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科学とインスピレーションと無神論

前回の記事に引き続き、「直観、インスピレーション、ひらめき」というものが何のために与えられるか、ということについて考えてみたいと思います。



直観の事例

社会には様々なお仕事があるので、各業界の方も体験されていると思いますが、表に出て来ているものだけ拾ってみると、特に科学や芸術等クリエイティブな世界でご活躍の方の直観に関するお話しが多いと思います。

様々な方の言葉がありますが、例えば、日本の音楽業界でとても有名なのは、槇原敬之さんの『世界で一つだけの花』の制作コメントですね。

頭に浮かんでくる景色を文章化していくだけで、
自分が書いた感覚はなかった。

朝日新聞インタビューより

インタビューの中で槇原さんがこうお話しされていますが、当時いくつもの取材や出演番組等でお話をされていて、かなり有名なエピソードです。

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iPS細胞を作ることに成功したことでノーベル賞を受賞された山中伸弥さんもメディアでよく話されています。
科学者の方が語られるインスピレーション(直観、ひらめき)のエピソードは、事例を挙げるとキリがないのですが、”キリがない”ということは、つまり「科学はほぼインスピレーションから発現されたもの」ということなのかもしれません。

そうなると科学者の方ならではと思いますが、「そのひらめきはどこから来るのか?」となるわけですが、様々な検証がされた結果、一般的には「ひらめきは右脳から生み出される」とされています。

一般的な将棋の人だと、脳につけた電極の左側がブワーッと熱くなってて。つまり、左脳で一生懸命考えている。
でも羽生名人だけは左脳はほとんどクールなままで、右脳が異常に熱く稼働している。

出典:ログミーBiz

しかしです。上記の記事でも語られている「右脳」はあくまでも「具現化するための出先機関(器官)」だと思うのです。
脳については未だ数%しか解明されていませんが、「反応しているから」という理由だけで、右脳から「発現する」と結論付けることは難しいのではないかと素人でも思いますし、「そう考えられる」、又は「現時点で分かっていること」であって、実は研究者の中では「結論」とはされてはいないのではないかと私は思っています。

そして山中教授をして、ご自身のことを「神頼み型」だと仰っていることからも、科学者の方こそ、実体験を通して「インスピレーションは神からあたえられているもの」と感じられているのだろうと思います。


にもかかわらず、一般論が「右脳からだ」と、まるでそれが結論のように主張する風潮なのは、もしかするとどの業界でもそうですが、学問的な業界は特に、「目に見えるものを用いて定義せずにはいられない慣習がある」ために、中には断定的な表現で仰る方がおられる、というだけなのではないかと私は考えます。
つまり一部の方が断定的に仰っていることを、私たちは「結論だ」と思い込んでいるだけかもしれない、ということになります。


一昔前までは、社会全体的に科学的な表現はかなり断定的で、私は専門的なことは分からないですが、当時の科学者の方の言動を見るにつけ、何か盲目的に「科学」という存在を崇拝しているかのように「科学は絶対だ」と仰る方が多く、ともすればそれは宗教と同じようなものではないかと、私は昔から違和感を感じていました。
つまり、戦後"神"を信仰するのはやめたが、代わりに"科学"を信仰の対象にするようになってしまったのではないかと感じていたのです。

ところが近年では、科学の発展と共に更に多くのことが解明されてしまったため、そのような断定的な表現はあまり使われなくなり、ほとんどのケースで「現時点で分かっていること」という表現がされるようになりましたので、やはり「人間の認識力に絶対はない」ということを事実として認めざるを得なかったんだろうなあと思いました。


また、これは歴史学などもそうで、歴史も昔教科書に載っていたことが現在は次々に覆されていて同様のことが起きていますが、あまり断定的なことを言ってしまうと、未来に肩身の狭い思いをする可能性もありますので、色々な意味で「絶対」ということは言えないのではないかなあと私は思います。

ただ未だにおられますね、毎回大河ドラマに「史実と違う」とすぐに批判したがる歴史にお詳しい方々・・。「いえいえそれはフィクションのドラマですから、そんな躍起にならなくても~」と言いたくなりますし、そもそもその歴史とは、数々の戦乱が続いた時代の中で、消失等せずに残っていた書物の断片を繋ぎ合わせて想像したものにしか過ぎなくて、「映像で残っているわけでもないのに、絶対と言えるのはなぜですか?」と逆に質問したくなります(笑)。

だからこそ、大河ドラマの脚本家の方々は、歴史研究者が見落としているかもしれない、当時の人びと一人ひとりの心情を、彼らに寄り添った視線で文献を読み解き、"歴史"とされるものを異なる角度から表現されているのだと思います。そして歴史家が語られる物語も、ドラマの脚本家が語られる物語も、それらが真実かどうかは、その時代を生きた人びとやご本人にしか分からないことだと思います。


直観は「与えられるもの」

というわけで、現代では山中教授のように純粋な思いで研究をされている科学者の方々だからこそ、「ひらめきは神から与えられるもの」と実体験を通して感じ、神さまの存在をあたりまえに認めておられるのだと思います。

現代だけでなく、過去の科学者の中でもはっきりと言葉にされているのが、ご存じアインシュタインですが、彼はこんな言葉も残されています。

「神は絶対にサイコロを振らない」

「物理法則に偶然はなく、全てが必然である」と定義されているのですが、勿論"物理"とはこの世界のあらゆる現象を指しますので、地球の科学界から発表された一部の事象だけにとどまらず、全ての事象に当てはまる言葉だということは皆さんも感じられていることと思います。

これ以外にも神を表現したアインシュタインのエピソードは数多いですが、それは単に特定の宗教を信仰していたからということではなく、「全ての事象が必然」ということはつまり、「神という絶対的な存在を認めなければ、この世界のあらゆる事象を説明することができない」ことを、彼は科学者であるが故に実感されていて、だから事実として神の存在を示し、その為、与えられた多くの直観の中で、多くの功績をこの世界に残されたのではないかと、私は思います。


日本の無神論

少し話はそれますが、日本の多くの方が「無神論者」だと言われていますが、これについて少し考える必要があるかと思います。

現代日本では「神」という言葉をすぐに「=宗教」→「宗教=悪」のように考えてしまう人が多いですが、そういった無神論は過去記事にも書きましたように第二次大戦後の教育の影響であり、それ以前は日本人の感覚や、ありふれた日々の暮らしの中に普通に"神さま"は存在していました。

現代でも、お正月や色々な節句、受験の時や、結婚された時などには神社にお参りし、色々と神さまにお願いをしている方も多いと思うのですが、それでいて「神はいない」と仰るのは、その方の中でどういう理屈になっているのかなと(笑)、まず疑問なのですが、無神論が社会の中でどういった影響を及ぼすのかを知って頂こうと思うと、以下のようなことが言えるのかなと思います。


まず、世界を見渡した時、神の存在を否定しているのは今や日本人だけと言っても過言ではない程、日本以外の国の方は当たり前に認めていらっしゃいます。

この日本人の中に蔓延る無神論を本気で信じてしまっている場合、現実問題としてトラブルの元となることもあるようです。

ちょうど先日見かけた記事では、「特に中東へ出かける際に気をつけなければならないこととして、現地で「私は無宗教だ」と言うと、権威主義国家などでは命を狙われるほど危険なので、仏教でも神道でもいいから信仰があることを表現しなければならないのだということを、現地のコーディネーターから忠告された」という内容でした。

まあそれはそれで問題ですが、キリスト教圏でもかなり過激な話を聞いたことがありますし、それ程に人びとは神の存在を大切に思われていて、そこまで暴力的なことが起きなくても、例えば日本人が海外の訪問先で「私は無神論者です」と言ってしまったなら、現地の方から軽蔑のまなざしで見られてしまいかねないことは簡単に想像ができます。

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次に、「いや神さまは、まあおられるよね」という方でも、日本の方で、それを声に出して人と話ができる方は少ないのではないかと思います。
そこがボーダーラインで、「会話には出せない=本当の意味で神さまの存在を信じられていない」ということなのではないかと思います。

日本の人びとは、ただでさえ思ったことをあまり口にしない傾向がありますが、そうなると「神という言葉を口にしてはいけない社会」のような風潮が出来てしまい、「本当に」信じている人からすれば、「いえそこがとても大切なことですよね・・」と思っていても、口にした途端、妙な雰囲気になって、悲しいことになってしまうと思うのです・・。

もうそろそろ、普通に会話できる社会になって欲しいと願います。

一方で、命が狙われてしまうほどの事態が発生してしまうのが現在の宗教のおそろしさでもあり、これは別の議論が必要になりますが、それは一旦置いておいて、海外の方の往来が益々盛んになっていく現代においても、世界のほぼすべての人が認めている神の存在を否定することは、現実的にも無理があるだろう思いますので、日本の方はその事実をもっと学ぶ必要があると思います。


そう考えると、ウクライナ侵攻が始まってからというもの、今「ロシアではプロパガンダによって国民が洗脳されている」と言われていますが、日本人も無神論を信じている方は、ある意味戦後教育の洗脳がまだ解けていない、ということかもしれないなあと思ってしまいます。

そんなことをあれこれ考えていたらこんな記事を見つけました。
"陰謀論"という言葉も登場していますが(笑)、私を含め昭和生まれ位の世代の方からすると、ある程度普通に認識している内容ですし、要するに、戦後日本に様々な規制がかけられてきたというのは事実だというお話しかと思いますので、お時間が許せばご参考程度にご覧ください。


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神の存在を認める必要があると思う理由は他にもあります。

一言で申し上げると、「人間が思い上がらないため」です。

"思い上がらない"というと、何だか厳しいイメージがあると思いますが、私はむしろ「ありがたい」言葉だと思っています。

例えば、言わずと知れたことですが、現在地球環境を破壊している原因は「人間活動」です。
どこまでも利便性を追求し、この世界に暮らす他の生物のことなど考えもせず、人間だけ、自分たちさえ良ければそれでいいと、勝手放題に活動し続けた結果です。

或いは、戦争や犯罪。
勿論それを起こした当事者が一番反省すべき人たちであり、彼らが「自分勝手に振舞っても許されると思い込んでいる」ことが問題です。

しかし一方で、そういった方々に対して「見て見ぬふりをして放置した」「彼らが道を踏み外す原因を作ってしまった」のは、他ならぬ私たちであるかもしれず、例えば、「学生時代にクラスのいじめがあっても見て見ぬふりをした」等、誰もが思い当たることが一つや二つはあるのではないかと思うのです。


最近あった事件でも、犯罪を犯した人の動機が「相手が自分を馬鹿にしていると思ったから」という、直接その人に関わったわけでもないのに、そう思われてしまった、ということが報道されていましたが、ここでいう「相手」の方が本当に悪かったのかどうかということは問題ではなく、そういった直接関わっていないにもかかわらず、人間の思いが表情や行動になり、やがて、例えば自然さえも破壊してしまうのは、「私たちの「思い」は直接的に関わることがない領域にまでも影響を与える」、つまり「全体が繋がっていて、連鎖している」からで、それは人と人との関係性においても同じことが言えると思うのです。

でなければ、人間社会にストレスや精神的な病気等は発生しないはず。
私たちは遠く離れていても影響を与えあっていて、それを切り離すことなど出来ないということだと思います。

だとすれば、戦争や犯罪といった問題さえも、火種ができる前の最初の段階で「困っている人に手を差し伸べましたか?」という視点において、私たち一人ひとりが「自分さえ良ければいいと思った」思いの連鎖があった。一つひとつの程度は小さくても、その思いが蓄積された結果なのではないかと、私は思うのです。


しかし、そうは言っても私たちだってそんなに強くはないです。そんなに周囲の人全てに朝から晩まで気を配っていたら体がもちません。
仕事が忙しければ、便利なものが欲しくなりますし、疲れたら楽もしたい、できればおいしいものが食べたいし、過度な競争社会を通って来られた方にとっては、働き詰めだった時代に他者のことを考えている時間がなかった・・。

そういうことは私も含め多くの方が経験して来られたことでもあると思いますし、集中して力を出す必要がある際には一時的に無理も必要な場合があるので、その全てを否定するものでは全くありません。

ただ、何事もやり過ぎてはいけないのだと思います。

この言葉、何度使ったか分かりませんが、「忙しい」とは「心を亡くす」と書きます。つまり、忙しすぎる日常を送っていると、人への気遣いや思いやり等、人として、また周囲の人と暮らす中で大切なことを見失ってしまうので、その結果、会社や家庭から拡大して社会全体に歪みが出来てしまう、ということです。

そしてその「やり過ぎてしまう原因」の一つが、利便性を始めとする欲を追求し過ぎることであり、その為に忙しさがエスカレートし、人のことなど考える暇はない、となり、その結果、「自分の欲を満たせれば、他はどうなってもしかたない」という思いが心のどこかに発生してしまうのですが、なんとそれは・・・、度合いが違えども、戦争や犯罪を犯す人の思考と同じものだということに気づかされてしまうのです。

もう何だか身も蓋もない話になってきましたが・・・^^;

しかし、そんな未熟な自分を、ついついやり過ぎてしまう自分を止めてくれるものが、この「思い上がらない」という言葉だと私は思っています。
だから「ありがたい」と思うのです。

やり過ぎてしまった結果、体や心や人間関係等を壊すこともあり、結局最後に苦しむのは自分自身となります。
それは、私だけでなく多くの皆さんも過去にきっと経験されてこられたことではないかと思います。自分のことは意外に分析できないものです。


この言葉は勿論他の方から教えて頂きました。
どんな方でも、忙しさのあまり、自分を抑えられなかったり、調子に乗ったり、振り上げたこぶしを下ろせなくなったりなどして、その結果最終的に、自分自身が苦しい思いをされたことが一度や二度はあるはずです。

しかしこの言葉は、辛辣で、心に突き刺さるからこそ、この言葉を胸に刻んでおけば、行き過ぎた時に自分を止められるのだと私は思います。

その「思い上がらない私」でいさせてもらえるのは、他でもない神さまの存在があるから。

「思い上がる」とは、「自分より偉いものはない」と慢心することでもありますが、どんなに自分が、例えば権力を持って、出世して、お金持ちになって、偏差値の高い学校に入った、時でも、「常に自分の上にはどこまでも上がいて、ましてや神を超えることなど出来ないのだ」ということを思えば、思い上がらずにすむと思うのです。

前述した「神さまを本当に信じている人が大切だと思うこと」は何だと思いますか?

「神さまへの感謝」です。

神さまの存在を本当に信じていて、そして神が創られた自然の中で生かされていることが、素晴らしいなあ、ありがたいなあと感じていれば、自然に感謝ができると思うのです。
つまり、「神を認めない」とは、「感謝が出来ていない」とも言えると思います。
感謝できない人がどうなるか・・、もう想像できますよね。


今世界全体で起きている数々の問題は、「人間が思い上がった」ことにより発生していると言っても過言ではないと私は思います。


そのことを今一度、胸に刻んで、ここからまた変わっていける私たち人類になれたらいいのではないかと思います。

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以前NHKの番組で、九州の高千穂で暮らす方々が、朝夕に必ずお日様に向かって手を合わせ、日々の暮らしに感謝の祈りを捧げる姿が映し出されていて感動しましたが、高千穂以外にも、日本でいうところの神話の時代を語り継ぐ地域の方々からすれば、神を「何かのために信じる」などという発想がそもそもないと思いますし、私自身も幼少より自然に信じていますので、こんなにあれこれ理由をつける必要もないといえばないのですが、現代の日本には依然として無神論の方が多いそうなので、島国と言えど流石に、どんどん他国の方が往来される時代に、こんなことでは色々な意味で危険なのではないかと感じ、今回の記事の主題に入る前にまず、「神さまは確かにおられますよ」ということをお伝えさせて頂こうと思いました。

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