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お薬カレンダー

厚生労働省の研究データによれば、処方薬が服用されずに廃棄される量は、年間数百億円から数千億円規模と推計されている。
どんな名医でも薬の処方はできるが、それを「飲ませる」ことはできない。
当たり前だが、「飲ませる」ことができなければ治療にならない。

「大丈夫、自分で飲めるから!」

訪問依頼のあった女性は苛立ちを隠さず言い放った。
彼女は夫と二人暮らしの80代女性。
今まで薬を管理してきたが最近は怪しい。
若い頃、看護師をしていたというプライドも失っていないのだろう。
近くに住む娘が確かめようとするが、一切触らせない。
認知症が少しずつ悪化しているようで、同じ用件で1日に何度も電話が来る。
母の病院に付き添うと、待合室では「うちの旦那、外で女作ってるんだよ!」とまことしやかに隣の人に話す。
「ほんとに恥ずかしくて困るのよ…」娘の訴えは切実である。夫との関係もうまくいっていないようだ。

初めて会った彼女は不安と不満の見え隠れする複雑な表情をしていた。

「最近疲れやすくて、家事が大変!」
「それなのに、夫はまったく手伝ってくれない!」
「週に1回のデイサービスも、やっとの思いで行ってるのよ!」

日ごろの鬱憤を晴らすように、思いの丈を私にぶつけてきた。
ひたすら彼女の訴えに耳を傾けた。

やがて、彼女の表情が緩んだ。タイミングを見計らって、「飲んでいる薬を見せてほしい」と頼んだ。すると抵抗なく私をキッチンまで連れて行った。彼女はどや顔で食卓の引き出しの中身を私に見せてくれた。いつもそこから薬を出して飲んでいるらしい。
しかし私が目にしたのは、数年前のお薬手帳、いつ処方されたか見当もつかぬ黄ばんだ薬袋、むき出しのまま散乱している薬たちだった。
かろうじて薬袋に入っている薬も残数がすべて異なり、受診日から計算してかなり不足している薬もあった。

まったく、どこから手をつけたらよいか途方に暮れてしまった。
すると、どこからか満杯の買い物袋を両手にぶらさげて戻って来た。
どうやら手つかずの状態で入っている1ヶ月分の薬らしい。

とりあえず、今まで一人で薬を管理してきた(しようとした)労をねぎらい、薬をうまく飲めていない点には一切触れなかった。ただ薬のことで家族が心配していることを伝え、みんなを安心させてあげてほしいとお願いした。

そこで私は「お薬カレンダー」を恐る恐る出してみた。

「お薬カレンダー」とは、薬の飲み忘れや飲み間違いを防ぐためのカレンダーケース(ポケット)のことである。色々な種類があるが、持参したのは壁掛け式で1週間分の薬を朝・昼・夕・寝る前に分けて管理するタイプである。曜日は移動できるので、服薬開始の曜日を一番上に持ってくることができる。ポケットの一番上の段から朝、昼、夕と順に薬を取り出して飲めばよい。次に飲むべき薬がどこにあるか一目でわかる。家族や介護者も飲み忘れを確認できる。

認知症になると自分は病気だという「病識」はなくなっても、なんとなく変だという「病感」は残ると言われている。彼女はプライドや自負心から自己管理にこだわっていただけで、本当は誰かの助けを求めていたのかもしれない。

「日付を書いて、カレンダーの上から順に入れていきます。できますか?」と聞くと、
「そんなの簡単だよ」と乗り気である。
まずは日付と曜日を一緒に確認しながら薬袋に書く。次に同時に飲む薬をホチキスでまとめる。この作業は難しそうだったので私がした。そして、同じ曜日の薬を朝・昼・夕・寝る前に分けて入れてもらった。ときどきポケットを間違えたが、さりげなく正しい場所に入れ替えた。こうして無事に「お薬カレンダー」づくりを終え、食卓前の壁にぶら下げた。

そして 翌週の訪問日。
「果たして、どれだけ飲めているだろうか?」
私は期待と不安の中でリビングに入った。
すると壁から外された「お薬カレンダー」がテーブルの上に無造作に置かれている。
ポケットはすべて空。

「全部飲んだよ。」

一瞬、目を疑った。急いで食卓の引き出しを確かめに行ったが、そこに薬はない。(ご主人の了解を得て引き出しの薬は全て処分しておいた。)
しかも、ご主人は一切声をかけていないというから驚きだ。
これほど「お薬カレンダー」の威力を感じたことはなかった。少しの工夫で服薬できる場合があることを学んだ。
年末年始は訪問が休みになるので、2枚のカレンダーに2週間分の薬をセットした。今度は昼の薬が数回分残っていたが、大事な薬はすべて飲めていた。

「薬が飲めているせいか調子がいいみたいだ。」

ご主人は嬉しそう。
飲めていなかった時は、動くとすぐに息切れをしていた。
それも、最近は気にならなくなったという。
血圧も安定してきた。
母の笑顔の数は増え、頻繁にあった電話も減ったと娘は笑う。

そして、家族にとって一番の悩みだった、嫉妬妄想がなくなった。


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