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人を見る目とマイノリティに向けられる意識

「私には人を見る目がない」という自覚はあったけど、正確には私にそういったセンスのようなものがないからなのではなく、私が良くも悪くも目立つので他人から意識されやすくて「普段のその人」の姿を目撃する機会に恵まれないからなのではないかと感じはじめた。とある出来事があってから。

最初からあからさまな悪意か好意を向けられる機会がたぶん他の人より多い。私にいつまでも常識や平均的な認識が身につかないのはこういった理由からなのかもしれない。

あまり自分のことを客観的には見られないから合ってるかどうかはわからないけど。

本業の仕事がない日に、少しでもマイナスにならないようにするために派遣のバイトをしていて、前まで働いていた派遣先で大規模な派遣切りがあったので、新しい派遣先を探している。

そこで行った新しい倉庫で、私にだけ(ホントに私にだけ)猫なで声で優しく話しかけてくるおじさんたちがいるのだが、一方でミスが多くてひとみ婆さんのような動きをする小さいおじさんに対しては半ばいじめみたく接してるのを見て、自分に向けられる意識というのはその人の中間値からは離れているものが大半なんだろうな、と初めて自覚した。

私自身、大した知りもしない相手の表面的な部分だけを見て、悪意や下心を抱いた状態で人間関係を始めるということがあまりないので、自分に向けられる意識をそのまま受け取っていた。それに加えて私自身の自己評価が思っているよりもさらに平均から外れてたぽい。

見た目を良くするとあからさまに異性は優しくなる割合が増えてしおばさんは冷たくなる割合が増える。今は気になってる人がいて、やっぱり見た目を良くするほど関心を向けてくれるので、かわいくなりたいと思うし、そのためなら同性からの悪意にも甘んじられる。その人が他の人と違うのは、掃除のおばちゃんにもコンビニの店員さんにも優しいし、ポンコツおじさんがいてもいじめたりしないところ。そういうところに安心感を感じた。

いざという時にその人が「私の思ってたその人」でなくなるのは悲しい。そしてこの現象は大体一対一でしかその人と関わらなかった場合に多く起きる。色んな人と関わるのも大事だけど、身近な人は安心感のある人がいい。

私みたいな者が主観で相手を見極めることは難しい。その場におけるマイノリティに対して、また他者から観測されづらい場所で、その人が他人に対してどう振る舞うかにそのひとのいわゆる「本性」とかみたいなものがあり、それをよく観察することが私に必要なのではないかと思った出来事だった。

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