失いたくないものがたくさんあるということ
8月ころに記事を書いた職場のおばちゃんのお父さん(じいちゃん)が亡くなった。
この記事。
https://note.com/otobokeina/n/nf41ee313b246
私がその知らせを聞いたのは約一週間前に届いた店長からのメールだった。話を聞く限り元気そうだったのに、突然亡くなってしまっておばちゃんもびっくりしてるだろうなと思った。
おばちゃんと仲の良いもう一人の職場のおばちゃんから話を聞くと、じいちゃんと一緒に畑に行って耳鼻科に連れて行って、帰ってきて家のソファで横になって休むと言って、そのまま息を引き取っていたらしい。老衰だった。
今朝おばちゃんが挨拶に来て、忙しい時に休んでごめんねと、おせんべいを置いていってくれた。「突然亡くなってびっくりしたでしょ」と私が声をかけると、「亡くなった朝、一緒に畑に行ったときに、じいちゃんに種まきすぎだ!って怒鳴っちゃったんだよね、後悔してる…」とため息混じりに返してきた。じゃ行くね、とおばちゃんはこちらに笑顔を向けたけど、なんだか泣いてるみたいに見えた。
おばちゃんはまたこれから一人で暮らすことになる。これから数年間くらいは介護する覚悟はあったんだろうけど、その“覚悟”はきっとこれからも一緒に暮らす人がいるという“期待”でもあったのだろう。
じいちゃんが体調を崩したのは今年の頭だった。それからおばちゃんは、おばちゃんの兄夫婦と住んでいたじいちゃんを、施設に入れるなんて可愛そうだからと引き取って一緒に暮らし始めた。
おばちゃんは9ヶ月間も自分の休みを削って、友達と遊ぶのも大好きなウィンドウショッピングするのも我慢して、じいちゃんを介護しながら、じいちゃんの生きがいである畑作業に毎日のように付き合っていた。
ここまでやってたら、もう十分親孝行していて後悔はなさそうだと思うのだが、最後にちょっとだけ大事にできなくて、それを謝る相手がもう存在しないことがおばちゃんを苦しめていた。
私も、親しい人を何人か亡くしている。おばちゃんの話を聞いて、私も、彼らと最後に交わした言葉は、覚えてないくらいどうでもいい言葉だったり、ひどい言葉だったりしたな、と思い出した。
今生の別れと分かっていたならもっとちゃんと想いや感謝を伝えたのに、と思う。人生は卒業式みたいには終わってくれなくて、いつもいきなり終わる。
だとしても、目まぐるしい毎日を、そういった思いや感謝を噛み締めながら生きる続けるのはとても難しい。やらなきゃいけないこと、やりたいことは、生きてる限り湧いてくる。こういう尊い気持ちも、きっと忘れたくないのに忘れていってしまうだろう。
好きになった人たちもきっと居なくなっていくんだろうな、と思うと、まだ失ってもいないのにシュンと、寂しくなった。
私の職場には私のお母さんくらいの歳のおばちゃんが、全部で3人いたのだが、一人は先月にガンのステージ4であることがわかって辞めてしまい、もう一人のおばちゃんもヘルニアで足が痛いと言っててどうなるか分からない。
ガンで辞めてしまったおばちゃんと最後に交わした言葉もまた覚えていない。なんなら、いつが最後だったかも覚えていない。あれが最後だと分かっていたなら、今までありがとうってちゃんと伝えたかったし、おばちゃんがずっと食べたがってた私の手作りケーキも作って持っていったのに。
この大好きな職場も、少しずつ変わり続けて、いつかはなくなるのかと思うと、目の前にあるまかないの蕎麦ですら尊く思えてきた。(これは仕事の休憩中に考えていたことを綴ったnoteです)
でもその時ふと気づいた。今だかつて、こんなにたくさん“失いたくないもの”に囲まれていたことが過去にあっただろうか?と。
ちょっと思い返してみたけど、今が一番失いたくないものがたくさんある。こんなにたくさん失いたくないと思えるものと出会えて私はなんて幸せなのだろう、と思った。
幸せって大体失ってから気付くものだけど、一番幸せなときに一番幸せであることに気付けた私は、とても運がいいかもしれない。せっかくなので、この幸せが続く限り、じっくり味わいながら生きていきたい。