【デザインの現場】デザインを見るということについて
最近、専門学校で講師ができるお話をお聞きしたりして ― お話を頂けただけでも嬉しかったのですが、曲がりなりにもデザインを生業にして20年が経ちそうでして、感じてきたことや技術・知識をお役立てしていただけるように形にしていきたいと考えています。
その前に、どうしても書いてみたい、まとめてみたいことをダダーっと書いてみます。それは、日本人がデザインを見るときの「クセ・思考の方向性」です。
◎日本人がデザインを見るときの「クセ・思考の方向性」
例えば、わたしが嬉しそうに馬鹿面でパッケージデザインを友人・知人などにお見せして反応を見てきて気付いたこと、それは
もしくは、
ということです。
勿論感受性は人それぞれでまったく問題はなく、ここで強調しておきたいのは「感受性が高い人が優秀」という基準で物を言いたい訳ではありません。デザイナーとしては、単純に「なんと反応が小さいことだろう」と思うということです。
わたしの作品に魅力が少ないとなれば申し訳ないですが、デパートなんかの素晴らしいパッケージデザインを見せてもなんだか反応が鈍い場合が多い訳です。見る場合に何か身構えているような雰囲気を感じるということです。
これ次の発言が物語っているのですが、ある知人の発言です。
この発言、わたしはデザインについて気兼ねなくなんでも(「この色嫌いやわ!」でもよい訳です)感想をくれたらそれでよかったのですが、見せられた友人は「評価する、評論する」ことを求められているような気分になり、その専門的(デザインという専門分野)な見方を知らない自分はどう感想を言えばよいかわからない、という方向に思考がいきます。
多分これが日本人のデザインを見せられたときの、どちらかと云えばきちんと義務教育や家庭教育を受けた方の反応であるような気がします。周りの基準を大変気にしてそこからはみ出ないようにする義務教育で「賢い回答」「模範解答(もしくはその周辺)」を求められ続けて、自分の意見や感じていることを言葉にする機会をなくしていき、段々とそういった自分から出る感想を押し込めた結果、このような事態が起きているように感じています。
こういったことから端からデザイン・アートに意見言うのは『めんどくさい』と思っているような方もいるようです。だから「黙っている」ということを選ぶ人が多いのかもしれません。
なんだか悲しいですが、だから日本人から素直な感想を聞くのは難しいです。
そうなると(専門家じゃないから別によいのですが)デザインでもアートでも自分の好みや視点を「言語化してまとめる」ような機会がないので、なんだか表現力に欠け、役所の人も医師もタクシー運転手さんも、みんな「なんかいいじゃん」「キレイやな」といった感じで感想はおわります。
だからかはわからないですが、デザインは勿論アートや写真・絵画などの活発な発言を聞く機会が少ない、それが義務教育の弊害のようにこの国の人たちに蔓延したデザインからアート・芸術への視点のクセのように思います(大げさでしょうかね)
質問者がわたしであることもあるかもですが、そういった傾向は大小の差はあれ、そのような思考の方向性をとても感じます。
でも、外国の方が正しいとか日本のそういった思考がすべて悪いと言いたい訳ではないです。日本も外国も同じように問題を抱えているから、全然海外の方がいいじゃん、とか思いません。周りを気にする視点のなかで日本人の繊細な「センス」は育まれているのも事実だと思います。
ちょっとまとまり切らないですが、そんなことを思っているデザイナーの方は多いはずと勝手に決めつけて書いてみました。
で、デザイナーやその周辺の分野の方々は好きで美術館やアートを観て楽しんでいるのですが、我々がしていることは『視点』の解放やその純度を高めているような感じはあるんじゃないでしょうか。でもこの話は長くなりそうなので、この辺で。
◎肩書とブランド
そして、そういった「まともな評価(分析)を期待されている」という方向の思考のなかで、このデザインはデザイン賞を取っているということになると、大変安心感があるようです。『賞』や『ブランド』の肩書が好きなのは全世界的にそうなんだとは思うのですが、日本人はより顕著なような気はします。
わたしもブランド品の安心感に頼って洋服などを購入することが多いですし、一概にこれが『悪』とは思っていませんが、自分の目というものを信用していないような傾向は、かなしいような気もいたします。そして、そんなわたしもデザインのブランド力を付けなければ、と考えている訳です(むむむ)。
* *
◎結論
最終的に何が申し上げたいかと云いますと、
というなんだか模範解答のようなお願いごとでございました。
今日はデザインを見る視点のお話でした。
ありがとうございました。