ですよね? 幸い辺りには誰もいませんし、しばらく横になっててください。あ。足上げますか?」
守永さんは少し戸惑っていたが、この場から去ってやるもんか、というわたしの意思が伝わったのか、大人しく横になった。
「……すみません。じゃあちょっと上げてもらってもいいですか?」
わたしは無言で頷いて、持っていたカバンを守永さんの足の下に入れた。
「…………」
彼は額に手を当て、目を閉じている。そっと盗み見て、あまりの顔の小ささに驚いた。片手に収まりそうな小顔はテレビで見るようなアイドル顔で、睫毛が長くて目や鼻や口のパーツのバランスが良い。身長がわたしとそう大差ないのが少し残念だが、生きてるだけでモテそうな顔をしているだけで十分だろう。天は二物を与えない。どっちかというとイケメンというよりキレイな顔立ちで、つい見惚れてしまった。
しばらくしてゆっくりと瞼が持ち上げられた。見惚れていたのでカッチリと目が合う。見えないなにかが2人の間を抜けた。
「……ココア、飲みます?」
目の逸らし方が分からず、とりあえず手に持っていたココアを差し出した。先ほどまで真っ青だった顔に色が戻ってきた守永さんは、「あ、では、いただきます……」とゆっくり上半身を起こした。
「さっき淹れたやつです。あ、すみません、飲みかけなんですけど」
さすがに間接キスは嫌だろうと、飲み口付きの蓋を外して、いまだ湯気の立つココアを手渡す。守永さんは両手で受け取り、カップを傾けた。
コクコクと喉仏を上下させながら飲み下す守永さん。カップから口を離すと、「やっぱり」と小さく呟いた。
「さくらさんの淹れるココアって、他の人より美味しい気がする」
アイドル顔がそんなことを口走る。「え」と目を丸くしていると、彼は自分の発言に気付いたのか、今度は顔中を真っ赤にさせた。
「いやっ、あのっ、なんて言うか、そのっ」
いや、とあの、とその、を何度か繰り返し、最後は聞き取れないほどの小さな声で「すみませんでした」と頭を垂れた。
「どうして謝るんですか。守永さんは何も悪くないのに」
「いや、だって……ってアレ? どうして名前……」
「守永さんもわたしの名前、どうして知ってるんですか?」
つい癖で営業スマイルを向けると、守永さんは合点がいった顔をした。
「ああ、名札……」
あのコーヒーショップでは支給されたエプロンの胸ポケットに名札を付けることになっていて、自分で書かなくてはいけない。わたしは名前の『さくら』を青色で書いて、その周りにピンク色で小さく桜を描いていた。彼はそれを見たのだろう。ほぼ毎日顔を合わせていれば名札を見て名前を覚えるなんて容易い。
「ところで、お仕事に戻らなくても大丈夫なんですか?」
白衣姿で歩いていたということは仕事がまだあるのだろうと思ったが、守永さんは「帰るところだったんです」と言った。
「当直明けで午後から休みだったので、帰り支度をしていたんですが、更衣室で倒れそうになっちゃって……迷惑がかかるので外に出たんですけど、結局迷惑かけてしまいました」
申し訳なさそうに苦笑するアイドル顔。わたしは首を横に振った。
「迷惑だなんてそんな。こちらこそ甲斐甲斐しく寄り添ってしまって申し訳ないです」
「なに言ってるんですか。さくらさんってお人好しですね」
いやいやとんでもない、とお互いに押し問答が始まる。ふと、守永さんはここにいるのがわたしで本当は残念なんじゃないかと思ってしまった。わたしなんかより莉衣菜ちゃんの方がよかったのでは。
ひとりで勝手に申し訳ないと思っていると、彼は体調がよくなったのか足元に置いたわたしのカバンを持ってゆっくりと立ちあがった。それを見てわたしも立ち上がる。
目線の高さはやはり一緒だった。
「さくらさんも帰るところでしたよね? たかだか貧血で色々とありがとうございました。しかも美味しいココアまでいただいてしまって……申し訳ありません」
地面に口づける勢いで頭を垂れるので、すこし焦った。
「貧血起こした人がそんなに頭下げないでくださいよ。っていうか、もう少し座ってた方がいいんじゃないですか? あの公園でもう少し休みます?」
隣の公園を指差すと、守永さんは苦笑した。
「僕の貧血は脳貧血なので、さっき寝かせてもらってだいぶ落ち着きました。もう本当に大丈夫です。また今度お礼させてください」
これ、ありがとうございました、とカバンを渡されたので、両手で受け取る。それじゃ、と再度頭を下げて守永さんはわたしに背を向けて病院へ戻っていった。
もう背中は丸まっていない。
「そっか、脳貧血か……」
しばらく真っ直ぐ歩く様子を見て、確かに大丈夫そうだと思ったわたしは、駐車場に停めたブラウンの軽自動車に乗り込んだ。
『さくらさんの淹れるココアって、他の人より美味しい気がする』
守永さんの言った言葉の真意は分からないが、わたしが淹れようが他の人が淹れようがココアは同じ機械からボタンひとつで出るものをカップに注ぐだけなので、味が違うわけがない。
守永さんって変わってるな。
いつもココアを買っていく放射線技師でアイドル顔の常連客。
「それにしても顔、小さかったな……」
わたしはエンジンを入れて帰路についた。