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第8章 / いつかこの世界はこの世界ではなくなる. 【後篇】 ノットオーディエンス・アバターズ・サーファー・アンダーシティ・サイクル。



8−3 
② オーディエンスがいなくなった話


 2030年––––今年から火星に人類が移り住めるようになると言っていたのはNASAだったか––––地球上の総人口が百億を目掛けて増加する一方で、火星移住は実現する目処さえ見せず、人類は今なお仮想現実内で擬似的に火星を旅するしかない。

 火星と言えば、「トータルリコール」をオマージュしたVRムービーが最高だった。


【 VR ム ー ビ ー と は ? / 前 篇 は コ チ ラ 】

8−1 永遠に完成しない未来のオブジェクト
8−2 ① 形と動きと声でつくるミカンの話


 元ネタである映画のさらに元ネタの小説––––フィリップ・K・ディックの「追憶売ります」のタイトル(コンセプト)自体、眠って見る夢によるVRか––––ウェアラブルデバイスによるVRか––––という違いはあれど、今のVRムービーにおける追体験にぴったりの予言で––––映画や原作では詳しく描かれなかった「RECALL(想起/想い出)」の部分––––「主人公の妻のような人物」が主人公と再会するまでにどのようなコトがあったのか?––––3次創作されている。

 きっと、すべてのピアニストが、ベートーヴェンと同じ解釈で彼の曲を演奏できているわけではない(そもそもする必要もない)。

 その幅は、マテリアライズという観点からは許されるべきかも知れない。作者の死後、遺された作品は、いつか、良くも悪くも死人に口無しって状況に置かれる––––ディックの作品も然りだし、VRムービーというアートでありアーカイヴは、作家が現実に生み落とす想造の産物である「物語」を、永遠に更新し続け、「マテリアライズ」や「エンパワーメント」を加速させていくだろう。

 そもそも、古事記や旧約聖書など、世界中の神話が書物として編纂された時点で、人類が生み出す芸術や記録は、誰かが過去に紡いだ物語(作品)を、後世のある時点の独断と偏見によってアップデートするコト =「アレンジ」だった。

「arrange」は「順番に並べる」というフランス語を源流に持ち、日本語では「編む」を冠した編纂/編曲/編集などに使われる––––いずれも「再構成」や「脚色」など「物事に変化を加えるコト」を意味する。

 今回のアレンジをディックが気に入るか?––––は、クラシック音楽と同様、作者不在のため永遠に分からない。

 著作権が永遠性を持たない法治社会において、今を生きている人間の意志が尊重されるのは避けようのないことで、司馬遼太郎の描いた「竜馬がゆく」が、もし、坂本龍馬本人の意向を尊重すべきなら、あのようなドラマチックな作品にはならなかった可能性だってある。

「トータルリコール」で描かれた「夢」という手段と似た構造を持つ「VR」によって、実際「トータルリコール」という作品が世に再びRECALL(想起)され、色々な虚が実になり実が虚になるような世界は、空想の未来なんかじゃなく、紛れもない現在の現実だ。

 過去のSF/ファンタジー映画のオマージュのムーヴメントは止まらず「ゴースト/ニューヨークの幻」のワンシーンのサンプリングは、少しけったいなプロモーションVRとして面白がられ、同時に、大きな物議を呼んだ。

 オリジナルは、亡くなった人の幽霊と残された恋人との悲しくも美しい別れの余韻を描いた作品だが、その劇中に「恋人が陶芸のろくろを回すのを後ろから抱きしめる」という名シーンがある。

 今回、その部分がパロられたのだが、後ろから抱きしめる側の周囲に、魅力的な恋愛対象のポスターがズラっと飾ってあって、その視点をトラッキングし、セクシーなポスターへ視点が滞在した時間と、恋人のアバターの後ろ姿を眺める時間との比率を割り出すことで「浮気度」を算出するというふざけた企画だった。

 原作のファンは、当然、怒り、社会的にも大きな反発を買っている。

 法律上、著作権に抵触しているかどうかではなく、原作へのリスペクトがあるのかという「美徳」––––つまり、法治企業としての心構えが足りていなかったのかも知れない。


   §


 VRムービーはエデュケーション分野でも躍進を見せ、3兄弟の上から2人を東京大学に現役合格させた両親とカリスマ家庭教師が生み出す教育環境に着目した(あの「ボク」率いる)制作会社が、末っ子の高校受験に密着したVRムービーをつくり、その仮想ペアレントと仮想チューターの一挙手一投足に、我が子の受験勉強の管理代行をしてもらうという試みが話題になっている。

 もちろん、A君のVRムービーには、A君の両親のリアル3Dアバターが声質や口調まで真似た形で仮想ペアレントとして登場し、仮想チューターには、国民的人気アイドルや俳優のアバターが「課金コンテンツ」としてラインナップされていた。

 使用するウェアラブルデバイスは、かなり小型化が進んだAR/MRグラスだ。透けて見える現実にバーチャルな両親や家庭教師が登場する。

 恋人同士である受験生が、それぞれのアバターを仮想チューターにアサインしてモチベーションを上げるという手法も流行っているそうだ。

 これは、親の教育義務の放棄なのか?––––それとも、教育水準改善に有効な新手のメソッドなのか?––––

 ––––少なくとも、先天的な遺伝ではなく、後天的な環境こそが人を育てるという理想を一歩前に進める希望的観測になるかも知れない。

 学校のレベルなどという、本来あってはいけない教育環境の差異に依存して、実際の能力とは関係のないブランド(学歴)が重視され、子供らの将来が判断されてしまうような状況を解消する(政府を動かす)ための「一根拠」になり得る。

 有名私学や優秀な進学塾という素晴らしい教育環境を整えるために必要な親の収入––––そういった本人にはどうすることもできない周辺の条件に依存し、義務教育の段階で格差が生じる不平等な構造にあっては、社会が本当に優秀な人材を育て、見極めることも、本人が、一体、何を生業とすべきかを見定めることもできない。

 教育が義務である段階では、公立だろうが、私立だろうが、校舎がどの地域に建っていようが、同じ水準のエデュケーション環境が平等に用意されるべきだ。

 そこに不平等が生じると、本人が正確に自分の可能性を判断できない状態が生まれてしまう––––数学が得意なのか、音楽が得意なのか?––––運動/科学/プログラミング……何を愛して精進すべきなのか?––––前途ある人生の目標設定を狂わせてしまうかも知れない。

 そんな状態で––––難しい数式が解けても––––歌の音程やリズムが合っても––––写実的にもシュールにも絵を描けても––––走るのが速く、高く飛べても––––真に目指すべきは好きなコトを見つけ、それに夢中になり、結果、その経験を活かして、豊かな人生を送るコトなのに(まず目指すのが学歴の獲得になりがちな)子供にとっては、必要のないコトに変換されてしまう。

 この均一な仮想教育システムから得られるデータは、それを防止/解消する交渉材料くらいになるかも知れない。

 人類が起こす進化と問題の一卵性双生児は、本当に仲が良すぎて困る。


   §


「オーディエンス」の語源はラテン語で、聴くコトや聴く者を意味する。そこから派生し「聴衆(聴く集団)」という意味を持つようになった。

 その意味では、今のコンサートに「オーディエンス」は不在かも知れない。

 一方的に情報を受動する集団である「聴衆」という役割は、どのライヴ会場を見渡しても、ほとんどいないからだ。

 来場者は、個人として演出に干渉するため「アディレクター」と定義/認識されている。それは「オーディエンス」という「受動的」な「衆(複数から成る集団)」の対義語として、20年代後半から徐々に広まった造語だ。


「A:単数形」+「DIRECTOR:方向性を決める人」
 =「ADIRECTOR」––––

「個(単体)」と「能動的」を組み合わせ
 演出に参加する個人という意味を持つ

 オーディエンス(一方的に受動するだけの集団)
        ↕︎
 アディレクター(能受動を求める参加型の個人)


 アディレクターの「演出への干渉」を、逆の視点から捉えると、実際にステージに立つアーティストやそれを支えるクリエイターたちの「演出の譲渡」= エンパワーメントとなる。

 これまで一方的な受動者だった聴衆が能受動者になり、これまで一方的な発信者だった演者側が受発信者にアップデートされるのだ。

 今に続く芸術文化の基礎を数多く築いたルネサンスの終盤、シェイクスピアの演劇における観客は、少なくとも、20世紀よりも、もっと「アディレクター」に近い存在だった。

 イングランドの大衆演劇では、賞賛と野次が入り混じった歓声や拍手を用いて、観客が演出に積極的に干渉していたし––––もっと古くから存在する大道芸では、投げ銭という名の「IMMERSIVE SOCIETY 1.0」版のクラウドファンディングがすでに行われていた。

 それらは、やがて形式化(悪く言えば形骸化)し、ほぼ意味もなく醸成された「歴史的権威」という幻によって「伝統芸能」という上流階級向けの窮屈な芸術へと変化した。観客も観客で、形式(ルールやマナー)に縛られる状態を心地良いと感じはじめ、結果、演出への干渉に消極的な今の姿––––「従順なオーディエンス」へと至る。

 日本でも、阿国という女性から始まった大衆演劇であったはずの歌舞伎が、いつの間にか、男性のみが舞台に立つことを許される高尚な伝統芸能に様変わりした(もちろん、それはそれで重要な歴史ではあるが……)。

 その経緯は、現代において、もっとも嫌悪される「ジェンダー差別」を含む構造にあるのに、本来ならそういった現象に強い反発を懐きそうな高度に文化的な人々まで、旧態依然の封建的な形式やマナーに取り込まれる状況を気持ちいいと感じてしまう(優越感に浸る)コトが少なくないのも、残念ながら事実だ(もちろん、全員がそういうわけではない……)。

 相撲観戦で、座布団を投げる行為は禁止されているが、実質、それはマナーやお約束ゴトであり、ある種のステータスにもなっている。このような見方によっては理不尽な「Forced Relationship(強制的な関係)」こそが、芸術の「不要な崇高性」を担保するために必要なコト(だと見做されているの)かも知れない。

 アートも、また、清濁併せ持つグレーな存在なのだ。

 同じく、演劇やコンサートにおいても、演者側の意向を最大限尊重するコトこそが正しいマナーという認識が深慮なく定着している。

 音を聴くのだから静かにすべき––––終演時、席を立って拍手する際の細かなルール––––これらは、演者にとっても、観客にとっても、非常に心地良い束縛であり帰属意識なのだろう。

 リアルなコンサートは、IMMSERSIVE SOCIETY 1.0(AR/MRⅠ)アプローチによる芸術で、物質あるいは物理に則った物事に依存しながら、仮想によって拡張された非日常的なAR空間(物+想造で出来た会場)を出現させた。

 木や石や金属などで建設されたスペースに、やはり物質で拵えた美術セットを組み、そこに効果的な物理 = 光や音を散りばめて、布を過剰に施した衣装を着て、人類という動物を含んだモノを、想造の産物(非物質な情報)である演出で、拡張(ショーアップ)する。

 物体が固定的で不変であるのに対し、曲の順番/照明の色/映像コンテンツなど「非物質的な部分(演出)」には、昔から、観客が干渉できる = 演者や演出側が譲渡できる「余地」を持っていたはずが、演者/演出家の生む一方的な束縛に従うコトが歴史に裏打ちされた伝統的マナーとされるあまり、そしてそれが心地良い帰属意識にも繋がっているせいで、長らく、演出に干渉する客も、演出を譲渡しようとする演者や演出家も、現れなかった。

「演出にも関わる不変的な物体(会場/舞台/衣装)」と「観客からの干渉を許容できる余地や可変性を持つ非物質的な演出(曲順/照明/映像)」は、昔から、分離して考えるコトができたはずが、自ら束縛されようとする無意識の願望が2つの融合をより強固にし、あたかも「切り離せない一心同体の存在だ」と誤認/盲信させ続けて、今に至る。

 プライベートに着用する服であれば、着たいモノを着ればいいはずだ––––しかし、現代の成年男性が元々男性のための正装だったタイツやハイヒールを普段着として着用すれば「アウトサイダー」と思われる可能性は高い––––だから、それらを好きに着るようなことは「無意識の束縛」が許さない。

 服というモノ(物体)を変えるコトはできないが、着る服を選ぶセンスは可変的(自由)で非物質的なコトなので、誰かを傷付けない範囲であれば、常識に縛られる必要はないはずだが、人間というのは逆の自由を選択してしまう。

 選択の自由に積極的なイメージを持つファッション界ですら、「着ない自由」= 非物質で可変的である「着たいという欲望」の方を変え、選択の自由によって不自由の方を選択する。

 だから、人は自分のためだけの「アディレクター」になるのさえ、苦労する。コンサートというごく閉鎖的な空気を強いる封建社会においてのマナーであればなおさらだ––––伝統に背き、変化に積極的な姿勢を示すのに、精神的な苦痛を伴うことは想像に易い。

 そんな抑圧的な状況を、冒涜という虚仮脅しが匿っている。

 無意識の檻の中に閉じこもらんとする人々に、鍵を投げ入れたのは、インターネットが生んだ匿名性を持つバーチャルな(非物質的)新空間「イマーシヴシアター」だった––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜

 ––––「ADIRECTOR」というムーヴメントは、AR/MRⅡ(IMMERSIVE SOCIETY 2.0)であるイマーシヴシアターから始まり、VR(IMMERSIVE SOCIETY 1.5)へと飛び火し、結果、AR/MRⅠ(IMMERSIVE SOCIETY 1.0 = リアルなコンサート)における「オーディエンス」まで「アディレクター」へと進化させた。

 CDを主に売っている時代も「レコードメーカー」を名乗り続けた企業のように、結局、「アディレクター」は、変わらず「オーディエンス」と呼ばれ続けているが、その精神性は異なる方向を目指している––––

 それは音楽に限った現象ではない––––

 2030年––––今年から火星に人類が移り住めるようになると言っていたのはNASAだったか––––それは実現する目処さえ見せていないが、唯一解を持つ現実の火星旅行よりも、VRムービーでオマージュされた「トータルリコール」における嘘っぱちの火星への2度目のRECALLの方が、よっぽど気になっている––––こうして世界中のエンタメから、受動だけを行う「観客」たち––––「オーディエンス」は(実質)いなくなった。

8−4 
③ 或る高校生と愉快なアバターたちの話


 2035年––––スーパーマリオブラザーズと同い年のMicrosoft Windowsが発売開始されてからちょうど半世紀。「パラれる」によって新たなVR-OSが普及して、ゲーマーは、キャラクターを俯瞰で操るのではなく、キャラクターに憑依して、自らが飛んだり、敵を踏ん付けたりするコトの方が多い。

 これは、そんな時代を生きる平均的な女子高生の平凡な日記。


   §


〈7月20日〉

 今日はミライとショッピングモールに行った。ゲームセンターで、久々に「プリクラ」を撮って、「パラれる」も撮った。高校生になってから、夏の制服では、アバタってなかったから。

 一緒に行ったミライとは、思えば、保育園の頃からずっと一緒––––昔は、お互いのママに連れられて、4人でよくショッピングモールに行った。大好きだったアニメのヒロイン(のアバター)が登場する英会話教室にハマって、おかげで、今じゃ、2人とも、バイリンガル!

 VRムービー「ルナジュビと奇妙なホーミーズ」の英語版で、いっつも冒険してたから当たり前なんだけど––––

 ミライはいつもルナルナを選んで、私はジュピちゃんになって、仮想宇宙(スペース)を旅してた。

 中学のときには、バーチャルお笑いライヴにハマって、放課後、イマーシヴシアターに通ったなぁ……ミライは、リアルなお笑い芸人が好きだったけど、私は、断然「V−1」派で、バーチャルお笑いの方が好きだった。

 実際には同じ頭から生まれたネタなんだろうけど、突っ込まれるたびにボケの顔が風船みたいにドンドン膨らんでって、最後に弾けて萎んで「メチャちっちゃくなっチューやん!」ってネタを「V−1」のイマーシヴシアター予選で観た日から、彼女だか彼に一気にハマっていった。

 声ハンサム芸人って言われている「チューター」が出す高い声は、彼女が憑依するV芸人(アバター芸人)「チュー太」の方にこそ相応しいと思う。だって、あのキャラ、すごくイケメンなんだもん。

 現実に縛られないお笑いって最高!

 2次元大好き!

 こう考えると、ミライとも長い付き合いだ。

 いつも、感謝してる。


   §


〈7月25日〉

 今日は、ミライと、その彼氏のテツオくん、テツオくんの友達のアキラくんとカラオケ。

 そう言えば、昔のカラオケのデンモクだと「アーティスト名」か「曲名」でしか検索できなかったなんて信じられない!––––アキラくんが、そう、教えてくれた……物知り! 

 ちょっといいかも……

 今のJKは、ダンゼン「フォーマット派」が多い。

 私の好きな「キラズ」の曲も歌いたかったけど……やっぱり聴いてくれてるみんなも一緒に盛り上がった方がいいから、アーティスト名よりフォーマットの種類で検索するコトが多くなる。

 そう言えば、ミライも、テツオくんから「告白専用」でコクられたって言ってた。

 今日は、男子からの提案で「バラードなのに盛り上がる!」縛りで2時間って感じだった。

 もちろん「サクヤ」のバラードも好きだけど……あれは、歌うより聴く方がいいかな。だって、歌い上げて、KYって思われるのもヤだし。私以外は、あんまり「サクヤ」好きそうじゃなかったから、それをど真面目に真剣に歌われた日には苦行って感じだよね(苦笑)

 バラードって歌う人はいいんだけど、場がシラけるのが難点……

 その点、歌う側は真剣に歌えて、聴く側は合間のふざけたラップとかコールで超アゲアゲになれる「バラードなのに盛り上がる!」ってフォーマットはホントよくできてると思う。

 アキラくんに「歌、上手だね」って言われて、ちょっと嬉しかった。

 こないだ家族でカラオケに行ったら、パパが「忘年会で絶対盛り上がる」を練習してた。それを聴いたとき、私が、わりと歌上手いのは、ママの血のおかげだと思った。

ちなみに、パパが歌ってた「とりま」って曲。忘年会の2次会のカラオケで、1曲目を入れる勇気がなかなか湧かないときに、マイク使わず、みんなで歌って、おまけにファーストドリンクの注文まで取れちゃうって曲らしくて、おもしろくって、歌詞、調べたから、ネットに落ちてた。やっぱ、今、見ても、ウケるwww

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「とりまのドリンクオーダー取ります!」

アテンション・プリーズ!Yeah!
アテンション・プリーズ!Yeah!
アテンション・プリーズ!Yeah!
とりまのドリンクオーダー 取りまーす!

とりまのドリンクオーダー 取りまーす
だから、お座りください
とりまのドリンクオーダー 取りまーす
そろそろ、メニューを見てね
とりまのドリンクオーダー 取りまーす
黙れ!いい加減、座れ!
とりまのドリンクオーダー 取りまーす
幹事の気持ちにもなれ!

とりま、ルービー飲む人、手上げて!(はーい!)
ルービー飲む人、あのユビ止まれ!(そのまま、そのまま、そのままで)
アル中なるなよ! 生の中!
お触りすんなよ! ダメよ、チュー!

まずは(そう!)ビールのオーダー 取りました!
黙れ!ピッチャーでいけ!
次は(そう!)ハイボールの人 行くぞ!
昔、ウィスキーソーダ!
そうだ!(そう!)ハイボールの人 手上げ
そのまま頭上で丸を
そうだ!(そう!)ハイボールだけに アゲて(マルだ!)
ダメよ、チュー!

チューはチューでもチューハイの人(ハイ・ハイ・ハイ)
サワサワするのは、ダメダメだけど(メっ・メっ・メっ)
両手を上げてレモンサ、わーい!
片手を上げてウーロン、はーい!

飲めない人には、ご案内、ソフトドリンク
コーヒー・コーラ 緑茶CHA-CHA
ウーロン茶CHA-CHA 紅茶CHA-CHA
お抹茶だけは、なぜか、オレ!
カフェもオレ! オレは、ミルク!
各種のジュース カルピース!
ジンジャーエール、あなたにエール!
それ以外は、セルフでお願いします

 昔、ミライと私とママたちと一緒にショッピングモールに通ってた頃は、ママたちが「2人以上で踊る!」をよく披露してた。子供ながらにすごく楽しかった。

 結局、今日も、バラード縛りは途中で終わって、後半は「複数で踊る!」ばっか、歌わずに踊ってた––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜


 ––––ずっと、悲しかったけど、今は良かったって思えるとこもいっぱいある。

 向こうのブランドなんて、全然、詳しくなかったのに、ミライのおかげで色々と知れて、最近、学校でもオシャレなんて言われる……

 この私がだよ!?

そういえば、偶然、そこに遊びに来てた俳優のスカラー・A・リンチ(のアバター)に会って、思わずいっぱいハートを投げちゃった。そしたら、まさかの「Thank you」ってメッセージ届いた! 超いい人!!!

 いつか、私も本物のロスに行くんだ〜
 で、ファッション関係の仕事に就きたい!

8−5 
④ 誰しもがサーファーになれる時代の話


 2040年––––2度目の東京オリンピック・パラリンピックから約20年が経った。

 1964年に初めて東京五輪が行われたとき、東海道新幹線や首都高速などの交通インフラ––––渋谷公会堂/武道館/代々木体育館といったベニューなど、多くの有形(物質的)なレガシーが造られた。

 競技種目をピクトグラムで示したのもこの大会が初めてだった。

 今では、賛否あるトイレの性別を示す青と赤の人型ピクトグラムは、東京五輪が発祥となって世界へ広まったものだ––––もよおしているとき、まったく認識できない言語で性別の書かれたトイレしかない世界線は想像するだけでヒヤヒヤする。

 再び東京五輪が開催されるはずだった2020年の頃には、物質的なオリンピック遺産より「計画的でポジティヴな “無形” の(非物質的)レガシー」が重要視されるようになっていた。

 そんな機運の中で生まれたのが音声ARだ。それは、多言語化ソリューションとして大いに役立った。日本語をまったく読めない観光客がトイレを探す際、人型の看板に頼る必要がなくなった。音声ARによって、そこに至る経路まで案内してくれるスムースなガイドが、それぞれが得意な言語によってなされたからだ(※ あくまでフィクションです)。

 そんな2020年代にタイプスリップしたつもりで、地方の山奥にある小さな温泉街を想像してみて欲しい。

 街とは名ばかりで––––両手で数え切れるほどのしなびた温泉宿に––––たった1軒しかないお土産物店––––そう見えるかどうか怪しい「目抜き通り」に添って這う清流と、そこで釣れる鮎を使った和食を出す小料理屋––––古くからの酒屋、和菓子屋––––数年前に移住してきた陶芸家の焼き物を展示販売するギャラリー(この辺りは土が良いらしい)––––20時には閉まってしまうコンビニもどきの商店––––200字以内で綴ることのできるこれらが、その街の観光資源としてのすべてだ。


あなたは温泉宿を継いだ3代目で、
 ついに番が廻ってきてしまった観光協会長だ。


   ↓


 こんなところでも、夏場になると、小さな街の経済を担うには十分な観光客で、一応、賑わう。

 少子化の進む日本––––この街でも、過疎化は進む一方だが、コロナ禍が過ぎ去って以降、海外からの観光客増加によって支えられている。

 日本の観光競争力を押し上げた一因が「清潔さ」だ。

 パンデミック前はマストではなかった尺度だが、今はかなり重要になっている––––たしかに日本は、世界でもっとも清潔な国の1つだろう––––ゴミの少ない道路––––自動洗浄便器(たしか、1回目の東京五輪がきっかけで出来たのだっけ?)など––––日本 = 清潔という「ブランドイメージ」は観光業躍進に一役買っている。

 この街へやって来る外国人観光客の目的は、残念ながら街そのものではなく「熊野古道」にある。

 2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産に登録され、宿坊と精進料理が好評の「高野山」から「熊野三山」の1つ「熊野本宮大社」へと続く聖地巡礼ルート「小辺路」は、特に人気を集めている。

 この辺りは、日本最古の温泉地の1つに数えられながらビーチリゾートでもある「白浜」から本宮へと続く「中辺路」という別ルート沿いに位置し、有名な「滝尻王子」が近いことで、熊野人気の恩恵を受けていた。

「王子」と言っても、プリンスの方じゃない。

 古くは参詣者の旅の庇護を目的とした儀礼が行われ、「九十九王子」と呼ばれるほど(大阪から和歌山にかけて)数多く分布している神社だ。

 その中でも「滝尻王子」は、総本山である熊野三山から「熊野権現」を勧請された「五体王子」の1つで––––そこから始まる聖地巡礼は格別なのだ。

 もし、音声ARのない時代に、うちのような限られた予算しか持たない小さな観光協会が、右肩上がりのインバウンド需要に応えるための多言語化を迫られたなら、かなり大きな苦労を強いられたはずだ。

 必要なのは、英語化ではなく多言語化で、実際、こんな小さな街ですら、多種多様な国や文化に向けたサービスが求められる。

 世界には、何千もの言語が存在するらしい……。

 調べてみると、英語はもっとも多くの人にとっての母国語ではなく(ちっとも知らなかった)––––地球でいちばん話されている言語は中国語で、英語を話す人口の2倍以上に達する––––南米には、大航海時代の侵略によってスペイン語やポルトガル語を話す人が多いらしい––––対して、植民地支配によって使用地域が広範囲に及ぶのがフランス語で––––ヨーロッパの言語としては最大のユーザーを誇るロシア語––––今後の人口増加を見越すと外せないインドのヒンディー語/インドネシアやマレーシアなどで話されているマレー語やアラブ諸国のアラビア語などの需要も伸びる––––と、ウェブ記事で読んだ––––乙・・・

 ドイツ語やイタリア語は、どう扱うべきだろう?––––そんな言語の世界情勢はさておき、日本だけの事情でいうとお隣の韓国からの旅人も多く––––とにかく、英語だけ足しておけばいいというものではない。そもそも、日本語を疎かにすることも許されていない––––ここに挙げただけでもすでに13種類ある––––つまり、課題だらけだ。

 多言語表記の看板は、必然、物理的に大きくなるし、この街の景観を著しく損なうだろう。すべてを記載したパンフレットは読みづらくて仕方ない。かといって、言語別に刷り分けようものなら、英語版:100部に対し、スペイン語版を何部刷るのが正解か分からない––––逆に、足りない言語版や、余って無駄になる言語版も出るに違いない––––来年になれば、また新たな情報を載せる必要があり、残ってしまったパンフレットやポスターは廃棄処分にするしかないだろう。

 捨てるにも、また、金がかかる。

 しかし、これらは、物に依存していたときの想定惨状だ。

 音声ARは、物質に依存しない「デジタルデータ」のみによる「AR/MRⅡソリューション」なのだ。

 設置スペースも必要ないし、更新や廃棄するのに予算はかからない。

 サイトにあるCMS(コンテンツマネジメント = 運用ページ)のゴミ箱に、不要となったデータをドラッグ&ドロップすれば廃棄完了、しかも、エコ!––––印刷する必要も看板を造築する必要もない––––だから、雨に濡れてグチャグチャにならないよう気を遣ったり、錆びを塗り直す必要もない––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜


 ––––滝尻王子の古い社のように、この街にある「実際に触れることのできる(第1世代のAR/MRによる)」仮想的価値のほとんどは、物質に依存するがゆえに「伝統」や「エイジング」といった付加価値を生んでいる。

 かく言ううちの温泉宿の建物も、木造で雰囲気のある外観で人気を保っている。

 それは、昭和よりも明治から、明治よりも飛鳥時代から建っていた方が、高い付加価値を生む(それにしても不動産の「築年数」1つ取っても、古い方が良くなったり悪くなったり……人間の想造に過ぎない価値というのはなんと脆く、人間だけに通用する勝手な存在なのだろうか……)。

 滝尻王子の社にしても同じことで、古ければ古いほど良い。

 観光資源にとって、1つの信念(宗教や思想など)を貫いた継続は、まさに、力なりだ。

 このような「エイジング」による伝統的価値を生む秘訣は「長い時間を経る」以外にない。長時間を経ることで、あえて言えば、長い時間を経る “だけ” で「伝統」になった部分があるコトは否めない。

 ときの権力者やパトロンによって急造されたブランドもあるが、最初から由緒正しき物は少ない。

 ただし、「滝尻王子の社」と「モーツァルトの音楽」とでは、伝統を形成する「プロセス」においては同じ「経年 “良化” という反脆い原理(経年 “劣化” と言われることが普通の年を取るという悪が積み重なれば積み重なるほど価値が高まる = 反脆い状態)」が働いているが、その価値自体には大きな違いがある。

「エイジング」と「伝統」は、しっかりと切り離して考えるべきモノゴト––––似て非なるモノとコトでもあるのだ。

 広く一般に使用されていた陶器が骨董品と見なされ、後世、アートに昇格するようなケースを除き、純粋なアートというのはエイジングのみで価値を見出されたりしない。

 前述の歌舞伎も、モーツァルトの音楽も、当初は、大衆的あるいは前衛的だったはず––––が、今では、伝統芸能やクラシックと見なされ、確固たる地位を築いている(その分、敷居が高くなるという悪癖にも見舞われている)。ただし、それらは、古いから良いのではなく、純粋に良いのだ。

 一方、滝尻王子の社は、もちろん建築としての純粋評価(アート的な価値)もあるが、観光における価値の多くはエイジング(物質的な経年劣化ではなく精神的な経年良化)に依存している。

「能」も、伝統に頼るが、アートしての本質(鑑賞における価値)までエイジングに頼ったりしない。一方で、「能面」は、伝統とエイジングによって価値を見出されるモノという側面を併せ持つ。ストラディヴァリウスのヴァイオリンの価値も、もしかすると、一部でそんな面から評価されているのかも知れない。

 このように、AR/MR(物質+想造)における物以外の(非物質的な)価値は、たとえば、音楽/歌舞伎/能という芸術、あるいは、神社の様式美や能面や楽器をつくる技術など、「エイジングをはじめ時代に一切頼らない普遍性」を有する判断/基準が形成されている。

 逆に、多くの観光客が訪れる「大きな岩」があるとして(実際に、古来の巨岩信仰は多くの観光地を生んでいる)、それは、極論、古くなければ、価値がない。

 そう考えると、デジタルアートは、非常に熾烈で険しい「未来の伝統に選出される道」を歩んでいる。貫く信念のない構造的な目新しさだけでは、伝統という荒海の中ですぐさま淘汰されていくはずだ。

 つまり、古くなっただけでは、絶対に評価されない。

 そこには、技術だけでなく思想を含めた純粋な質のみで評価される「平等性」が存在する。

 はるか未来、今という大昔につくられた新作と、先の現代につくられた新作は、経年度合いなど気にもされず、フラットに比較されるだろう。そもそも非物質的であるコトは経年劣化も経年良化もしないので、古い/新しいという基準が機能しないとも言える。

 純粋に美しい––––本当に面白い––––心底、楽しい––––そういったピュアな精神的価値が、物質社会のエイジング(あえて言うなら誤魔化し)に頼らず真価を築いていくのは、とても難しく、だからこそ、清く尊いだろう。

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 デジタルアート(エンターテック)などの、芸術 × 科学技術の産物は、ルネサンスへの回帰的な現象にも感じられる(そもそも、ルネサンスという言葉自体が再生や復興を意味し、人類史上何周目かのルネサンス = リバイバルでもあったが……)。

 盛期ルネサンス––––「アーティスト」と「職人」を区別するような志向はなかった。

「芸術家たち」であり「科学者たち」であり「技術者たち」でもあった「ギルド」という集団が、市民革命によってパトロンという後ろ盾を失い、民主主義/資本主義の荒波の中で生き残るために、「リテラシーの高いパトロンに庇護されるためのアート」ではなく「市民に買ってもらえる大衆的な工芸品」を作っていかざるを得なくなった結果、「芸術 × 科学 × 技術」という素晴らしいトライアングルは分離し、マルチスキルは崩壊……現代の分業状態に至る。

 日本でも、「書」は「鈴鹿墨」と一緒にギルドごとに評価されるようなコトでもあったし、堺商人である「千利休」はギルド的存在「衆」の中の一人(個)であった。

 今は、書家も、茶道家も、アーティストという「顔(代表者)」と、職人という「裏方(生業とする大勢)」に分断されている。

 今の時代に生まれるアートや文化が、今後のスタンダードである「ピュアで過酷な評価」と対峙するとき、一人の才能で孤高に戦うよりも、ギルド的な戦い方に活路を見出す「コレクティヴ(集合天才)」の顕在化も、また、回帰的で新たな動き––––すなわち、温故知新であると思う––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜


 ––––このようにAR/MRⅡコミュニケーションにとって、「現実と仮想という境界線」も「多言語化による言語の壁」も「物理的な空間や時間(時空)」さえも、行く手を阻む障害にはならない。

 人類は、何もない空中から急に物体が現れたり消えたりするような、4次元からの3次元への干渉によく似た「ワープ・コミュニケーション」という新たな力を手に入れたのだ。

 そう言えば、温泉街のくだりで、途中、これを読んでくれている「あなた」の感じ方が、VRになっていたら、嬉しい。

 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」には遠く及ばないクォリティだし、かなりスタンダードな手法だが、文字を読むという行為でも、当事者(ジブンゴト or 主人公)意識で没入させるコトができたなら、これを読むコトは「VR/MR体験」だ。

 IMMERSIVE SOCIETYのバージョンがどれだけアップデートされようとも、そういった体感は、テクノロジーで担保されるモノではなく、心的に作用するコトであり続ける。

 どれだけ現実に仮想が溶け込もうと、少なくとも人の中で自覚的にそうあって欲しいと心から願う。

 あれらは、そのために、ああしたのだ。

8−6 
⑤ 空想上の地下にある反転都市での話


 2045年––––先の大戦からちょうど1世紀が経った。

 レイモンド・カーツワイルの本質とは外れた説が正しければ、今頃、どこかに、人工知能が起こしたシンギュラリティを経たポストヒューマンが生まれているはずだ。

 人間の複雑過ぎる脳を機械で描き切り、それを超えていくというのは、自然摂理(神)への冒涜とも取れるが……。

 これまでも残虐で烏滸がましかったホモ・サピエンスは、常に、新たな「仮想敵」をつくり、争うコトでしか平和を築けなかった。

 世界を統一するためには、人類共通の敵である宇宙人が襲来するのを待つしかないのかも知れないが、それがやって来る兆しもなく––––だから、内製されたプロパガンダが「シンギュラリティ」や「ヒューマノイド」など、新たな言葉(ともすれば差別表現)なのかも知れない。

 ただし、日本という国だけのことで言えば、久々に戦争のない時代が百年も続いているのだ。

 このチャプターでは、世界から戦争を撲滅するために、本当に必要なコトとは何か?––––

 それを、考えていきたいと思う––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜


 ––––2045年––––先の大戦が終わってから百回目の夏––––8月15日。

 たった百年前––––現代人とまったく同じ構造の心を持った若者が、爆弾を腹に括った飛行機で敵艦へと突っ込んでいった。

 本来、死は1人の死のみを偲ぶべきで、死の総数によって事態の重さを計るべきではないが、この特攻という悲劇は、1945年の数ヶ月間だけでも戦後の世界中で起こったすべての自爆テロよりも多くの(自己)犠牲者を出した。

 地震や洪水という天災よりも原子力爆弾という人災の方が、一瞬ではるかに多い生命を確実に奪い去ったのも紛れもない事実だ。

 この時点で、人は、神(自然摂理)をも超えたかも知れない。

 だから、人は、神に祈る前に、自らの心の中の悪魔と戦う必要があるのだ。

 それでも、結局、今日も願う––––

 世界が平和になりますように。
 世界が平和でありますように。

 それは、私たちの心に懸かっている。だから、人外に祈るのではなく、せめて、心の中で強く願うべきなのだ。ヒト科の行く末のみならず、道端の草花から人類未踏のジャングルに住む動物や深海の微生物まで––––あらゆる命がこの手に握られているのだから。

 今こそ、内なる神と悪魔が宿る心の適用範囲を広げるべきだ。八百万の神という発想は、日本古来の最強で最善のAR(現実拡張 = 現実/物理的にはない精神的な救いを付与する)ソリューションだったのかも知れない。

 物理学的にも生物学的にも奇妙なことを言っているのは重々承知の上で、断言しよう––––花鳥風月の声に耳を傾ける姿勢(心のあり様)は、科学技術が多少なりと進んだ現代においてこそ、有用な心の暴走への対策に違いないのだ。

 理由もなく浅はかに先人の知恵を忘れ、嘲笑する空気に満ちた世界に、まだ八百万の神の残像が残っているとして、その中で唯一、誰しもが感じることのできる可視化された存在は「人類の総意」という名を持っている。

 誰しもがその心の中に「あらゆる死において万能の神」の欠片を持っているのだ。言い換えれば、我々は、一致団結し、その気になればいつでも誰でも何でも確実に殺せるということだ。それを自覚しないことこそが僕たちの罪なのかも知れない。

 自動車を運転しているとき––––ビニール袋にBBQの材料を入れて浜辺でキャンプをしているとき––––経済のことばかり考えているとき––––その罰は、無自覚という小さな罪が積み上がった段階で一気にあふれ出し、人類ましてや国のことだけでなく、科学文明の及ぶ内側だけでは済まない「全体」に降り懸かるだろう。

8−7 
⑥ 行動を定量化して循環させる社会の話(未完)


 ––––2050年––––21世紀になってから、はや半世紀。

 有史以来、エネルギーのエンドユーザーはずっと人間だった。

 光と水と二酸化炭素で育った植物は草食動物のエネルギーになり、彼らもまた肉食動物から常に命を狙われている。プランクトンだって、魚だって、他者のエネルギーになる可能性を孕んで生きている。

 一方、人間は、排泄物や剥がれ落ちた垢ですら他者に与えることを嫌う。

 妊娠中の蚊のメスが血を吸おうものなら、全力でそれを阻止するし、(日本人の多くは)自らの死骸を土中のバクテリアに提供するなんて論外だ。不謹慎は承知で述べると、死後も地球温暖化に一役買おうとする。

※ ちなみに、日本の法律上、「土葬」は禁止されているわけではない。火葬と平等に扱われており、許可を得れば、土へ還す弔い方も可能だ(ただし、感染症の遺体などは火葬が義務付けられている)。

 人間以外のあらゆる生物が、エネルギーのエンドユーザーとは言い切れない一生を送る中、人間のみがその連鎖の外側に文明という安全圏を築き、多大な搾取はすれども、呼吸というほんの少しの還元しかしてこなかった。

 我々が生活を営むことで生み出される、いや、ただただ放出するだけのエネルギーは(吐き出す二酸化炭素以外は)空中に霧散するばかりで、同属他者の他 “人” のためですらクソの役にも立たない活動がほとんどだ。

 もっとも、糞は、本来、役に立つのだが……

 人は「理性的」な生き物なのだ(善い意味ではない)。

 誰しもが1度は見たことのある食物連鎖のピラミッドを思い浮かべてみて欲しい。

 上位になればなるほどその数が減るからこそ、あの形状で表現すべきなのだが、人間の数はライオンやヒグマよりも多く、すぐ下のレイヤー(あくまで図中の位置関係を指す言葉で、存在意義としての上下ではない)のみを食すわけでもない(ヒグマは違うが、ライオンは草や魚を食べない)。

 我々が、もし正統にその頂点に座して、もっとも少数精鋭で畏怖される王であるのなら、本来はライオンやヒグマのみを食すべきなのだ。しかし、人間が食すのは、それよりも下の層に配された草食動物ばかりだ。

 それどころか、ピラミッドの外側の木材や石材で出来た要塞 = 都市にいて、自然に生きる彼らからすれば、4次元みたいな空間から、突如、現れた意味不明の脅威(たとえば、音より速く飛来する猟銃の弾丸であったり、垂れ落ちた糸の先に括り付けられた本来なら海中にいるはずのない陸上生物の死体のミンチで周到に匿われた釣り針など)に違いない「理性的(冷静というような意味合いではなく冷酷/悪い意味で知的で––––つまり狡猾に)」な方法で、あらゆる層から「食糧の調達」や「エネルギーの無意味な横取り(競馬や食べる目的ではない狩猟など)」行っている。

 三角形の頂点に浮かぶ膨大な空––––いや、もしかすると、三角形が描かれている背景(キャンバス)が「人間」を表しているのかも知れない。それが示すのは、もはや、人類の総意が、食物連鎖のピラミッドをほぼ手中に収めており、やろうと思えば、いつでもそれを喰らい尽くすコトも、丸呑みするコトも、あるいは食物にすらせずに燃やし尽くすコトすらできるという事実だ。

 真の百獣の王ライオンですら、死せば土へ還る。
 もっと事実的に言えば、バクテリアの餌となる。

 食物連鎖は正確には食物連環であり、ピラミッド型ではなく頂点も始まりもないループ型だ。人間が勝手に定めた最強とされている大型肉食獣は最弱とされている細菌に溶かされる。

 「宇宙戦争」というSF小説(あるいは、それを原作とした映画)で、地球を襲来した火星人は、地球人よりも進んだ科学技術(小説の中では主に、宇宙船/トライポッドと呼ばれる戦闘機/熱線/黒い毒ガス)を持ち、あっという間に人類を蹂躙していく。

(以降、ネタバレを含みますので、読みたい/観たい方はスキップ願います)

 王というのは、本来、民を守るため「武力」を行使する者だ。なのに、それまで地球の王のように振る舞っていた人類は、王たる武力を発揮できず、つまり、地球の民(人類以外の全類)を守るコトができず、無様に負け続けていく。

 ラストシーン(以降、wikipedia参照)。

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 (主人公)「私」は、以前出逢った砲兵と再会し、人類が負けた事と将来の事について話し合う。砲兵と別れたあと静寂に包まれたロンドンに入った「私」は、そこで戦闘機械を見つける。死を決意し近づいていくが、そこで見たものは火星人たちの死体だった。彼らを倒したのは、人間の武器や策略ではなく、太古に神が創造した病原菌であった。地球の人間と違って、これらの病原菌に対する免疫がまったくなかった火星人たちは、地球で呼吸し、飲食を始めたときから死にゆく運命だったのである。

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 この話からも、人類/ライオン/シャチがいかに脆く(最強などではないく)、反脆い(悪くなればなるほど良くなった)救世主は、普段は見過ごしている(平和主義者やヴィーガンですらも殺菌は看過するしかない)小さな小さなバクテリアであって、王が頂点に座すピラミッドなどなく、ただの平たい輪があるだけなのだと痛感する。

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 (IMMERSIVE SOCIETYに関する)余談だが、1938年、アメリカで「宇宙戦争」がラジオドラマ化されたコトがある。舞台は実在する地名に置き換えられ、火星人がアメリカに攻めてきたという(没入を加速させるVR/MR演出が施された)内容だった。

 現場からの電話リポート、目撃者による回想など、実際のニュース放送(あるいはドキュメンタリー)のような形でオンエアされたため、多くの市民が火星人の侵略を現実に起きている(起こった)出来事と思い込み、全米各地でパニックが起こった。多くの聴取者が「これはフィクションである」という番組冒頭の説明を聞き逃し、その大半が、新聞のラジオ番組表で「ニュースではなくドラマ番組である」という確認を怠ったことが、その原因だった––––

 ––––と長く語られてきた。

 いや、騙られてきた。

 この「パニック」説を主張したのは、メデイア学者のキャントリルらであったが、現在の研究によると、パニック現象はまったく確認できず、放送を事実と思い込んだ聴取者もほとんどいなかったコトが分かっている。新聞に掲載された「非常に多くの訴訟が行われた」「各地の州兵がラジオ局や関連拠点を警備した」といった記事もすべて誤報––––このように、マスメディアが実在しない「パニック」を繰り返し報じたコトもあり、以降、迫真の演技を聞かせた俳優「オーソン・ウェルズ」の実力を裏づける伝説的なエピソードとして語り継がれ、世間からの彼の評判を上げたコトも事実だ。

 人間が、いかに、「イマジネーション(想像)」による「インベンション(捏造)」に夢中(VRやAR/MR状態)になるか––––それに、最先端のゴーグルなど不要で、音声だけでも十分に没入させられるか––––さらに、それが、実際の現実(今回であれば俳優の生活 = 収入 = 衣食住の安定)に影響を及ぼすか––––そして、ナラティヴ(語り継がれる物語り)が、没入型社会(IMMERSIVE SOCIETY)において、どれほど効果的か––––を、良くも悪くも証明する出来事だと思い、非常に興味深い。

参考図書:「The War of the Worlds」H・G・ウェルズ著
引用サイト(wikipedia):
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%88%A6%E4%BA%89_(H%E3%83%BBG%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BA)


 運悪く2足歩行の異次元住民の手に拐われて、その輪から強制退去させられた生命は、2度とその輪廻に戻るコトはない––––なぜなら、人間だけがそのサイクルに取り込まれるコトを頑なに拒んでいるからだ。

 人間のエネルギーになったが最後、その生命は、星には還してもらえず、やがて業火に焼かれ、虫も喰わない枯れた灰になるだけだ。

 僕たちが、エネルギーのエンドユーザーたる所以はここにある。

 人間は、地球史上初の連環からの逸脱者というだけでなく、それを断絶させるシザーハンズでもある。輪廻転生という仏教のノスタルジアは、現代においては完全に否定されるべきだろう。むしろ、そこから逃れたがっているのが平均的な人類のように見えるからだ。

 我々が、エコシステムに一切従わず、一部の草食動物を好んで食すのは、味や臭いの問題なのか、従順で飼いやすいせいで供給が安定しているから(味覚や嗅覚がそれに慣れていったから)なのか、はたまた、宗教/動物愛護/絶滅危惧種保護などのメッセージに影響されたせいなのか、一概には言えない。

 もちろん、それぞれにきちんとした想いがあり、特に食肉用の家畜に対する飼育環境/屠殺方法の改善は、慈悲(仏教では「楽」を与えるのを「慈」とし「苦」を除くのを「悲」としている)を以って注力されていると思うが、フォアグラやブロイラーと愛玩動物の命の重さを議論したり、牛肉を大量に消費する国がクジラをごく少量消費する国を批判したりといった話は、結局、我々の心の適用範囲に関することであり、人と人の間「人間:ジンカン」の問題として顕在化はされるが、同属以外に対しての潜在的な掠奪者である本質に踏み込んだ自制を求める声は如実に少ない。

 現に、地を這い懸命に働く蟻を踏み潰さないよう、常に俯いて歩く人類はごく少なく、それを批判する人間はもっと少ない。

 自然摂理の中に在っては、自己として生きる事は他者を消極的に殺す事と同義であり、自己の死は他者の生への消極的犠牲を意味する。これらの消極的な殺生において人のみが精神の救済を求めるとき、それは、結局、生命に境界線を設けるコトに他ならない。

 シーシェパードは、パトロールと言って海面をスクリューで掻き回すたびに何かを殺しているに違いないし、地中に棲む微生物を気にして公園の芝生に立ち入ることのできない思想的なヴィーガンを、少なくとも、僕は知らない。

 決して、彼らを批判したいのではなく、生命の話は、それほど「心の適用範囲」の話(幻想)に過ぎないコトを伝えたいだけだ。

 ミドリムシを食すという比較的新たなホモ・サピエンス向けの食糧ソリューションは、今後も異常増殖し続けるに違いない人類と人間を適正に食物連鎖のピラミッド内(死骸や排泄物を分解して土に戻すバクテリアと動植物プランクトンの間)に配置するという観点から見たとき、地球にとっては肚落ちする新たな提案なのかも知れない。

 だからと言って、全員がヴィーガンになれるわけでもなければ、食文化を含む文化全般にとって「人間の理性」や「同属意識 = 人類のみにとって利己的な部分の依怙贔屓」は欠かせないファクターだ。

 美味しい食事も、美しい建築物も、素晴らしい楽器も、どれだけ取り繕ってみたところで、結局は人間のみが必要とする事象であり、人類以外のすべての生物にとっては迷惑な環境破壊や原理逸脱でしかない。

 これを解決するには、ごく自然的であるからこそ非人道的な方法を取るしかない(ある一定の心の適用範囲)––––たとえば、虫は殺しても一部の哺乳類は宗教上の理由で絶対に殺さないという主義を持つ人が、その範疇内の生命(一部の哺乳類)のためにのみ主張する保護や平等という権利は、その範疇のみに対する贔屓––––ほんの一部の哺乳類が安心して生きられる権利を等しく与えられるべきだと主張する偏ったモノなので、自然摂理の中に唯一ある絶対ルールである「人間が勝手に決めた善悪をすべて内包したあらゆる可能性がいずれにも等しく課せられた状況」を適用すると、非人道的な方法(人のみを特別扱いしない弱肉強食的な世界観にならざるを得ない)が、それが正義かどうかは分からない。

 結局は、心の適用範囲の話になり、自然摂理の話にはならないだろう。

 ここでは、そんな「人間(人と人の関係性)」のみに関する話をしたい。

 同属以外には依然として利己的に映る(人のみがメリットを享受する)話になるだろうが、せめて「人間」においては、利他的な話をしたいと思う。


   ↓


 21世紀初頭の予想からは遅れを取ったが、電力の無線供給が普及した現代、ついに人間は、エネルギーの純然たるエンドユーザーではなくなった。

 今のトレンドは、あらゆる人間の運動(エネルギー消費)を発電(エネルギー生成)に繋げるコトだ。

 多くの歩道は発電機であり、道を歩くだけで電気エネルギーが生まれる。

 これまでは自らの健康のためにジョギングをしていた人々も、発電用のウェアに袖を通し、発電用シューズを履いて、街や公園を走っているし、サッカーやラグビーをはじめとする多くスポーツの「フィールド」や「ユニフォーム」にも、発電システムが装備されているコトがデフォルトだ。

 モビリティ・サービスを提供するあらゆる自動運転の乗り物には風力発電機が搭載され、風力抵抗を可能な限り軽減して10分でも早く目的地に到着するコトよりも、風力抵抗を可能な限り活かして少しでも発電するコトの方が重視されている(正確には、重視するスタンスがクールだともてはやされている)。

 「余分な速さ」よりも「不足を補う余裕」の方に、人々の意識におけるプライオリティが移行したのだ。

 スポーツジムは最たる都市型発電所だし、自転車は最たる移動型発電所だ。ナイトクラブやライヴハウス、様々なイベントが開催されるアリーナやスタジアムなど、あらゆるエンタメ会場の客席の床を観客が飛び跳ねるたび、ステージ脇のエネルギーゲージが溜まっていく。

 毎日のように「その日、もっとも(言葉の通り)エネルギッシュだったコンサート(あるいはスポーツ観戦)」が世界共通のランキング・メディアで発表され、それがナラティヴな公認ギャンブルの対象になっている国もあるし、来場者のそういった貢献度を次回のチケット代金のディスカウントに反映するビジネスも登場している。

 そういったエネルギーの創出量ランキングは、世界中の音楽フェスティバルの新たな価値基準となっている。世界でもっともエネルギッシュなフェスは、ここ数年、日本の熊野古道で開催される「鼓動 – KODOH -」だ。

 エシカルな人々がいちばんクールだとされている今、世界中のインフルエンサーたちがこぞって紀伊半島南部に集結する。

 主催者側もそれを心得ており、彼らがSNSでシェアし易いよう、あえて長い距離で隔てたステージとステージの間の熊野古道を、2つのアート(Artistic & Artificial)と自然とが融合したフォトジェニックな空間として演出している。

 発電ウェアと発電シューズをまとい、ADIRECTORアプリで照明や映像などの演出に干渉する。

 素晴らしい景勝を歩く様子を撮影した写真や動画は、開催期間の3日間だけで何十万と世界に向けて発信されていく。

 それは、かつて一斉を風靡したヒッピー文化のようであり、フォルクスワーゲンの「Think small.」や、一時期、ハリウッドスターが皆、TOYOTAのプリウスに乗っていたムーヴメントとよく似ている。

 人間社会にとっての価値基準は常にシフトする。それは、いつの時代も、科学技術の進展と文化的なムーヴメント(心の運動)によって起こる。

 資本主導社会において、それらは最終的に経済や広告(上記のThink small.など)に組み込まれる場合が多いせいで勘違いされるケースも多いが、社会的な価値を判断する意識におけるプライオリティに作用するパラダイムシフト(規範の急変)は、経済活動や交換価値が起点となって始まるモノではない。

 むしろ、何にも代え難い価値を見出したときに、それをその時代や社会にアジャストする際の受け皿として、かつては特権階級(王様や貴族)が存在し、現代では経済や法律(と、ほんの少しAI)が、もっとも影響力を持つ共通概念として機能しているだけの話だ。

【なぜ、AIがそこにあるか気になった方は↓ 】

 利用価値はあっても「金のなる木」ではないコトがきっかけとなる。

 それこそが、人類に残された善意であり慈悲の精神だ。

 今、世界が注視しているのは「無線電力供給という最新のテクノロジー」と「自家発電の先を行く自己発電という意識」からなる『エンドユーザーからの脱却』や『利他の精神』という価値であり、その結果、「唯の還元エコシステム」ではなく「多層的な循環型社会」が生まれつつある。

 多くのテクノロジーや発想によって同時多発的に多くの分野で同じフィロソフィを持つパラダイムシフトが起こり、物質的あるいは物理的な人間の行動が、発電だけでなく多種多様な循環に繋がりはじめているのが今らしさだ。



 「silica」は、音楽業界における新たなエコシステムだ。

 その前に、少し、地球の話をしたい。

 Flying River:空飛ぶ川/ Marine Snow:海の雪/ Sand Rain:砂の雨
––––どれも聞き慣れない「組み合わせ」を持つ現象かも知れない。

 地球全体の重量パーセントで、もっとも多い元素は「Fe」つまり「鉄」だ。 地球は、水の惑星ではなく鉄の惑星なのだ。

 一方、クラーク数(海水を含む地殻:地肌の元素存在度を同じく重量パーセントで表した指標)で、もっとも多いのは「O:酸素」、その次が「Si:ケイ素」とされている。

 その酸素とケイ素が化合した二酸化ケイ素:SiO2は「珪藻(ガラス質の被殻を持つ単細胞藻類)」にとって、必要不可欠なものだ。そして、この「珪藻」こそ、地球上の全生物にとって、なくてはならない存在なのだ。

 正しいかは別として「膜なくして進化なし」という論がある。哲学的にも生物を定義するファクターとして「自己と外界を隔てる膜」という存在が重要視されるなど、人が「生命の起源」について語るとき、常にその中心に “膜” があるのは事実だ。

 珪藻にとっての “膜” は「被殻」と呼ばれるガラス質で、SiO2によって形成される。精巧で美しい模様が刻まれたその表面がキラキラと光り輝くことから「ミクロの宝石」とも言われている。

 言葉通り地球の宝である「珪藻」が、光合成によって毎日生み出す酸素は、地球上で光合成を行う全生物の総生成酸素量の1/4を占めており、さらに、その過程で行う炭素固定(植物などが空気中から取り込んだ二酸化炭素を炭素化合物として体内に留めておく機能)も、地球上の20%に達している。

 言うまでもなく「酸素の生成」も「二酸化炭素の削減」も、多くの生物がこの星で生きるための絶対条件となる最重要の基礎機能だ。

 突然だが……地球で最大の川は、どこにあるだろう?

 そう、南米のアマゾンだ。

 ただし、それは「地表」を這うアマゾン川だけではなく「上空」にも存在している。

 アマゾンの熱帯雨林は「地球の肺(ヒトの肺とは逆に二酸化炭素を吸い酸素を吐く)」と呼ばれ、珪藻と同じく確かに多くの酸素を生み出しているが、大量の落葉や朽木を分解するバクテリアをはじめ、そこに暮らす多くの生物によって、生成量と同じ分だけの酸素を消費もしている。

 つまり、酸素は地産地消されているのだ(ただし、その過程で = 光合成によって、二酸化炭素の削減には大きく寄与している)。

 実は、アマゾンを地球規模で見たとき、その巨大な森が生成する酸素の量よりも、大量の木々が個々に行う「蒸発散」という機能の方が重要視されている。

 蒸発散とは、植物が根から吸い上げた水分の一部を水蒸気として空中に発することを指すが、アマゾンの上空には、それによって起こる巨大で湿潤な気流 =「空飛ぶ川」が生まれているのだ。

 それは「地表を流れる川」= アマゾン川と同等の水を運んでいると考えられており、その一部は、高くそびえるアンデス山脈に衝突して大量の雨雲を生み、スコールという形で再び地上に降り注ぐことで、たとえば、アマゾン川の支流であるウカヤリ川の形成に大きく貢献している。

 世界最大の川は世界最大の熱帯雨林を育て、そこに息衝く巨大な森が吐き出す湿った吐息は天の川を生み、アンデスの深部へと多くの水蒸気を運ぶと空を衝く山肌に行く手を阻まれて凝縮し、雨となってミスミ山に降ることで、再び、アマゾン川の一部となり森を縫う。

 日本語で「天」という字と「雨」とが同音なのが、偶然とは思えなくなってくる。太古から上空を流れる水「流」は、これもまた同じ読みを持つ「龍」などに喩えられ、崇められてきたのも頷ける。

 このサイクルをさらにマクロな視点で俯瞰するとき、比較的短期で狭義な南米北部の水の循環だけに留まらず、地球史規模の長期的かつ全世界を巻き込むような広義なエコシステムが浮かび上がってくる。

 その中心となる物質が「二酸化ケイ素:SiO2」なのだ。

 アマゾン川の力強い流れは、流域の地表(地殻)にあるSiO2を取り込みながら大西洋へと流れ出し、それを元に美しいガラスのような被殻を形成した珪藻が大量発生する。

 珪藻は、増殖を繰り返しながら世界中の海へと漂流していく。もちろん、この星の全珪藻がアマゾンから流出したSiO2から生まれるわけではないが、その繁栄に地球規模で大きく寄与していることは間違いない。

 世界中の珪藻は、毎日、アマゾンどころか地球上の全熱帯雨林に匹敵するほどの酸素を生成する上、海洋の一次生産者としても45%を占める存在感を示し、そこに住まう多くの生物の多様性と食物連鎖を基礎中の基礎から支えている。

 珪藻がなくなれば、海の覇者シャチであろうがあえなく滅びる。

 さらに珪藻の死骸は、SiO2から成るガラス質の被殻の強さと重みによって、それが含むリンなどの栄養塩が溶解しないうちに、一気に、海の底まで沈み、堆積していく(この現象が「海の雪」と呼ばれている)。

 モロッコは、そんな珪藻の亡殻が降り積もった珪藻土によって出来た海底が、地殻変動によって隆起して生まれた土地で、そこに広がるサハラ砂漠は、栄養塩を含む元珪藻(SiO2の結晶)= 石英の砂(珪砂)から成っている。

 そこで発生する大規模な砂嵐は、珪砂を巻き上げ、貿易風に乗って大西洋を渡る。その一部は南米大陸まで達し、アマゾンのジャングルに雨のように降り注ぐのだ。

 元珪藻である珪砂に含まれるリンなどは、地上の植物にとっても必須の栄養––––だから、熱帯雨林を支える雨には「水の雨」と、もう1つ「砂の雨」があるのだ。

【 アマゾン 大西洋 サハラ における SiO2 のサイクル 】

 このように、一見、無関係、あるいは、真逆にも映る、湿ったアマゾンの熱帯雨林と乾いたサハラ砂漠は、大西洋を挟んでGive & Givenの関係を構築している。

 二酸化ケイ素:SiO2は「アマゾンの豊かな水」と「サハラの光り輝く砂」によって、気の遠くなるような悠久の時を経て循環することで、世界一広大で肥沃な熱帯雨林を育み、南極と北極に次ぐ規模を誇るサハラ砂漠を生み出し、世界中の大洋と大気に向けて、珪藻と酸素を供給しているのだ。

 そして、それらの起点や媒介となるSiO2の別名が「silica:シリカ」だ。


   §


 日本に020年代に登場したプラットフォーム「シリカ」は、世界有数の巨大音楽市場(それこそアマゾンの熱帯雨林のように高い熱と大量の汗を持つ)を構成する個々のリスナーから––––

〜【 今 回 は こ こ で 途 中 略 】〜


 ––––少子化による人口減少と年金問題に揺れていた21世紀初頭の日本の未来予測は「循環」によって大きく裏切られた。

 経済を回すために必要な顧客は、地産地消を促す自国民である必要はなくなった。伸び続けたインバウンド市場––––すなわち、減少した分を補って余りある外国人観光客向けのビジネスによって賄われたからだ。外貨を稼ぐには、国産の製品(モノ)を輸出するのではなく、国外のヒトが有するトキのを消費を輸入する時代が到来したのだ。

 かつての民主主義の住民は、前時代である封建社会に蔓延った「武士の息子は武士」というような身分の相続を心底嫌悪する一方で、資本主義社会における財産の相続を嫌うコトはなかった。

 政治家の親が、子や孫に「職業(現代版の身分)」を、あの手この手で相続させるコトには批判が集まるが、親が社長で、子や孫に「汗水を垂らして稼いだ経済的な資産」を相続させるコトは当然と見なした(ただし、社長という身分を継がせる同族経営に関しては、批判的な風潮もあった)。

 現在では、そのいずれも(嫌悪という感情的な理由ではなく)法治国家あるいは世論という常識的な状況によって許されていない。親が子に残せる財産には上限があり、何世代にも渡る一族郎党が一切働かずに生活していけるような遺産相続はできない。

 その差分はどこへ消えるのか?––––シンプルに、社会へと還元される。

 故個人の蓄財に対して、ほとんど何の社会的貢献もしていない血族が、近親の死という悲しみ以外は無条件で、財産相続できてしまうのは不条理でしかないと看做されている(そもそも、親しい人の死という苦しみは万人に等しく訪れる試練であり、悲しみという純粋とお金という不純な悪は、別々にしておいた方が幸せかも知れない……お葬式で、財産分与の比率を醜く争う親族はほとんどもういない)

 そもそも、その蓄積は社会から運良く得た「一時授かりモノ」に過ぎないというのが、現代の新たな常識だ。

 こうして、年金不足を解消する財源は人々の死によって賄われるようになった。自分は知らない「自分より若い人々」が生きるために、個人は還元的に死んでいくのだ。

 死を前向きに受け止める思考が加速し、自然摂理のエコシステムに物体として貢献できずとも(バクテリアの餌として土に還る死体にはなれずとも)、人間社会の精神面ではエンドユーザーではなく、故人の生前の努力と生きた証が金という触媒によって分解され、国家予算という形で社会という土壌に溶け戻るようになった。

 生きる権利と同等に、死ぬ権利を好意的に受け入れる国が増えたのは、このおかげでもある。

 過剰な親の七光りは消え失せ、あまりに利己的な蓄財は恥という風潮も生まれると寄付が増えた。死ぬ前に豪遊する老人たちは、最後に、もう一度、うららかな春を闊歩する若者のようでもあった。そして今日、こういった循環を国家内のみで成立させること自体が、(※ 反転地下世界での国境の仮想的消滅の進行も手伝って)あからさまに冷遇されはじめている。

※ 8−6「⑤空想上の地下にある反転都市での話」で、今回は省略した部分

 利他的でボーダレスな循環型社会では、感謝の「Give & Given」から生まれる「名誉」=「誇り」こそが、個人が生きる上での「心の栄養やモチベーション」であり、社会におけるエネルギーやスムースを担保する潤滑油なのだ。

 今後、経済的な価値やモノの蓄積はより軽視され(心において適切な地位に戻り)、精神的な価値やコトやトキによる功績の方が大事にされていくだろう。

 封建(人治)社会の「王」や「僧侶」という身分は、その心のあり様によって敬われるはずだったが、必ずしもそうとは限らなかった。同じく、民主主義(法治)であり資本主義である社会の「経営者」や「法律家」という現代的身分(職業)に関しても、尊敬に対する大きな変化は見られない。

 つまり、その心ではなく、社会的な地位という表面的で経済的なあり様によって評価される場合が多い。

 循環が国家や家庭の財務状況など様々な条件でセグメントされ、小さく短いサイクルに分断されればされるほど、水の流れは滞り濁り、心の栄養に対する社会的価値は下がり続ける……つまり、その傾向が強まる。

 そんな嘘っぱちのセカイでは「名誉ではなく実益を!」「利他よりも利己的であれ!」というような短絡的な考え方がクールな生き方として推奨されたり、あたかも素晴らしい思想として尊重されるときがある。

 本物の世界(地球の自然)で生きとし生けるものすべてに必要な珪藻でさえ、循環のない水溜りで増殖し過ぎれば、水面で陽を遮り、悪臭を放つ鬱蒼とした暗黒のエコシステムを生んでしまう。

 一方、宇宙から見下ろせば、南極/北極/サハラ––––三大砂漠のいずれも不毛ではない。

 地球規模の青(酸素や水)を生む過酷だが乾いた輝きなのだ。

 経済というのは、その砂漠だ。ときに必要悪的な摩擦であり競争。そんな荒涼とした大地に、その他大勢の一員かつ一因として飛び込むとき、水や食糧/テントといった物質は、その手に持とうが、ラクダが背負おうが、もはや生物ですらない荷台が抱えようが、その価値に変わりはない。

 一方で、勇気(感謝)と尊厳(誇り)は、人間こそが背負うべきコトで、心は人間だけが持ち得る器だ。

 もう一度、言おう。人間に限っては、この世界の半分以上は、想像による創造(心の働き)によって出来ているのだ。

8−8 
常新性の希望



 いつかこの世界はこの世界ではなくなる。

 今の音楽業界において、

 A. 音源ビジネスはなくならない!
 B. 音源ビジネスはなくなる!

 という2つのお題のうち、どちらを掲げるべきだろうか?

 僕は、Bこそ、自らに課すべきだと思う。

 ただし、必ず「いつか」を付けることで期間を限定しない課題にすべきだ。

 いつか、このビジネスはなくなる!
 いつか、この会社はこの会社ではなくなる!

 そういった無期限条件下での現状自己否定ベースに立たなければ「良くても良くならない(脆さ)」と「悪くても良くならない(強さ)」とはまったく異質の「悪ければ悪いほど良くなる(反脆さ)」を持つコトはできない。

「必ず、こうなる! というビジョンを掲げろ!」
「何年以内に行う! という期限目標を設けろ!」

 このような、まったくVUCAではない固定的/確実/シンプル/明瞭な目標を立てるコトも必要だと思うが、多くの場合、それだけでは不十分だ。

 不測の事態が起こる方が普通であり、そこに確実性を見出そうとする「非VUCAな可視化」の多くは、「Invention(捏ち上げ/捏造)」に過ぎない希望的観測だからだ。

 数字という共有化ソリューションが持つ「明瞭な可視化を伴った目標設定」を提示するコト自体は、実は非常に簡単で楽なコトだ。考えれば考えるほど、数値化するコトが難しい目標や評価があるコトが分かるはずだ。

 その矛盾に気付きながらも、何とか数字で表そうとしてしまう理由は、ストイックなんかじゃなく、その方が楽だから……

 根拠のない数値目標(音楽業界でいえば、すでに売れているアーティストの前作実績を次作の売上目標にするコト以外のあらゆる数値目標)の共有は、無意味な簡素化に過ぎず、何となく雰囲気でやり取りされる「然るべくして達成できない目標(運良く達成できる数 or 運悪く達成できない数)」でしかない。

 前回5万枚のCDが売れたアーティストの次作を、5万枚売るというのは目標ではなく、ただの予測であり、それすら、意味不明に上振れたり、下回ったりする。少なくとも、1桁や2桁単位の精度で目標設定し、それを達成するコト(前回、1週間で104,325枚セールスだったCDを、次も同じ期間でぷったり同じ数字を売るようなコト)は、到底、不可能だ

 「然るべきして達成できる目標」は、エスノグラフィックな文章でしか表現できない(場合がとても多い)。

 この世界にはどう考えても定量化できない事象や質があり、それを長い文章で表すコトは、本来、スマートな方法だ。この「スマート」という言葉は賢いという意味であって、時短ではない。

 現代人は、民主主義(多数決)と資本主義(金額という数値の重視)によって盲信させられている定量化バイアスから解放されるべきなのだ。

【 数値目標はペテンになりがち 】

 数字というのは、一定の平等性を保つ評価手段として、現時点では、ベストに近いソリューションだが、表裏一体、ペテン師の顔も持っている。

 ペテンというのは、当たったら当たったと主張できて、当たらなかったらそっと闇に葬れるようなコトだ。

 真剣にやっている人であればあるほど、いつか、その不条理と真正面から対峙することになる。

 音楽業界でも、これまで、多くの人々が、数字に一喜一憂してきた。数字的な結果を出せていないときは、とんでもなく苦しい。低い数字や叶うことのなかった数字に、恥ずかしさすら覚える人もいるかも知れない。

 でも、その感情こそ、真剣さの証なのだ。
 必ず、次への原動力に繋がる。

 こういう人は、あるときは簡単で確かだと感じていた数字が予測不能な怪物と化しても、ただそれに打ちのめされるのではなく、そこから何度も立ち上がれる性質を持っている。

 その不都合な現実から逃げ出せないなら、しなやかになるしかないことを思い知っているからだ。

 弓が、後ろに引かれた分、より速く遠くまで矢を飛ばせるように、後退させられた分、より長く前進することができるチョロQみたく、後ろに下がるしかなかった苦い経験(傷)を持つ人だけが、新たな時代 = ムーヴメントまで巻き起こすようなヒットを生み出せるのかも知れない。

 数値目標を立てることは、社会的な評価のために、とっても大切だし、必要だけど、それだけが目標だと、決して、思わない方がいい。

数 字 に は 、未 来 に お け る 希 望 や 願 い を 表 現 す る 機 能 も
予 測 不 可 能 な 結 果 を 正 し く 「 定 量 目 標 化 」す る よ う な
サ ー ビ ス も 付 い て い な い 。


 だからこそ、どうか、数字では表せない
 本当の結果が出るまでやり遂げて欲しい。

 それが何なのかは、僕にも、今のあなたにも、誰にも分からない。それは、未来、やり遂げたあなたにだけ分かる感覚や感動だ。

 それは、売れようが、売れまいが、きちんと訪れる。チャンスは確かに少ないが––––「あぁ、自分はこの瞬間のためにここまで来たんだな」と思える日が、きっと、やって来る。

 売れると信じているプロジェクトが、なかなか芽吹かないとき––––
 売れていたプロダクトが、どうしても下り坂になっていくとき––––

 そんな数字の残酷さに、打ちのめされ過ぎないために。

本書「音楽業界でディレクターになる資格 - 世界の不条理。 売るんじゃなく、救う。」
より一部抜粋

 前述の通り、音楽業界で「新人が何万枚のCDセールスを達成できるか」は、明瞭なようで、実は不明瞭かつ無責任な目標にしかなり得ない。達成できるとすれば、幸運によるものか、あるいは、あらかじめ過小評価をしておいて「確実に越えるために設定した越え易い目標」を悠々越えるくらいしか方法はないだろう。

 一方で「(何万枚セールスを目指し)有名雑誌のインタビューを獲得し、そこで素晴らしい音楽哲学を語ってもらう!」という目標は、成すべくして成される目標と言える。

 現代社会では、定量化バイアスによって、数値化できないこのような目標までをもすべて数値化してしまうコトで、偽物の安心感を得ようとしている(よく考えれば、数字に表すコトでの目標設定も、それに対する評価も難しいはずなのに、もっとも確実で簡単なソリューションだと思い込んで楽をしている)のではないか。

 経済上の数的目標とそれに対する評価は、部下と上司が目標を簡素化し共有するコトにおいては有用かも知れないが、実のある目標設定と評価を行うという本望においては、一切、役に立たない似非ソリューションだ(と、僕は真剣に思う)。

 売りやすいモノばかりを売って数字ばかり立派な人間がマネジメントすると、数字の辻褄を合わせるコトを何より優先し、自らも挑戦しない/他人にも挑戦をさせない––––そんな消極的な組織が出来上がる。

 一方、文章による「経済上の数字を伸ばすために何をすべきか?」という一見曖昧で、評価し難いように聞こえる目標とそれに対する文章評価の方は、お互いにしっかりと腑に落ちる明確なコミュニケーションを生む。

 だから、1on1が必要になる。

 逆に言えば、文章(エスノグラフィック)評価を導入していないのに、1on1という型だけを採用しても意味はない。面談や対話を形骸化させるだけだ。数字の評価を重視しているなら、会って話す必要などない。数字の効能は、時短や簡素化、そして、絶対化なのだから。

 VUCA(変動/不確実/複雑/曖昧)な現実を受け入れた上での目標設定を可能にする「文章」という「想いの明文化」は、共感性や満足度の高い評価を行うためのスマートで素晴らしい道具だ。

 だって、言語は数字の進化版––––逆に言えば、数字とは言語の退化した姿なのだ。

 いつか、今の私は、今の私でなくなる!

 という期間を限定しない「いつか」という曖昧さを持ち、さらには、今の自分ではないというあまりに幅広い不明瞭な「現状自己否定(現状自己ではないすべてを肯定的に含む)思考」は、まさにそういった目標設定を生み出すインスピレーションの1つだ。

 現状維持に注力することは、変化しない現状だけに賭けるハイリスクなコトであり、それは他の可能性を一切排除するコトに繋がりかねない。

 一方で、現状自己否定型思考は、反脆くしなやかな姿勢を生む。

 今の自分ではない = あらゆる自分以外と、未来において変化した自分という多くの可能性を含んでいるからだ。

 変化を恐れないだけではなく、変化を愛するコト、歓迎するコト。

 多層的な「IMMERSIVE SOCIETY」は、非物質的であるからこそ同時多発し、リアルタイムな可変性を持つ「永遠に未完にあり続けようとするプロセス」を、超民主的かつ量子物理的な性質を持つ共創を歓迎する没入社会だ。

 それは、常にパラレルな可能性を持っており、進化とも退化とも言い切れない(藤子・F・不二雄先生が言った「乱読」に近い)幅広い変化をし続けることで、ダイナミクスの拡張(多様性の内包ではなく増幅を起こし)、だからこそ普遍性を見出す「反脆さ」を実装させる。

 変わり続けるコトで変わらない何かを探す旅。

 いつか、僕は今のボクではなくなり、
 この世界もこのセカイではなくなる。


 だからこそ、心は、心を打ち続ける。

 人は、想造するコト(夢見るコト)を、
 そして、それに没入するコト(夢中になるコト)を、
 決して、止めるべきでない。

–– 了 ––


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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