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自分の言葉

私は最近文章を書くのにハマっている。

でも、元々自分の中に書きたいものとか表現したいものなんてそんなにないから、そういう書きたいものが自分の中で結晶化してキラキラしだしたら、一気に書き出して、磨いて、投げている。

書きたかった言葉が全部キレイに文章に収まると嬉しい。自分で書いた文章なのに、新しい発見があったりする。こういう感覚が気持ちよくてハマってる。

ハマってるというか、依存に近いかもしれない。依存して何が悪いのかというと、今日みたいに変な時間に発作的に文章が書きたくなって寝れなかったりしてふつうに困る。明日の仕事が休みのときはいいけどね。

こんなにも言葉で遊びたくて遊びたくて仕方がないのは、自分が言葉を持っていることを今まで知らなかったからだと思う。新しいおもちゃを見つけた子供と大差ない。

余談だけど、私の発達障害の特性なのか、一度何かにハマると、それを納得いくまでやり尽くさないと気がすまない。気がすまないというか、気になって正常に生活できない。一度火がついたら燃やし尽くすしかない。

だから、燃やし尽くしたい発作が起きたら自分の気が済むまで、自分に付き合ってやらないといけない。

このモードに入るともう救いがなくて、やっても生活が破綻するし、やらなくても仕事や睡眠の質が下がるし、どっちにしてもダメになる。でも後者のほうが実害が長引くので、衝動のままに燃やしてやり、早めに鎮火させるしかない。




私の目はいつも他人に向いていた。すごく小さい頃は自分のことも見ていた気がするけど、「仲間はずれにされるのは私がみんなと違うからなんだ」と思って、みんなと同じになるために他人ばかり見るようになった。

私の中にいつもあった問いは、

「『みんな』になるためにはどう感じるべきか?」
「『みんな』になるためにはどのように振る舞うべきだろうか?」

といった感じだった。

あまりにも長いことそれに時間を割いていたから、『みんな』に擬態することを前提とした思考が当たり前になった。それに、生存がかかっていると思いこんでいたから。

それだけ擬態してても変なヤツだって言われるときがあったけど、年を重ねるに連れて、仲間はずれにされないくらいには擬態はうまくなったと思う。

でも、擬態に尽力しているうちに、私は私の中に言葉があったということを忘れてしまった。



私が自分の言葉を思い出せたのは本当に偶然で、たまたま入った読書サークルで推奨されている「くらがりチャレンジ」というやつのおかげだった。

「くらがりチャレンジ」とは、安全だと分かっているけど心細いことをあえてやってみようという遊び。

実は、くらがりチャレンジ的なものは、読書サークルに入る前にやってたことがあった。それは「食わず嫌いチャレンジ」。

私は、あまりにも食わず嫌いが多かった。どのくらい多かったかというと、19歳まで植物とチーズと卵とハンバーグと練り物とツナ缶しか食べれなかったくらい。

これの何が良くないかというと、人からもらった食べ物を受け取れなかったり、目上の人にせっかくご飯を奢ってもらうのに、めっちゃわがまま言ってるみたいになってしまう。

「あ、それも、それも、それも、あ、それも…ダメなんです…すみません……」という感じに。あまりにも他人に申し訳ないので、3年くらいかけて、食わず嫌いの食べ物を少しでも減らそうと、ひと通り食べてみた。

試してみたほとんどの食べ物はやっぱり嫌いだったけど、これによって牛と豚と鳥と羊などの塊肉と一部の魚がおいしく食べれるようになった。ちょっと普通の人に近づけたので、これはこれでやっておいてよかったとは思ってる。



でも、私は「食わず嫌いチャレンジ」では自分の言葉を思い出せなかった。なぜだろう?と考えると、それは両者の前提の違いにあると思う。

「食わず嫌いチャレンジ」と「くらがりチャレンジ」の明らかな違いは、前者が他人に申し訳なくてやっていたのに対して、後者は自分の興味を動機としていることに大きな違いがある。(私の場合)

くらがりチャレンジは「能動的な体験」であり、自分への純粋な関心に直結する。

「くらがりチャレンジ」をすると、自然と以下のような、ごくシンプルな問いが降ってくる。

「私はどう思っただろうか?」
「私はどう感じただろうか?」

私はたぶん、初めて自分自身に関心を持てたのだと思う。 

「言葉の素」みたいなものはずっと私の中にあったけど、私はそれを言葉にすることができる、言葉にしてもいいものなのだと、知らなかった。

主語が『みんな』だと、場によって変動する正解・不正解がある。でも、「私がどう思うか」には、変動も正解も不正解もない。

私がそう思ったなら、そう。好きも嫌いも楽しいも嬉しいも怖いも悲しいもそのまま受け入れていい。

自分に自分のことを問われたら、無くしたことすら忘れていた自分の言葉を、そこに見つけられた。




くらがりチャレンジは今も好きで、「飲んだことのない飲み物を飲む」程度の軽いやつを毎日、「知らない世界に足を踏み入れる」みたいなやつを月に1、2回やってる。

いろんなことを体験するほど自分を知ることができて、それを言葉にするのが楽しくなってしまって今に至る。

こうやって文章を書くと未だに人の反応とかはやっぱり気になるけど、でも、前とは「気にしかた」がちがうことにも気づいた。

以前の「嫌われないかな?」「『みんな』っぽくみえるかな?」という心配からくる関心ではなくて「どんな人がこれをイイって思ってくれるんだろう?」という、ポジティブな関心があり、人と仲良くなるきっかけとかにもなってるのがすごくいいな、と思う。

自分ではめっちゃお気に入りの記事が全然他人にウケなくて、適当に当たり障りのないことを書いた記事が大ウケしたりするので、やはり私の好みはニッチなのだなぁと感じられたりするのも楽しい。

ちなみに最近の一番のお気に入り記事はこれです。

今日も発作で書いてしまった。いつか書こうと思っていたことが書けてよかった。まだしばらく依存も発作もあるかもしれないけど、やってくうちにちょっとずつうまく扱えるようになるといいな。

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