自ら心をかき乱す行為とは
同僚の結婚式がありました。実は親戚以外の結婚式は初めてで、服装や食事のマナーに恐れながら過ごした時間が流れていきました。
お昼前から挙式が始まりましたので、披露宴の終了は15時頃。まだまだできることはありそうだと思い、遊びに行くことに。
昨日、あるアーティストさんのInstagramのインスタグラムをきっかけに知った個展にお邪魔してきました。
とても心揺らぐ時間だったのでそれを記録として残しておきます。
ただし、アーティストさんについて、作風については省略します。実際に話して知ることが大事な気がするだなんていう、もっともそうな理由をつけて、自分の拙い言葉で語ることを放棄するということです。
いつもは【アート】という目を通して作品に触れている気がしますが、今回は【自分】を通して作品に触れた時間だった気がします。それはきっと、「絵」と共に「言葉」も作品であったから。絵に内包された言葉ではなく、言葉もそこに存在したのです。
『作品に触れることを求める。』それはその時の自分を知りたいからだ、と思い続けていて、それは今も変わらぬ考え方なのですが、今回はその作品の言葉の美しさに自分を比較してしまう瞬間が多かったと思います。それは単に自分の考えを卑下することと同等ではなく、だからといってその差異を楽しむほどの余裕もなく。余裕のある時はきっとその差異を求め、味わっているはずなのに、それができなくなっている自分に気づきました。
そもそも、作品を見ながらアーティストさんの心の美しさに感銘を受けながらも、これ以上受け入れることができるかという不安を抱き、それでもなお比較してしまう。やめてしまえば、心を揺らがせる、いや、かき乱すことなんてないのにも関わらず、作品を通してアーティストさんの言葉に触れようとする。いや、自分に触れようとしてしまう。それがいかに、心乱される行為であろうとも。
そのアイロニカルな行為がより一層作品の良さを引き出し、アーティストさんの考え方を鮮明にするのだと感じる時間でした。
いつものごとく抽象的な表現ばかりになってしまいましたが、とにかく私の心をかき乱した時間であったことには違いありません。
詩を書きたいな。書けばいいのだけれど。
アーティストさん:NAOKI AOYAGIさん
Special Thanks:Kuw_さん
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