人と人との「違い」
前回の記事では「人間=星のカケラ?」という疑問で終わりましたので、その続きを探ってみたいと思います。
人間を物質として見るならば、星のカケラであることは理解できるのですが、その物質だけが人間だとすれば、その物質を構成する成分は同じものであるにも関わらず、どうして私たちはお互いに「違い」をみつけるのでしょうか。
勘のいい方でしたら私がお話ししたいことが既にお分かりかもしれませんが、
その「違い」を生み出すものは、「魂」だと私は思います。
今度はいきなり精神世界に連れて行こうとしているのかと思われたかもしれませんが、そうではありません。
魂
初めてこの言葉を辞書で引いてみました。
「考えられるもの」「信じられてきた」と定義されているように、私たちの目には見えないので曖昧なイメージを与えています。
実在するのかどうかも明確ではないと思えます。
私たちの多くは自分の目で見えないものは「存在しない」と考えがちです。
ですが果たして「目に見えるもの」だけがこの世界の全てでしょうか。
例えば、音は、一般的には20Hz~20kHzの間が人間の耳に聞こえる領域(可聴域)、それ以外は人間には聞こえなくても、他の動物には聞こえている、と証明されています。
※詳細は下記TOA株式会社様のサイトがとても分かりやすいと思いますのでご覧頂ければと思います。
ですので、人間という生き物の耳に聞こえないからと言って、「存在しない」とは言えない、ことが言えると思います。
また、「うれしい」「悲しい」「腹立たしい」
これら感情と呼ばれるものも目には見えません。
ですが、感じることができるため、科学の分野でも研究され、その存在は認められています。
であるならば、魂も感じることができればその存在は認められるものだと思うのです。
魂を感じる
おそらく現在の10~20代くらいの方であれば、漫画、アニメ、ゲーム、映画等様々な作品を通して、感覚的に普通に存在するものと思われている方も多いのではないかと思いますが、30代くらいより上の方は「あるかもしれない」と思いつつも、「公の場では口に出せないもの」、というような認識の方が多いのではないかと私は思います。
それは、第二次大戦に敗戦した日本で、天皇を神だと思って崇めてきた教育が否定され、代わりに、物質的な豊かさを得るための活動に人々が集中するよう導かれてきたため、戦後日本人は物質至上主義、科学至上主義にどんどん偏っていったのですが、3世代位に渡ってその影響が色濃いと思います。
しかしそれも、物が不足していた時代においては、必然でもあったと思うので、それ自体を否定するものではありません。
ただ、その結果いつしか、「目に見えないものは存在しない」という、社会の風潮として定義づけられるようになっていったのだと思います。
ですが、実は辞書の言葉にあるような共通認識は世代問わず誰もが持っていると思うのです。
ではなぜ、公の場で口に出さない、認められないものであるにも関わらず、多くの方が「認識」しているのでしょうか。
それはどこかで「実感しているから」ではないかと思います。
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私は数年前に体を壊しました。
原因はよくある過労です。
しかし体が壊れていると判明してもなお、「まだ動ける気がする」という思いが暫くの間あって、働き続けていたのでした。
その仕事を続けている間は気づかなかったのですが、後になって振り返ってみると、その時の私は「心と体が分離していた」のだと思いました。
この「体と分離したもの」は、医学的には「精神」という表現がされると思いますが、精神とは心のことですので、辞書にある「心をつかさどるもの」である魂と同じことを言っていることになります。
もしも「心は認めるが魂は認めない」という方がおられたなら、「いえいえ同じものですよ」と言わざるを得ないなあと思ったりします^^
ただ、これはおそらく私が極限状態に陥っていて、妙に意識が研ぎ澄まされていたために感じたことで、体験した方でないと理解して頂けないかもしれませんが、その時私はそのようにはっきりと感じたのでした。
「繋がってはいるが、体と魂は別のものだ」と。
繋がっているため「同じもの」と捉えがちな方が多いと思いますが、それぞれは「別のもの」だと思います。
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また、体を壊した後、暫く休息期間を取らせてもらったのですが、その時にふと思いだしたことがあります。
10年近く前に祖母が他界しました。
幼少期は同居していたのでとても近い存在でしたし、90歳を超えた祖母は大往生ということで親族も穏やかな気持ちであちらの世界へ送りだせたと思います。
そんな祖母の葬式でお棺の中に眠る顔を見てこれもまたはっきりと感じたのです。
「人は亡くなると、体は物質だけになるのだな」と。
もちろん目は閉じていますが、体内から確実に「何か」が抜け出てしまった感じが見てとれました。
そしてその抜け出てしまったものは、「生命を司るもの」であり、
何かの「エネルギー」だと感じました。
人間でも他の動植物でも、生きている時には、活き活きした、瑞々しい、力強いパワー、のようなものを感じると思います。
特に人間でしたら目にそのエネルギーを感じると思いますし、たとえ目を閉じていても感じられると思うのですが、そのエネルギーは、亡くなると抜けてしまうのだなあと感じたのです。
これは若い方はまだご経験が少ないと思いますが、ある程度年齢を重ねて来ると多くの方がご経験されることかと思います。
20年前に祖父が他界した時は、親族が亡くなった場に立ち会うのが初めてのことで、ただただ怖れのようなものを感じて、そのようなことを感じる余裕がありませんでしたが、祖母の時は冷静でしたのでそう感じました。
最近は医学界でも様々なお医者様が、「認めぜるを得ない事実」として語られていますので、割と一般的になってきているかと思います。
この記事の矢作先生というお医者様は「肉体死を迎える」と表現されています。
「肉体の死であって、魂の死ではない」ということですね。
「うれしい」「悲しい」という感情のように頻繁に体験することではないことと、故人に対する悲しみという感情が勝ってしまうことが殆どだと思いますので、一瞬感じたとしても忘れてしまわれる方が多いのではないかと思いますが、私たちはきっとそんな風に魂そのものも、身近な方の生死や、日々の営みを通して感じているのだと思います。
だとすれば、感情と同じように「魂も存在する」のだと私は思います。
「存在する」ことの意味
なぜ「存在する」かどうかにこだわるかというと、それを誰もが「認める」社会になることがとても大切だと思うからです。
それが私たちにとってとても重要なことであれば尚更です。
体がみんな同じ成分で出来ていて、そこに「違い」を与えるものが魂だとすれば、私たち人間の真の本体部分は、肉体ではなく魂ではないかということになります。
そして魂が存在するのであれば、更には魂が「エネルギー」であるならば、最先端の科学で感情についても証明されているように、魂も科学の分野で証明することができるのではないかということです。
もしかすると私が知らないだけで、既に証明がされつつあるのかもしれません。
もしそうだとするなら、その情報を誰もが「認められる」ように、もっと世界中に浸透させていってほしいと私は思います。
・・と、ここまで書いたところで調べてみると、やはり研究者いらっしゃいました(笑)。いやそうですよね、私などが考えるくらいですから、科学者の方は証明したいと思われる方がおられて全く不思議はないです。
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この世界の様々な問題は、この魂のような非物質であるエネルギーの領域を研究し、社会がそれらを認めることで多くのことが解決に導かれるのではないだろうかと私は考えています。
ところが、曖昧なままにしておくと、「口に出すと馬鹿にされるかもしれない」と、話題に出すことさえはばかられ、放置している内に人々の意識の中から忘れ去られてしまいます。
日本でいうところの昭和は物質至上主義の時代でしたが、どれだけ物を手に入れても満たされないことから、精神の在り方が注目されるようになった平成という時代を経て、この令和という時代は、まだ解明されていない、人間の目に見えない世界を科学で証明していく挑戦の時代になるのではないかと私は思います。
そして数々の未曾有の危機に翻弄され、「人間として」正しいことは何なのかを問われている時代において、今こそ「人間」の本体である「魂」の存在を科学的に認め、それを深く理解することが、何よりも大切なことではないかと私は考えます。
魂の存在については、私の経験にもあるように、近親者が亡くなった時に気づける方もいらっしゃると思いますが、もしかするとそれは僅かな人数で、気づけたとしても口にすることができないことが多いと思いますし、
この世界に浸透していないということは、上記の記事の研究もおそらく科学界全体ではまだ「仮説」の域を出ていない可能性もあると思いますが、
先日終了した『コズミックフロントΩ』内でも示されたように、現時点で既に宇宙科学がもう普通の想像力では追いつけないくらいの領域まで研究されていて驚いたのですが、20世紀に「理論上の物理学」だとされたアインシュタインの「仮説」は、この世界に存在する「まだ分からないもの」をたゆまなく研究し続けて来られた科学者の皆さんによって徐々に解明されつつあり、それらが進行している時代に私たちは生きています。
であるならば、現時点ではまだ証明されていないことも、未来を生きる科学者の手によって多くのことが証明されていくことは確かです。
しかし、現在のように「魂は認められない」という認識が常識であるかのようになってしまっている社会が、もしずっと続いていくようなことがあれば、その分野の研究を始めることさえ出来なくなるのではないだろうかと思うのです。
ですから私は、賛否両論あることは勿論承知の上で、「魂は存在する」ことを伝えたいですし、
未来を担う若い方たちに、ぜひ科学で証明して頂きたいと、私は大いに期待を寄せています。