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"ひらめき”が伝えようとしていること

ひらめきが何故与えられるのか、ということを考えるようになってから、立て続けにいろいろな番組を観ることになりました。
その番組で語られた内容を取り上げながら、今回も書かせていただこうと思います。


『NHK アカデミア』外尾悦郎さん


東京国立近代美術館で『ガウディとサグラダ・ファミリア展』が開催されていた影響で、今年の夏は外尾さんご出演の番組がNHKでかなりの本数放送されていましたね。
その中でこの『NHK アカデミア』を私は最初に観たのですが、とても感動しました。

サグラダ・ファミリアと言えば、言わずと知れた、1世紀以上に渡り建設し続けられている、スペインが誇る所謂"未完の教会"ですが、外尾さんは2013年からその芸術工房監督としてご活躍されていました。

それだけを聞いても「凄い方だ」と思うのですが、ご本人はとても謙虚で、ご自身のお仕事については、1978年に25歳で単身スペインに渡られてから45年間、ただひたむきに「石と対話をしてきただけ」だと仰います。


そんな外尾さんが、ある時、ガウディの資料が全くない仕事を任されます。

サグラダ・ファミリアは、1882年から建設が始まり、何人もの建築家によって受け継がれてきたそうですが、その中で最も有名な建築家がアントニ・ガウディで、彼はこのプロジェクトの2代目の建築家なのだそうです。初代ではなかったのですね。あまり興味を持ったことがなかったので、今回初めて知りました。

そのガウディが構想した設計図を基に建設が続けられていた中で、1936年から3年間続いたスペイン内戦の際に、図面他の重要な資料がほとんど焼失されてしまい、その後建設が再開されたものの、当時を知る方々の記憶と、想像でしかガウディの構想を形にすることが出来なくなってしまったということです。

当然外尾さんの手元にも何も資料がないのですが、にもかかわらず、縦横高さのサイズだけを告げられた「何か」をつくることになります。
番組中でご自身も「信じてもらえるかどうか分かりませんが」と仰っていますが、そんなざっくりし過ぎなお仕事の依頼が来るなんて、本当に想像を絶するお仕事だということが分かります。


苦悩の中で

それまでにもいくつかの功績は認められてきたものの、やはり外国人である外尾さんが、現地でそういったお仕事、ましてや世界の一大プロジェクトに携わり続けていく為には、認めて貰えるようなお仕事をし続け、結果を残すことが要求されているわけです。

一つの資料もない中、「資料がないから」と言って適当なものをつくるわけにもいかず、答えを見いだせないまま精神的にどん底に落ちてしまった外尾さんは、荷物をまとめて日本へ戻る決意をされます。

ところがふと思います。「答えが出ていないということは、ガウディと違う方向を向いているからだ。同じ位置に立って、同じ方向を見てみよう」

そしてその瞬間に、ひらめきがやって来たのです。

その瞬間のことをこう語られています。
「ガウディとの距離がすっとなくなって、ガウディが僕の中に入ってきて、僕もガウディの中に入ったような感触があった」

そして、外尾さんはひらめきというものを以下のように表現されています。

考えても考えても出てこないはずのものが、「多分、こんな仕事がここのあの場所だよね」と、瞬間にひらめくんです。答えはこれだと思ってしまうんです。

なぜそれが浮かぶのかわからないんだけれども、浮かんだあとに、本当にそれが正しいのかなということを誰にも聞けない。誰に聞くのか。自分に聞くんです。自分に問い続けて問い続けて、わかりやすい言葉で言うと、自分をいじめるんです。とことん自分をいじめぬく。いじめぬくというのは自虐的になるわけではないんですよ。
「本当にお前大丈夫か」ということを自分に聞くんです。「問題解決したのか」と、問題を自分に問いかけるということです。自分に問いかけた答えを自分が出せなかったら、それはおかしいじゃないかと自分で納得せざるをえないんですが、自問自答するうちに答えが出てくるんです。そうやって、最初に浮かんだ答えを煮詰めて煮詰めて、自分との葛藤でどんどん深くいくと、もう質問はないだろうとなる。そうなったときに、それをつくっていくんです。

そして不思議なことに、つくったあとに情報が入って、これが正しかったという資料が出てくるんですよ。聖書の中のこれとこれを煮詰めていくと、こういう答えがあるから、これは正しい。「正しいね」と言ってくれる人がいるんです。私の幸運なのかもしれませんが、僕はガウディと一緒に見るんだと決めた瞬間から、ガウディが常に助けてくれているような気がします。

『NHK アカデミア』より


はい、この通りだと思います。

なぜはっきりと肯定できるかと言うと、私も同じ体験をしたことが度々あるからです。
もちろん、外尾さんのように大きなお仕事ではありませんし、日常の取るに足らないことであったり様々ですが、たいていの場合、「0からつくること」や「表現すること」に関わることを行っている時が多いような気がします。

ただ、私自身はそれを人に説明することはありません。芸術に関わる活動をされている著名な方はよくインタビュー等でも似たようなお話しをされていて、「同じような感覚だろうなあ」と想像はしていたものの、外尾さんのように正確な言葉ではっきりと表現された方に出会ったのは初めてでしたので、「全く同じだ」と感動しました。

実は、この番組を観なければ、同じことをこの記事に書こうと思っていたのですが、私はここまで正確に表現できなかったと思いますので、引用させていただけて本当にありがたいです。


ひらめきの見分け方


私たちは日々様々なことを思い、考えていますので、頭の中に浮かぶことの内、どれが自分自身の思いで、どれが他者の思いかと言ったことを、出来るだけ整理していくわけですが、上記の引用の中で太文字にした箇所が、自分の思いではなく、「与えられたひらめき」であることを見分ける材料かと思います。

「瞬間に」「答えだと分かる」「後で正解だと証明される」、
それから外尾さんは語られていませんが、あと一つ挙げるとすれば、
「自分の欲得にはならないこと」、言い換えると「他者や社会の為になること」を行っている時で、これが一番大切なことだと思います。

実は前者は「ひらめき」と言えないものにも似たような感覚を覚えることがありますが、その行動の目的が「他者や社会の為になること」というのは、「ひらめき」である決定的な判断材料かと思います。

外尾さんのお仕事が、名誉欲などの欲得でないと言えるのは、番組をご覧いただくとお分かりいただけるのではないかと思います。


答えの一つ目

一つ答えが見つかったように思います。

ひらめきが与えられる理由の一つは、
「他者や社会のためになることに対する応援」だと思います。

そういった目的を持って、真剣に答えを探そうとしている人ならば、それが芸術であろうが、科学であろうが、日常の小さな出来事であろうが、ひらめきというシステムを通して「応援」してもらえる、ということです。

つまり、このことを逆引きすると、「どのような目的を持って行動するか」がとても重要だということ。

それを示されているのだと思います。

そして、そんなひらめきを与えられる中で、決して完璧ではない人間の限界というものに気づき、私たちを応援してくれる神の存在を知ることになるのだと思います。

同じことを外尾さんも仰っています。

人間は完璧ではありません。完璧ではない有限の人間が、その限度を知ったときに、完璧な神を知るわけです。

『NHK アカデミア』より



『人を幸せにできなければ、自分は幸せにはなれない』

これがガウディの言葉だということを、私は初めて知りました。

正に、こういった思いを、未来に繋いでいく役割を持った外尾さんだからこそ、素晴らしいひらめきが与えられたのではないかと思いました。



余談ですが、番組内で外尾さんは、「体調が優れない時にビタミンCをとって栄養を補充するように「石が足りない」と感じることがあって、石を掘りに行く」と仰っていますが、これを聞いて私は「同じだ(笑)」と思いました。
こういう感覚になったことがないとご理解いただけないかもしれないですが、外尾さんがここで仰っている「石」は、私にとっては「音楽」のようなのです。倒れそうなくらい疲弊した時には、食事をするのではなく音楽を聴くことにしています。そうすると力が湧いてくるのですね。「食べ物は受け付けないけど、音楽なら入ってくる」といった感じで、正に点滴のようなものだと思います。
でも、決してむやみに真似はされないようになさってください。
もちろんその後食事もしますし、それが全てではありませんので。

この記事で私はひらめきについてのみお伝えしましたが、毎回素晴らしい『NHK アカデミア』の中でも外尾さんの回は、他の内容も本当に素晴らしいので、皆さまにもぜひNHKのHPからご覧いただきたいなあと思いました。

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