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スマイル・アゲイン 第2話

「あ、おはよう、ございます……ホットココアの、え、Sサイズ、ひとつ、お願いします……」
 翌日、朝6時半。いつものように守永さんがココアを買いにやってきた。ただ、今日の接客は莉衣菜ちゃんでわたしはレジだ。守永さんは莉衣菜ちゃんに対してしどろもどろで注文をしていた。
 注文を終えた守永さんは、先にお会計を済ませようとレジ前までやって来る。
「あ、さくらさん……」
 目が合ってあからさまにホッとした顔をされて、わたしはいつもの営業スマイルで守永さんを迎えた。
「おはようございます。ココアSサイズ1点で100円です」
「はい……あ、すみません。1,000円でお願いします」
 小銭がなかったのか、1,000円札1枚を渡された。レジを操作してお釣りの小銭を手に取り、レシートを下にして小銭を守永さんの手のひらに置く。すると守永さんは反対の手を口元に当てて、内緒話をするように言った。
「あの、昨日はありがとうございました」
「ああ、いえ。ちゃんと帰れました?」
「はい、おかげさまで。で、あの、お礼がしたいんですけど……」
「ホットココアSサイズの方ぁ」
 莉衣菜ちゃんがこちらを見て声を上げた。守永さんの後ろには待っている人もいる。
「あ、はい、すみません!」
 彼は顔を赤らめてレジから離れた。わたしも次の人の会計をする。
 お礼なんて別にいいのに。ただ放っておけなくて勝手に世話しただけで、しかも世話って言ってもココアあげただけだし。守永さんって律儀だな。
 莉衣菜ちゃんからココアを受け取った守永さんは、なにか言いたそうにこちらを見ているが、わたしは並んだ会計を捌くのに忙しく、気にかけてあげられない。
 やがて「あ、守永発見! 緊急でポータブル入ったから行ってくれる? 当直がMRI入ってて人手足りないんだよ」と、白衣姿の男性に連れ去られてしまった。
 放射線技師って忙しいんだな。
 連れ去られている最中、こちらを振り返って小さく頭を下げた守永さんに、わたしも小さく頭を下げた。

「さくらちゃん、なんか今日、ココア王子とヒソヒソ話してなかった?」
 来るときは一気に来て、いなくなれば当分来なくなるお客さん。今はいなくなって閑散としてしまったところに、莉衣菜ちゃんがニヤニヤしながら話しかけてきた。
「ヒソヒソ話はしてないけど、昨日帰りに倒れちゃったあの人を介抱したら、お礼がしたいって言ってくれただけだよ」
 そう言うと後ろから「へぇ」と、別の人の声が聞こえた。わたしと莉衣菜ちゃんは同時に振り返る。
「さくらって倒れた人を介抱してやる優しいやつだったのか」
 バックヤードから出てきたのは、わたしより頭ひとつ分ほど背が高く、金髪に両耳ピアスで少し色黒の男の子だった。
「え、羽原はばら君ってわたしが優しいこと知らなかったの? 同級生なのに」
「本当に優しいやつは自分から『わたし優しい』なんて言わねぇよ」
 人差し指でおでこをちょい、と押された。痛いな。
「ちょっと、セクハラですよ店長」
「うるさい。減給」
「それパワハラ!」
 彼はわたしと高校が一緒だった同級生で、このカフェの店長をやっている。見た目はチャラいが、経営に関してはプロフェッショナルでみんなをまとめるのがうまい。実際、高校の時はバスケ部のキャプテンだった。
「店長とさくらちゃんって本当に仲良しですよね」
 一連のやりとりを見ていた莉衣菜ちゃんが、再びニヤニヤしながらわたしたちを交互に見る。羽原君は「そうだろ」と笑った。
「社員になるよう口説いてんだけど、フラれ続けてんだよなぁ。莉衣菜ちゃんからも言ってよ。社員になると給料上がるよって」
「気持ちは嬉しいんだけど、わたしは今のままで困ってないから社員にはならないです」
「またフラれた。莉衣菜ちゃん、慰めてー」
「店長面白いけど、莉衣菜のタイプじゃないからごめんなさい」
「年下にもフラれた……今日はもう帰ろうかな」
「ダメだよ。9時からレジ交代だから」
「社畜~」
 自分で割り振った当番でしょうが。しかし、おちゃらけているようで真面目な店長・羽原君は、お客さんが来ると「いらっしゃいませ」と白い歯を見せ、爽やかに挨拶を繰り出した。このオンオフの切り替えの速さは、尊敬する。
「で、ココア王子を介抱したって?」
 若草色のスクラブ姿の男性客が莉衣菜ちゃんに注文している隙に、羽原君がわたしの隣に立って小声で聞いてきた。
「ああ、うん。道で貧血起こしてたから、体調良くなるまでそばにいただけだけど」
「ふうん。そばにね……」
 羽原君は何か考え込むような仕草をしていたが、レジにお客さんが来ると「エスプレッソMサイズ270円です」とわたしの仕事を奪った。ちょうどをいただいた羽原君は「ありがとうございました」と去っていくお客様の背中にお辞儀をする。
 頭を上げたと同時に、羽原君はわたしに向かって言った。
「さくら。今度俺の奢りで飯食いに行こう」
 突然気前のいいことを言うので、少々面食らった。
「えっ、羽原君の奢り? 今まで割り勘だったじゃん。どうしたの急に」
「俺の気まぐれ。今、頷いとかないと割り勘になるぞ」
「それは嫌だ。分かった、行く」
 せっかく奢ってくれるという羽原君の気まぐれに頷くと、彼はまたわたしのおでこを人差し指でちょい、と押した。
「よし、忘れんなよ」
 それこっちのセリフだよ。
 羽原君はニッと笑ってバックヤードへ消えていった。

 7時間勤務を終え、今日もLサイズのホットココアを片手に家に帰ると、玄関の上がり框に立てている柵の前で飼い犬のつぼみが尻尾を振って出迎えてくれた。中型犬の雑種で、もう10歳になる。人間で言うと60歳だ。薄茶色の毛並みで大きめな瞳。チャームポイントは垂れ耳で、大切に大切に育てられたお嬢様である。
「つぼみ、ただいま」
 声を掛けると彼女は息を荒くして柵に飛びついた。まるでお腹を空かせた猛獣だ。わたしは柵から出ないようにつぼみをお座りをさせ、上がり框を超えて廊下を進んでリビングへ向かった。
「ただいまー」
 ドアを開けて挨拶するが、返事はない。つぼみを連れて、仏間へ向かう。
 6畳ほどの部屋の端っこに置かれた仏壇の前で正座をすると、つぼみも隣に来て行儀よく座った。わたしはその背中をひと撫でして、手を合わせた。
「お父さん、お母さん、ひより。ただいま帰りました」
 チーンと鳴らしたり線香を焚いたりはしない。ただ静かに手を合わせるだけだ。
 仏壇に飾られているのは、照れ臭そうに笑った父と、優しく微笑む母と、元気に笑う妹の写真。この3人は、わたしを置いて先に旅立ってしまった。父と母は交通事故で、妹は病気で。
 残されたわたしの使命は、この家の管理とつぼみのお世話だけ。
 つぼみの息遣いだけが聞こえる部屋でしばらく仏壇を眺めたわたしは、つぼみのご飯を用意するために立ち上がった。

 警察から両親が事故に遭ったと電話がかかってきたのは、5年前。地元の国立大学に入学して1ヶ月が経った頃だった。
 5月のゴールデンウイークを利用して両親は2人で旅行に出かけた。家族4人で行く予定だったが『結婚20年目なの』と目尻にシワを作って笑う母に、わたしは『2人で行ってきなよ』と言った。妹のひよりは高校2年生で一緒に行きたそうにしていたが、来年は家族4人で北海道に行く約束を取り付けてお留守番することを選んだ。
 両親は帰りの高速道路で、対向車線からはみ出した大型トラックに突っ込まれて即死だったらしい。
 ひとつ救いだったのは、すでに楽しく旅行を終えた後だったということだ。『木下家女子会グループ』と名付けられたわたしと母と妹3人のグループメッセージに、誰かに撮ってもらったらしい夫婦2人の写真や行った場所の写真、父の寝顔写真など楽しそうな写真が母から度々送られてきていて、『楽しそうでなにより』と返信していた。『今から帰ります』のメッセージに『はーい』と返した文字にも既読が付いた。そこで3人のやり取りは終わっている。
 ついていくべきだったのかどうかは、いまだに答えを出せていない。
 妹のひよりが病に侵され、入院生活を余儀なくされたのは、それからすぐのことだった。
 わたしにはひよりしかいないし、ひよりにもわたししかいない状態だったので、わたしは通っていた大学を辞め、なるべくひよりに寄り添うことにした。なにか福祉の資格を取りたかったのでサービス介助士の資格を取り、わたしに出来ることはなんでもした。
 ひより本人も辛い治療に耐え、「絶対治してみせる」と前向きに頑張っていたが、ひよりの身体よりも病の方が大きかったらしい。5年の闘病を経てひよりは1ヶ月前に旅立った。
 両親もひよりも、『頑張れば乗り越えられる』をモットーに生きていた。『頑張ることが正義だ』と自分を鼓舞し、パワーに変えて生きていた。
 それなのにわたしの前からあっけなくいなくなってしまった。
 今のわたしには希望などない。息をすることさえも億劫になることがある。それでも生きているのは、ひよりとの約束でもあるし、それになによりつぼみがいるからだ。わたしはまだ家族全員を失ったわけではない。
 隣でドッグフードにがっついているつぼみを見つめる。彼女はわたしの視線に気付いたのか、口周りを汚したままこちらを見上げて首を傾げた。思わずふふふ、と笑いが出る。
 皿の縁を指で叩いて「食べな」と言うと、大きな瞳の雑種犬は再びご飯にがっついた。


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