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第5章 / 未来は常に始まっている.


5−1 
VUCAや突然変異を歓迎する性質


 パラレルな思考。
 パラレルな組織。
 パラレルな体験。

 同時多発が歓迎されている。

 なぜ、そうなっているのか?––––

 ––––IT技術の「発展」によって、目の前にある選択肢の幅や数が爆発的に増殖し、太古の昔からある「VUCA(変動性/不確実性/複雑性/不明瞭」がより進行したからだ。

 その「発展」というのも、大量のプロダクトを売買するという画一的なベクトルを持つインダストリアルな進化(何次にも渡る産業革命のようなコト)ではなく、(もしかすると、ルネサンスから市民革命への変遷以来の)大きな文化的な急進が、短期間で、多数、起こっているのではないだろうか。

 例えば、我々が、今、重宝している情報とのインターフェイスは、紙の本や新聞からスマホへ、テレビからTikTokへ、漫画からWEBTOONへと、とにかく時短/大量摂取へと舵を切った。

 物質で腹を満たすのではなく、情報で心を満たすためのテクノロジー。

 物的に作用するのではなく心的に作用するそれらは、社会における選択肢を異常増幅させ、結果、より複雑で不確定要素の多い、常に不安定かつ曖昧な世界観(空気感)が生まれている。

 それは、科学技術者であり芸術家でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチが活躍したルネサンスと酷似し––––「テクノロジーの進化によるアーティスティックな着想」と「アーティスティックな発想によるテクノロジーの開発」という真逆の流れを持つ2つのプロセスを高速に行き来させている––––

 ––––前者は、科学者やエンジニアがメディアアーティストになるような流れで––––例を挙げれば、「進化したテクノロジーを使ったアート(例:デジタルアート)」など。

 ––––後者は、テクノロジー企業で、文系のクリエイターが技術に裏打ちされた高性能なモノの開発が目指すべき上質なコンテクストとはどのような体験であるかをコンサルティングするような動き––––こちらは、例えば、「アーティストがディレクションするテクノロジー(例:SFプロトタイピング)」など。

 ––––この両者の行き来が、超高速に、連続し、多発することで、シフトの連鎖を生み続けている。

 突然変異が日常茶飯事化したのだ––––そんな一寸先は闇の世界をしなやかに生き抜くためには、分からなければ分からないほど悪くならない「反脆弱性」をもって、その常変性を歓迎する姿勢を持つ必要がある。

【 反脆弱性については第2章↓ 】

- - - - -

 ドラッカーは、とっくに––––

「今、社会は精神的な価値への回帰を必要としている。物質的な世界を補うためでなく、物質的な世界に意味を与えるために必要としている」

 と、言った。

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 シュトッカーは、とっくに––––

「イベントはより起こり得る(未来予測のできない偶発的な)ものに。人々の意識は、オブジェクトやドキュメント(作品や記録など過去に完成されたモノ)から、プロセス(コト)へ移行する」

https://ascii.jp/elem/000/000/305/305825/

 と、言った。

- - - - -

 これらは、VUCAや突然変異という、ある面での「悪」を歓迎する「反脆さ」を持つためのポジティヴな提言であり指針だと思う。

 ドラッカーの云う「物質的な世界に意味を与える精神的な価値(物的なモノに意義を付与する心的な作用)」は、一瞬で刷新できるというメリットを持っている––––寺社仏閣そのモノは変化しなくても、「教え」は進化しているように––––(かつては女人禁制だった高野山は、千年以上前から姿を変えず、しかし、今では、生物学上の性別で区別することなく多様な人々を受け入れている。そして、その参拝者には日本人以外も含まれている。こういった現代人にとっての常識は、鎖国していた江戸時代までの日本人の心の中では非常なことだった)

 シュトッカーの云う「記録でもある作品(例:本とか映画)ではない個々の記憶の中でしか成立しないイベント(例:ディズニーの絵本を読むコトではなくディズニーランドへ行くコト)」は、受動するだけだった鑑賞型のカスタマーを能受動的な干渉し合う参加者に変え、そこで生まれる現象(いや、現象を生むプロセス)を民主性に委ねる––––寺社仏閣は宗教側のモノであっても、「祭り」は信者を含む民衆のコトであるように––––

 物として具現化/固定化していないからこそ、永遠の未完にある精神的なプロセスは、常に、日々刻々と、更新され続ける––––それは、唯一の何かや特定の誰かから決め付けられるようなコトではなく、不特定多数の人々が互いに影響し合う中で自由自在(予測不能)に変化し続ける。

 次の瞬間には新しくなっている「常新性の希望」だ。

 そう考えると、「VUCA(変動性/不確実性/複雑性/不明瞭)」は、不安だけでなく、次世代の希望を生む状態のように感じる。それは「常新性」と同義なのか……


【 A I は そ の 最 た る 存 在 か も 知 れ な い 】


 この章からは「常新性の希望」を紐解いていくと同時に、あんなに繰り返し重要と述べてきた「ナラティヴ」をも抑え、本書のキービジュアルに大きくタギングした「IMMERSIVE SOCIETY(想像による創造に没入する世界)」について、「xR(VR/AR/MRの総称)」の定義を交えながら書いていきたい。

 なぜなら、「xR」というのは、本来、最先端技術でも、デバイスの分類でもなく––––例えば、上記した「宗教」「祭り」「ディズニーランド」などを含む「発想の名前」であり––––

 先に結論を予告しておくと、可変的な心の有り様を指し––––

 それこそが、僕の伝えたい「常新性の希望」であるからだ。

 それを加速させる構造が「ナラティヴ」で、民主的な物語りを活性化する「エンパワーメント(権限委譲)」には「許し(for-give = 与えるため)」あふれる精神––––豊かな心の有り様がマストになる。

5−2 
多重世界の在り処


 毎晩、頭まで被った布団を宇宙船に銀河を旅し、睡魔に負け続けた幼い日々から、僕にとっての世界は「唯一の現実」+「数多くの仮想世界」というパラレルなフィールドでしかなかった。

 バスタオルをマントにすれば、たちまち悪を倒すヒーローに変身できたし、ままごとで一家の大黒柱になって泥団子を食したり、小さな浴槽はしばしば深海になり、そこを潜水服を着せたレゴブロックの人形たちとくまなく調査した。

 そのとき、僕は、自失していたわけではなく、どこかでちっぽけな自分の存在を感じながら、確かに広大な宇宙や未来や深海にも別の自分を同時多発させていた。

 テレポーテーション、ワープ、なんでもアリ。

 そんな並行宇宙は、どこに在ったのか?––––

 ––––月並みだが、心の中に在った。
   そして、今なお、
   空の向こうじゃなく、そこに在る。

 人は物心ついた頃から、無限の仮想現実チャネルを持っているのだ。いや、仮想チャネルを持つことで、脳を心という幻に変化させていくのだ。

 仮想 =「想像による創造」という機能の本質は「今現在の自分ではない何かに成り切る(没入して体感する)コト」––––つまり「憑依」にある。

 人は、未来の自分を想像するから、眠ってみる夢じゃない夢を追い駆けるし、過去の戦争を想像して戦争に強く反対する。今を一緒に生きる他の動物や草花の気持ちになって、環境に少しは配慮できたりもする。

 これらは、思い描くだけでは効果が薄い。

 未来の自分に成り切ってこそ、過去の日本人に成り切ってこそ、現在の人間以外に成り切ってこそ、働く機能だ。

 僕が他人を傷付けないでおこうとするためには、僕が痛みを知っている(経験)だけでは不十分で、相手に成り代わって(想像上で)僕を傷付けて、未来に先回りしたような感覚で、仮想的に僕が傷付く必要がある。

 それを想像力と呼ぶ。

 想像力のない人は、痛みを知っていても、その痛みを他者に与えることに躊躇できない。だって、仮想的に本気で自分が傷付かないうちは、相手の痛みというのは、いつまで経っても知ったこっちゃない無関係の外側だから。

 おそらく、子供が、笑いながら虫を大量に殺したりする残虐性はそこから来ている。それは、本来、然るべき人類の姿なのだ。大人は、心という幻覚で頭ではなく胸を痛め、その本能を理性というオブラートに包んでいく。

 苦痛や善悪の根源は、物理的な反応ではなく、精神的な情報にあるのだと思う。

 それが、人間だ。

「人類」は、(物理法則と自然摂理が支配する)唯一の世界に一動物として生きている––––が、「人間」は、そんな絶対世界と(個々の頭の中だけにある想像が支配する同時多発の)ヘイコウセカイらとの「間」に生きている。

 このヘイコウセカイを仮想現実と呼び、そこに没入する体験のことを「バーチャルなリアリティを持つ」という意味で「VR」と呼んでいる。

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 人は、月の光さえ届かないような闇夜に目を閉じて眠っていても、色鮮やかな夢を見る。

 もっともプリミティヴ(原始的)な「VR」は、恐らく「夢」だ。

 夢の中の音声や手触りなどは、すべて脳の情報処理が起こす幻想的な没入体験に過ぎない––––そう考えると、VRという言葉が、技術領域やデバイスの種類を表す用語になっていることに違和感を覚えるはずだ。

 VRというのは僕たちの心の中にある現象や体験のことを指し、太古の昔からある文化に他ならない。ファンタジー映画を観るのも、SF小説を読むのも、心的に没入していれば(FPV:1人称視点であれば)立派なVRだ。

 眠ってみる夢/目覚めて追い駆ける夢––––想像によって創造された仮想セカイへの強い憧れは、「人類」を自然摂理と物理法則が支配する唯一の現実から逃避させ、ついに「人間」という囲いを築かせた。

 それが「社会」だ。

 社会は、物理法則や自然摂理ではない我々の心の中で同時多発する想像上のシロモノだ。六法全書という紙の束はあっても、法律というシロモノを見ることはできない。四方を海に囲まれていても、国境という線はどこにも現れない。ビルはあっても、企業というシロモノに触れることはできない。

 それらは、すべて人間にだけ通用する(人間以外には絶対に通用しない)幻だからだ。生まれたての赤ちゃんは人間ではなく、まだ人類だ。だから、赤ちゃんの脳内には、法律も、国境も、企業もない。

 社会という幻覚を知らない。

 善悪や苦痛は今から感じることであって、
 知ることはできていない。

 だから、あんなに泣いているのか?

 いや、あんなに大声で泣いて、自分という「か弱い存在」の位置を周囲に知らせる行為は、自然界ではご法度だろう。だとすれば、もっとも最初に覚えた(あるいは、もはや本能として刷り込まれた)社会的な幻こそが、涙を流して、寂しがったり、悲しがったりすることなのかも知れない。

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 魔法という概念を、どこで覚えたろうか?
 仮想現実に没入して覚えたはず……映画とか絵本がそれだ。

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「魔法」という概念が発明されて以降の人々は、マジックを見たときに「魔法みたいだね」というたった1文だけで、感想を述べるコトができる。

 実際には、見たコトも、やったコトもないはずの「魔法」なのに––––

 本来、もっと多くの言葉を用いて––––例えば「目の前にいきなり鳩が現れて、とても驚いたし、不思議な気分だ」と表現しなければならないところを––––たったの「魔法みたい」で済んでしまう。

 それは、「魔法」という言葉に、仮想的な(想像上の)魔法体験から得た情報が詰まっているからだ。

 その現象は、科学的でも、現実的でもない。
 自然摂理からも、物理法則からも、逸脱し、
 仮想現実内のみに存在している。

 マジックを観たことのある人はたくさんいるが、実際に、魔法を見たことのある人はいない(少なくとも僕の周囲には)。それでも、かつて(子供の頃)の僕は、確実に、その口先から発した呪文によって指先から伸びる光で悪を倒していた。

 このように仮想が現実へ高度に溶け込むと、人々は都合良くその学習プロセス(本来、必要とされる客観的な根拠:物理法則あるいは自然摂理上のエビデンス)を頭の隅に追いやり、実用性のみを切り取った想像の産物を現実社会に適用する。

 つまり、人間の経験則の獲得にとって、リアルな体験であるか、バーチャルな体験であるかは重要ではない。だから、自動車教習所があるし、美容師や理容師の卵は人形の髪を切って練習をする。

 赤信号は止まれ!
 車は左側を走れ!

 これは、いずれも、物理法則でも、自然摂理でもない。

 人間が心の中だけで共有している幻のルールだ。

 だから、場所が変われば、後者は「右側を走れ」と、容易く覆る。そんな可変的な(絶対ではない)理は、自然や物理では許されない。

 人間は、子供のような妄想で大人の現実的なソリューションを生んでいるコトに、見て見ぬフリをするのだ。

 複雑な物事を理解できるから賢いのではない。
 真理に辿り着けぬよう複雑にする愚かさなのだ。

 人の心理は、間違いなく、あらゆる教えに則れば悪だ。
 無殺生で生きることは不可能だ。
 だから、線を引くしかない。
 その「線を引く」という行為を、シンプルにしてしまうと、
 悪が露呈するから、複雑で理解不能な存在を造った。
 神と呼んでもいいし、悪魔と呼んでもいい。
 あるいは、宗教や、宇宙そのものかも知れない。

 ベジタリアンは、菌類には無頓着だ。
 だから、乳製品や発酵食品は食べる。

 ビーガンは、菌類を二分し、なるべく殺菌しない。
 でも、毎日、身体を洗えば、菌は一定殺すしかない。
 つまり、「積極的には殺さないで済む菌」と
「殺さざるを得ない菌」の間に線を引き、
 その信念の一環として乳製品を口にしない。

(断っておくが、ベジタリアンやビーガンを批判したいわけではない。僕も、一時期、ベジタリアンだったことがある……再び、肉食になった僕は、一度も菜食主義になったことのない人よりも罪深い気がしている……自覚がある分、性が悪い。僕は僕以外を責めるつもりはない)

 ある国では、鯨を食べない。
 でも、その先祖は、もっとも鯨を殺した人かも知れない。
 が、そもそも、先祖というのは、
 ルーシーやアルディ、あるいは、アダムとイヴまで遡れば、
 もはや、鯨を食す日本人の祖先でもある。

 スーパーで切り身で売られている鯨は、
 あなたが想像するよりも、ずっと、
 イルカに近い見た目からも知れない。

 その瞬間、食べられなくなる人もいるだろう。

「犬は飼いもするし、食べもする」
 こう書くと、残酷に感じる人は多いが、
「魚は飼いもするし、食べもする」
 には、そこまでの残酷さを感じない人も多い。

 ある宗教では、特定の動物のみを殺さない。

 これらに真理はない。
 あるのは、それぞれが持つ
 幻の複雑性のみだ。

 複雑さを乗り越え、まやかしの真理(偽善)に辿り着いたとき、我々はそれを信仰するモチベーションや理由を得る。

 そうして、結局、「人は、あらゆる他者を(場合によっては同類をも)殺して生きている」という生々しく肉感あふれる真実を、複雑怪奇な毛玉の中に匿う。そうして、おだやかでほがらかなふわふわとしたおぞましくおびただしい何かに包まれて、温かく安心して眠りに付き、それを安全とか呼ぶのだ。

「安」心できるのは「全」てではなく「人」だけなのだから、「安人」と書くべき安っぽい心。

 自分の悪口は、これくらいにしておこう。

 以下は、複雑さで、真理を匿う代表例だ。


▶︎食糧不足の際には何の役にも立たない「金(Au)」という物質との為替価値(想像の産物)を、少しばかり上質な紙に、数字というまやかしで印刷した紙幣というシステム

▶︎広大な土地の一部を壁で囲い、外の現実と隔離し、魔法という想像の産物を付与することで生まれた夢の国(という国ではない遊園地––––そもそも、国ってなんだ?)

▶︎今となっては、命をかけて戦い、領土を広げ、庶民の暮らしを豊かにすることもできない「侍」という創造の産物を名乗る人々が、江戸時代の後半でも、農民や商人や職人などを支配していた。それを馬鹿らしいと思う現代人の多くだが、いざ、自分の祖先の話になると、「農民」よりも「武士」であることを願ったりする(物理法則上も、自然摂理的にも、まったく意味のない想像の産物である地位でも、想像の産物である人間社会においては、いまだに意味や価値を有する状態が続いている)


 これらは、すべてを、仮想による現実の拡張「AR」と呼ぶことができる。

 人類に限って、世界の約半分は、物理法則や自然摂理というリアリティのない「人工的な想像の産物(バーチャルなリアリティ)」によって出来ている。

 さらに「AR(想像力で拡張された世界)」に没入するあまり、その幻想を、物理法則や自然摂理のように重んじてしまう––––つまり、誰も見たことのない非物質的な「神」による創世という概念が生まれた神話時代から、この世界は、ずっと、「AR」に没入する「MR(仮想によって拡張された現実を、自然摂理や物理法則など本物の現実と一緒くたにする = 複合してしまう、つまり、没入する世界)」なのだ。

 そして、それを「人間社会」と呼んでいる。

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 魔法という言葉は、もはや「AR/MR」だ。
 仮想現実内にしか存在しなかったはずの魔法が、
 現実と仮想のインターフェイス(界面)を飛び越えて、
 人類が生きる真の現実的な世界を、仮想で拡張している。

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 このように「xR」はデバイスやテクノロジーの分類ではなく、昔からある発想や精神的な体験の種類だ。

 革新的な先端技術ではなく、太古から続くプリミティヴな発想であり文化––––

 それは、「夢」や「魔法」という「言葉」だけでも実現できる。

 今現在、もてはやされている「xRゴーグル」のように、必ずしも視覚情報を伴う鑑賞や体験である必要はない。

 次にそれを詳しく解説していく。

5−3 
夢は4種類


 夢の話の前に、アートの話を少しだけしたい。

 アートが伝承されるとき、「技術革新」と「記録関するパラダイムシフト」の相互関係が大きな役割を果たし、アートはその「間」に生まれる摩擦と熱と共に発展してきた。

アートの歴史は記録テクノロジーの歴史でもある

 まず、狩猟社会において、人類史上初となるアート的な技術革新が生まれた。(正確には、それ以前から一部で利用していたであろう)鳴き声を含めた「音声言語」と、何かを描くための「顔料」だ。

 人々は、音声による言語(意思疎通)によって「噂」と「伝説」という想像による創造を始めた––––それは、人間特有の情報社会の幕開けも意味していた。

 農耕社会に移ると、定住が始まり、1つの集落が生きるために有益な「近所の沼に大きな魚がいる(※)」という噂が、いつの間にか「近所の沼には主がいて、その怒りを買うと祟り(食当たり)がある」というようなものに変化し、より複雑で高度な噂に形を変えていく。

※ 他の集落から資源を守るだけでなく、自分の集落内の乱獲を防ぐ(内部の秩序を守る)ためにも「噂」は非常に有益な方法だった。いわゆる情報戦だ。コストがかからないというのも大きなメリットだった。沼の周辺に物理的な柵を張り巡らせたり、あるいは、24時間体制で見張りを立たせたりする必要がない。ただし、人間にしか通用しないコトだった。噂を鵜呑みにして魚を獲らない鳥や獣はいない。

 いつしか、それは、他地域からの侵略を防ぎ、得体の知れない病気を何かのせいにして希望を見出す(捏造する)ような自己防衛的な物語となっていった––––それが「神話」だ。

 それは、口承(ナラティヴ ※)という記録(正しくは、時を超えて存在する集合知 = 記憶)を生んだ。アカシックレコードなんてものは、僕らの心の中に先祖代々メモリーされているのかも知れない。

 ナラティヴは、人間社会の起源の時点で、すでに文化醸造において主要な役割を果たしており、時代によって民主的に可変し統合と分散を繰り返すご都合主義の(みんなが創作に携わるコトで状況に合わせて可変する)物語りによって、各時代に合わせた「神」という伝説を、常に、社会の有益なシステムとして機能させてきた。

【 永遠の未完を目指すナラティヴとは? 】

 現代ですら、多くの「神話」という「捏造」が、社会や人間のレゾンデートルの根本を支えている。

 前述の「金(Au)」に由来する(でも、ニクソン政権以降、実はそうでもないであろう)通貨の価値、後述する企業という人治社会、完璧ではない脆い「法律」など、これらはすべて物理法則や自然摂理として成立しているわけではなく、「神」のような、あくまで人間の心の中だけにそびえ立つ精神的な支柱や信頼関係で成り立っている「幻」だ。

 口承が聴覚情報による神話を生み出す一方で、顔料は「絵画」という視覚情報による記録を生み出し、誰も見たことのない「神々」や「神話の世界」を可視化するコトに成功した。

 池の主はより誇張された大きさを持つコトで、より神話的な役割を果たす場面もあっただろう。

 人類は、そういった現実的ではない想像の産物に過ぎない部分に、アートにおける仮想的な(現実的ではない)価値や意図を徐々に組み込んでいったのではないだろうか。

 このように、人間社会は、初期の段階から、すでに情報化社会(情報=人間だけに通じる物理法則でも自然摂理でもない幻を重んじる世界)であり、前章の「多重世界の在り処」で述べたAR社会(想像が現実社会を拡張している状態)だった。

 夢を見るコトが原始的なVR(仮想現実)だとすれば、口承や壁画は原始的なARだ。ただの物質に仮想を組み合わせるコトで、その物質(現実)を拡張し、自らその不文律の中に没入するコト=MR(複合現実)状態で生活をしてきた。

 僕は、このような「物質 + 想像(仮想)の産物」で構成される世界を「IMMERSIVE SOCIETY(没入社会)」と名付けた。

 それは現代にまで続いている。紙幣は「紙 + 交換価値」、ディズニーランドは「広大な土地と石や木(建築物)+ 夢と魔法」というように、それらの約半分は想像の産物によって信頼が担保されている。

 ちなみに、眠って見る「夢」も、分類の仕方によっては、次の4種類に分けられる。


① 現実の外側にあるバーチャル(完全に空想の世界)を鑑賞している状態

例:架空のファンタジー世界を歩いている誰かを見ている
※ 誰かが、自分の場合もある

文章で書くと––––「男が、空の上を歩いている」


② 現実の延長線上にあるAR(空想によって拡張された現実世界)を鑑賞している状態

例:渋谷を歩いている誰かを見ている
※ 誰かが、自分の場合もある

文章で書くと––––「男が、渋谷を歩いている」


③ バーチャル(①)の世界に没入するVR体験

例:架空のファンタジー世界を歩いている自分に憑依している
※ 自分が、誰かの場合もある

文章で書くと––––「私は、空の上を歩いていく」


④ AR:拡張現実(②)に没入するMR体験

例:渋谷を歩いている自分に憑依している
※ 自分が、誰かの場合もある

文章で書くと––––「私は、渋谷を歩いていく」


※「鑑賞」と「体験」の定義

▶︎ 鑑賞:TPV=3人称(神様)視点から眺めるコト

▶︎ 体験:FPV=1人称(主人公)視点で体験するコト


【 x R コ ン テ ン ツ を 体 験 し て み る と わ か る コ ト 】

もし、良ければ、こんな実験をしてみて欲しい。道具は何もいらない。ただし、2人(仕掛け人と被験者)で行う必要がある。被験者は、目を閉じる。仕掛け人は、次の2つの文章をゆっくりと読み聞かせる––––それだけだ。

被験者は、どんな光景を想像(捏造)するだろうか?



わたしは、街を歩いている
前からサトルが来るのが見えた
わたしが、手を振ると
サトルも、こちらに手を振り返した



マコトが、街を歩いている
サトルも、反対側から歩いて来る
それに気付いたマコトが、サトルに手を振ると
サトルも、それに手を振り返した



【 xR = VR / AR / MR:それぞれの定義 】
(人間の能動的(心の使い方)観点から)

VIRTUAL:
「想像によって創られたモノゴト」

VR:
「VIRTUALなモノゴトの中に僕たちが飛び込もうとする」
アプローチ

AR:
「VIRTUALなモノゴトを現実に飛び出させようとする」
VRと逆のアプローチ

MR:
「VIRTUALなモノゴトが飛び出した現実『AR』に没入する」
アプローチ


 原始的な「夢」や、ただ目を閉じただけの人に短い文章を読み聞かせるコトですら、バーチャル /ARという「鑑賞する仮想」、あるいは、VR/MR「没入する仮想」という4種類に分類できる。

「xR」というのは、最先端の技術ではなく、太古からある発想であり、物理的な技術でもなく精神的な現象なのだ。

「夢」や「実験」が示しているのは、まったく同じコンテンツでも、体験者の心のあり方によって「VR」にも「AR」にも「MR」にもなり得るというコトだ。

 それを、図解も加えて、より詳細にシェアしておきたい。


 校庭の地面に、
 白線で大きな四角形を描き、
 4つに区切ったとしよう。

 これは、言うまでもなく
 リアル(物理法則に則った現実)な現象だ。

「夢の国(遊園地)」を造るために
広大な土地の中の「建築予定地」を区切るようなコト

 この現実をしっかりと目に焼き付けてもらってから、ウェアラブル・デバイス(VRゴーグル:現実世界が透けないタイプ = ヴィジョン・プロ型ではなくオキュラスリフト型)を装着してもらう。

 デバイスを装着して見るあちらのセカイでは、4つに区切られたスペースは現実離れした建造ブツとして可視化される。

 それは上空に浮かんでおり、透明な床のはるか先に小さな小さな地上世界を見下ろせる。外壁はすべて流れる水で出来ていて、すれ違う人はすべて幽霊だ––––ただし、頭の中で、現実(白線で区切られた校庭)を覚えている限り、それは、映像で拡張した世界を鑑賞する「AR」に過ぎない。

元々はだだっ広く平らな土地だったところに
石や木を使って建築された「夢の国」を眺めている状態

 その空中建築ブツ(仮想)は、観るだけではなく、その中に入るコトが出来る。体験者の位置と連動して景色(視界)が変わるようになっている。体験者は、擬似的に、その建てモノの中を自由に歩き回ることができる。壁に近付けばきちんと壁が近付き、床にしゃがみ込めば、その分、天井が遠退く。別の部屋に入ると、内壁と天井がすべて「炎」に変わる––––3つ目の部屋は「闇」が、4つ目の部屋は「光」が壁/床/天井になっている。体験者は(現実ではあり得ないが)闇や光の上に立ち、闇や光に触れるコトができる。

「夢の国」に入り(没入し)楽しんでいる常態

 そうなると、「鑑賞」ではなく「没入体験 = MR」と化す。

 さらに、あちらのセカイに長くいると、個々人の心が、徐々に「そこが実際には校庭だ」ということを忘れて、完全に水と炎と闇と光のホテルに没入し、現実が、心中げ、消滅、あるいは、限りなく薄れはじめる。

 その瞬間、このコンテンツは「MR」から「VR」に変わる。

xRコンテンツ、今流行りの言葉で言えばイマーシヴ(没入型)コンテンツの演出家は、没入感を高めるために、つまり、一刻も早く現実を忘れてもらうために、あらゆる感覚情報を現実離れさせていく。だから、演出家がイマジネーションで支配できる閉鎖的な(現実から切り離した)空間:イマーシヴ・シアターが必要になる。xRクリエイターの作品は、バーチャル(メタバース)であろうが、現実(シアター)であろうが、一定の大きさが必要になる。そこに人を入れなければならないからだ。メタバースが街になるのも、ディズニーランドがあの規模になるのも、それらが目指すのが、身体ではなく精神の内包と、その中の行動の自由を担保するためだ。精神の内包とは言い換えれば、全感覚の支配にもなる。このコンテンツで言えば、没入感を削ぐ要素として、現実の校庭の「音」「香り」「地面の感触」などだ。透明なガラスの床に仮想的に立たせるためには、床は土であったはならないし、壁が水であるなら流れる音が必要だし、壁が炎に変われば温度を上げる必要がある。そうして、閉鎖的で動き回れる空間を、視聴覚情報のみならず五感で味わってもらうようにするために、イマーシヴ・シアターが必要になるし、ディズニーランドであれば、あれだけ広大な土地と周辺をシャットする高い壁が必要になる。

主人公視点で夢見ているとき
童話(例えば、シンデレラ)を読み聞かせてもらっている子どもが
ジブンゴトとして物語に没入している状態
MR状態から「現実」が失われ、完全に仮想世界の住民になるようなコト
「夢の国」をウェアラブルデバイスで仮想体験するようなコトも含まれる

 コンテンツ終了後、ゴーグルを外して、「校庭」という「現実」を再び認識した(思い出した)瞬間––––

「現実が拡張されて空中に浮かぶ幽霊だらけのホテルになっていた」

 という感覚が想起されれば、最終的には「AR」として記憶されるコトになる。

 つまり、このイマーシヴ作品は、まったく同じデバイスを用いて、まったく同じコンテンツとコンテクストを使いながら(映像を流しながら)も、「AR」という鑑賞に始まり、「MR」から「VR」という体験へと徐々に変化し、最後に、再び「AR」という記憶(思い出)として残るというものだ。

 この作品において、変わっていくのは、映像でも、舞台でもない。体験者の心の中(感じ方)だけが、変わっていく。

 そして、そのタイミングは、各個人次第で、作者が操作(演出)する構造にはなっていない。そもそも、どこを「見るか?」も、それぞれに委ねられている––––そう、ナラティヴだ––––体験者(カスタマー)の心が自由に決められる「トキ」––––だからこそ、この作品は、永遠に完成などしない。入るたびに異なる発見がある。

 さらに、他の人の行動によって、幽霊の動きや起こるイベントが変わるようであれば、それはマルチエンディングをはるかに凌駕する、変わり続ける未完のプロセスを持つイマーシヴ・コンテンツあるいはメディアアートの類いになるのだ。

 それの最高傑作が、ディズニーランドだ。

 ウォルト・ディズニーは、間違いなく、メディアアート(イマーシヴ・シアター)のパイオニアでもある。

 ナラティヴ構造を生み出す際、大切な3要素を思い出してみよう。

・ほど良い世界観の提示(設定)
・相対性を持つ関係(状況)
・断片化した情報出し(素材)

 これは、xRやイマーシヴ・コンテンツをつくる際のコツでもある。

 ちなみに、上記の「上空に浮かぶ仮想ホテル」で、体験中に床に触れようとすれば、校庭の土に触れてしまい、いくら視覚的に透明の床を見せ付けても、心は、その幻想から離れ、一気に現実へ戻ろうとしてしまう。

 視聴覚以外の感覚情報まで網羅した「xR」をつくるには「夢の国」のような場所(特区)をつくってしまうのが、いちばん手っ取り早い。

 すると、そもそも、視聴覚情報もリアルにつくってしまえばいい、わざわざウェアラブルデバイスを付けてもらわない方がいいと考えることもあるだろう。

 ディズニーという天才がどこまでの未来を見据えてあのランドをつくったのか、知る由もないが、あの時代に孤高にあの「VR」もしくは「MR」を創り上げたコトに、大きな敬意と畏怖を感じる。

 なお、「上空に浮かぶ仮想ホテル」コンテンツは、校庭でなくとも、自分の部屋でVRゴーグルを付けて楽しむこともできる。

 ただし、事前に「白線で区切られた地面」を見ず、あのセカイに飛び込むんだ場合––––

 あちらのセカイが「(校庭を映像で拡張した)AR」から始まることはない。いきなりバーチャルな世界に飛び込むため「VR」から始まるはずだ。

 まったく同じ映像コンテンツを同じインターフェイスデバイスで楽しむにも関わらず、校庭を見せてから楽しむと「現実が仮想的に空中ホテルに変化(拡張)した」と心が感じ「AR/MR」から始まるのに、それを見せていないというだけで、終始「VR」になる。

 やはり、「xR(VR/AR/MR)」は、デバイスなどのテクノロジーで区別するモノでも、コンテンツで区別するモノでもない。

 あくまで心の中で起こる作用であり、可変的な幻の分類––––現実が透けて見えないオキュラスリフトであろうが、現実が透けて見えるヴィジョン・プロであろうが、VR体験にもなるし、AR/MR体験にもなる。

 体験価値は、デバイスではなく、人の心が決めるのだ。

 だからこそ、テクノロジーが進化すれば、より良く起こせるという単純なシロモノやモノゴトではない。

 作者は、かなり綿密な演出計画を練る必要がある。

 にも関わらず、映画監督のように––––

▶︎ 視点(どこを見せるか?)
▶︎ 視界(空間的にどれだけ見せるか?)
▶︎ 時間(時間的にどれだけ見せるか?)

 などを、カット(切り抜くコト)も、編集もできない。VRをはじめxRコンテンツにおいて、そのような操作は不可能だ。

 では、どうやって、演出しろと言うのか?––––

 ここに、レコードメーカーで働いていた僕が「xRコンテンツ」のつくり手になった所以がある。

 映画のディレクターが「見たり感じるモノゴト」を演出するのに対し、 xR作品(イマーシヴ(没入)コンテンツ)のクリエイターは、「見方や感じ方」つまり「リレーションシップ(関係)」を設計する––––これは、現代のレコードメーカーで働く「A&R(ディレクター)」が行っている「聴くモノ(音源)」をつくるだけでなく、「音楽の聴き方や届け方」まで演出するのと同じ発想だ(※)。

※ 言い換えれば、現代のレコードメーカーにいるディレクターは、音楽を使って、どんな「xR」=「イマーシヴ・コンテンツ」をつくるか? を考える仕事とも言える。その具体的な手法が、ただのミュージックビデオではなく参加型の「踊ってみた映像」や「歌ってみた映像」の活性化であり、クラウドファンディングであり、昔からあるコンサートだ。

 言うまでもないが、すべてのxR体験はバーチャルの成立から始まる。ディズニーがつくった夢の国は、シンデレラという物語(誰かが捏造した仮想)が人類共通で認識されているからこそ成立するし、「魔法」も、「魔法」というバーチャルが人類の頭の中だけに存在している(あるいは共通で認識されている)からこそ成立する。

 このような客観的に認知されている共同幻想を「バーチャル」と呼ぶ。そのバーチャルを用いて現実を拡張した状態や物(物質あるいは現実+共同幻想)を客観的に認知(鑑賞)している状態を「AR」と呼ぶ。

 そして、現実にはない = 物質を伴わない純粋な「バーチャル」に没入するコトを「VR」––––「バーチャル」によって拡張された現実(物質を伴うバーチャル)である「AR」に没入するコトを「MR」と呼ぶ。

 バーチャルとARは3人称視点からの鑑賞であり、VRとMRは主人公視点(1人称視点)からの体験という分類もできる。

・捏造された物語などない状態 = 非常に現実的な(物理法則だけが支配する絶対的な唯一の)世界をリアルと言う。その別名が「自然」である。

・シンデレラ = 物語自体は、物質を伴わずに成立するバーチャルである。

・その物語を紙に固定(印刷)するとAR(拡張された現実)となる。

・石や木という物質で作ったシンデレラ城で遊ぶ(物質を伴った夢の国に没入する)体験はMR(複合現実)と言える。

・長時間、夢の国にいると現実を忘れる(そこが千葉の海岸沿いの埋立地であることを忘れる)状態、あるいは、そもそも物質を伴わずデータだけで没入できる状態 = VRゴーグルで楽しむ(体験できる)状態をVR(仮想現実)と呼ぶ。

 まとめると––––「現実感や物質性の有無」という観点から、それらが無いのがバーチャルとVRで、それらを伴うのがARとMR––––

 一方で「視点の違い」=「鑑賞 or 体験」という観点から、3人称視点の鑑賞(他者が創った作品)に過ぎないのがバーチャルとARで、1人称視点の体験(ジブンゴト)となるのがVRとMR––––

 ゴッホや葛飾北斎の描いた絵画で例えるなら、彼らが頭の中で描いた心象風景自体(それこそがアートとしての真価)は物質を伴わない「バーチャル」であり、それを紙という物質に固定した瞬間に、アートは物質+バーチャルである絵画作品 =「AR」となる––––その絵画をLEDに囲われた巨大な箱に映して、その中に入れるようにした展示会(イマーシヴ・コンテンツ)にすると、鑑賞ではなく体験となり、その状態をMRと呼ぶ。それは、箱という物質をゴッホや北斎のアート(心象風景 = バーチャル)で拡張した「夢の箱」に入り込むものだが、そこから物質性や現実感を省くアプローチとして、オキュラスリフトなどのゴーグルがあり、それを用いて「夢の箱」を物質や現実を伴わずに体験すると「VR」になる––––

 ––––いずれにせよ、本来、唯一/絶対なリアル物質世界(自然界)から、人類が逸脱したきっかけは、頭の中だけで自分勝手に物理法則や自然摂理を凌駕するイマジネーション(想造)から生まれたバーチャルにある。

仮想でしかないモノゴトを生み出し、認識/鑑賞している状態


5−4 
コンテンツを終息させるコンテクストの収束


 「xR」が、科学技術の話ではなく精神(心)の話だというコトを踏まえると、ゴーグルを装着しないと体験できないモノゴトではないなんて、当然だし、必ずしも、視覚情報で演出する必要すらない。

 例えば、音声AR/MRというジャンルがある。

 音声で行う「AR/MR」における(現時点での)特筆すべき点に、完璧に近いインターフェイスデバイス(ゴーグルみたいな物)がすでに存在していることが挙げられる。

 スマホとイヤフォンがそれだ。

 音声ARを社会実装するのに「ホロレンズ」「マジックリープ」「ヴィジョン・プロ」などのウェアラブルデバイスの完成や普及を待つ必要は、一切ない。

 布団で銀河を旅できた頃の多感で幼い脳にとっては、布と闇がインターフェイスとなるデバイスとスクリーンであり、どこまでも広がっていく宇宙はパラレルな仮想現実フィールドだった。

 その根源である「想像力」と呼ばれる脳内システムは、今なお、僕の心に無限のチャネルを生んでくれている。

 想像力を掻き立てるとき––––場合によっては、音声だけで十分だ。

 真っ暗な空間に手すりを整備し、目隠しをしてもらった被験者が手すりのみを頼りに進んでいくコンテンツをつくったとしよう。

 それを肝試しにするには、おどろおどろしい効果音や、か細い声ですすり泣く声を聞かせればいい。

 あるいは、そこが「真の闇」と呼ばれる洞窟で、被験者は勇者で、魔法使いと戦士と一緒に、それを乗り越えていく様をセリフ劇で聞かせれば、まったく異なる体験にもなる。勇敢なマーチでも添えれば、より奮起して歩を進めること間違いなしだ。

 音だけ変えれば、そこを停電中の宇宙船内にすることも、あるいは、宇宙空間で浮かんでいるコトにすることも、あるいは、原始の海底だと言い張るコトもできる。

 そういった心的に作用する「xR」に関するテクノロジーの進化は、心の中に無限にある幻想チャネルをそのまま、現実世界へ出現させるという未曾有に挑戦している。

 現時点での、視聴覚面の最先端インターフェイスが、ヴィジョン・プロなどのウェアラブルデバイスであることは間違いない––––が、それらが最高峰のAR体験を担保してくれるかというと、そうではない。

 スマホとイヤフォンと目隠しで上記のような体験は生み出せるし、その体験価値が、ヴィジョン・プロの提供する視聴覚を用いた体験に負けているとは、まったく思わない。もちろん、勝っているわけでもなく、どちらとも素晴らしいということだ。

 音だけでも、たった1つの物理的な現実空間にパラレルワールドを生み出せる。そう考えると、音楽を聴きながら街を歩くのだって、立派な音声ARだ。人生のBGMが変われば、あなたが見る光景の色が変わって見える––––それが、人間らしさだ。

 CDという商品(物体)を東京ドーム十個分の倉庫に隙間なく並べても収まらない大量の音源を収めたクラウドを、世界で何千万人もの頭の上に仮想的に浮かべているSpotifyが「音楽AR」の最先端だったりする。

 僕たちの日常を、世界中のありとあらゆる「音楽(という形のない仮想的な存在)」で拡張(AR)し、もし、それを聴きながら、「エモい」とか言って、空がいつもよりちょっぴり青く見えたりなんかしたら(物理法則上や自然摂理的には絶対にそんな理由で空色が変わるなんてコトあり得ないわけで)、それはもう立派な「音楽MR(音楽というバーチャルが拡張した = 青く塗った(と思い込んでいる)世界への没入)」でもある。

 このような現象は、もちろん良くも悪くもで––––

 ある小説(バーチャル)が、映画化(AR化)された瞬間に、世界に散らばっていた十人十色のナラティヴなビジュアライゼーションは画一化され(唯一解が示され)、原作の「映画化されるほどの素晴らしい物語」というコンテンツをデッドさせるかも知れない––––「ビックリマン」が、アニメ放送の終了(画一的な物語が完成しナラティヴの余白がなくなる)と同時に、そのムーヴメントを終息させていったように。

 逆に、そもそも「物語」だけでなく「ビジュアル」まで固定されている「漫画」がアニメ化される際、音声AR(声優のキャスティング)が加わるコトで、ナラティヴだった(唯一の正解がなかった)声を固定するというリスクも帯びることになる。

 漫画原作のアニメを、キャラクターと声優のマッチングが悪いという理由で観れなくなってしまう原作ファンの心理も、ある種、ビックリマンのような構造から生まれる悲劇なのだ。

 完成させるというコトは、いつだって、どれだって、唯一の結果に「収束」させるコトと同義で、パラレルに存在していた大きな可能性を「終息」させてしまう恐るべき副作用を孕んでいる。

 - - - - -

 心の中にある無限チャネルのリアルへの体現化––––このようなハイリスクなイノベーションは、いつまで経っても満など持さない––––だからこそ、常に真新しい常新性のモノゴトと言えるが、どこかの時点で、必ず「然るべきとき」がやって来てしまう。

 完成と勘違いする瞬間が––––

 神は、それを嘆くだろうか?

 いや、そうならないように、油断せず、幾重にも心掛け、厳重に機械仕掛けるコトが大切だ。

「Nu-Clear」なんてクリーンに呼ばれる原子力技術の革新も、爆弾に使えば悪で、エネルギーに使う分には、絶対悪とは言い切れない。技術は使う人の心によって、心の中で色を変える。

 怒りの赤や、絶望の黒、
 あるいは、綺麗な自然が湛える青や緑。
 噴火は赤いし、黒い花もある。
 信号の緑を、日本人は青と呼ぶ。
 英語では、グリーンライトなのに。
 何が、正しいのだろうか?
 何も、正しくないのだろうか?
 そもそも、人「間」の正しさ自体が
「間」違いなのかも知れない。

 世界は、いつだって複雑で、xRも同じく「善意的なチャンスに違いない」と強く願いながら、謙虚に誠実に構築していくしかない。

 今後、人間の心の中だけにあり続けた無数の幻想チャネルは、進化したAR/MR技術によって、世界に晒され続ける運命にある。

 たとえば、ヴィジョン・プロのようなxRゴーグルが超小型化し、コンタクトレンズのようになったり、ニューラリンクがより進み、脳の視覚野に直接、AR画像を投射できるインプラント・チップが開発されたりして、常に幻視を重ね続ける世界が席巻するだろう……

 そのとき、社会に啓くべきは、共創/共有/共感であって、仮想を、いかに僕らが生きている現実に近付けるかという「本物のリアリティへの追及」は重要ではない(※)

 かつて、布団のすぐ外側に無限の宇宙が広がっていたように、今はまだ、xR(あらゆる仮想フィールド)は、すぐ隣にあるのに遠大なギャラクシーマーケットに違いない。

【ギャラクシーマーケットとは?】

※ 本物のリアリティと、仮想現実の中のリアリティを区別して書いている。僕は、前者を不要と言っているだけで、後者はものすごく大切だ。仮想現実––––たとえば、ガンダムやエヴァンゲリオンの世界を、現実世界のリアリティ、つまり、物理法則や常識でガチガチにしてしまうと、まったく面白くない。そういう意味で、xRに「本物のリアリティ」を求め過ぎるべきではないと言いたいのだ。ガンダムにもエヴァにも、その作中に存在するこの異セカイの「理」= 作中のリアリティはあるわけで、そちらは大いに重要だ。あちらのセカイのリアリティがあやふやで、作者のご都合主義でコロコロ変わるようでは、ファンは付いていかない。だから、フィクションの中では確かな(僕らの世界では本物ではないコトも含めた)仮想的なリアリティが非常に重要になってくる。それこそが「世界観」と呼ばれるものだ。

- - - - -

 ドラッカーは、とっくに言った。

「本物の変化とは人が行なう事であり、一時の変化は人が言う事である。
 まだ行なっていなかったとして、今、これを始めるか?」

 - - - - -

 シュトッカーは、とっくに行った。

 ……彼のような天才でもない限り、凡人は、追い着くのではなく追い越すくらいの意識で、やっと丁度良い。

 - - - - -


 未来は、常に、始まっている。


【 次 章 に 向 け て 】

 僕たちの祖先の脳内にバーチャル(想像力/仮想)というイノベーションが生まれた瞬間から「人間社会」は始まった。

 そして、それは、VRではなくAR/MRから興った。

「VRからAR/MRへ進化する」という流れをイメージする人が多いが、それは、20世紀末以降の「短い波(例えば、オキュラスリフトに代表されるVRゴーグルから、ヴィジョン・プロに代表されるARゴーグルへの進化の過程)」だけを見ているからで、巨視すれば(人類史から見れば)、その認識が根本的な間違いを犯していることに気付く。

 それを証明するために、次章では「xR」と「人類史」を––––「魔法」「アート」「社会」––––という3つの「想像による創造」から掘り下げていきたいと思う。

 きっと、「VRからARへ進化する」なんて考えはなくなるはずだ––––その代わりに、こう思うだろう。アップルなどがこぞって実現を目指し、最先端とされている「AR/MR」は「回帰的な新しい価値なんだ」と。 


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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