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脳内旅行、ワシントン、硫黄島記念碑編

カナダのハリファックスから始まった脳内旅の最終目的地になります。北米の夏の爽やかな気候を思いつつ、一緒に頭の中でワシントンの街を歩いていきましょう。そして、硫黄島記念碑を見る事により、僕らが忘れかけていた大切な物を一緒に考えましょう。

では時計の針を2011年の夏に戻します。

現在、ワシントンD.C.のナショナルエアポートで、バンクーバーへの帰路の飛行機を待っています。(7月12日 午前10時 ワシントン時間)ニューヨークからの移動はバスで4時間半を要しました。

アメリカ東部の主要都市ボストン、ニューヨーク、ワシントンD.C.はほぼ均一な距離で結ぶ事が出来ます。そしてここは、アメリカの首都。政の中心地になります。カナダのオタワ同様、人で賑わうというより、政治の為の街なので落ち着いた雰囲気です。

経済はニューヨークに任せてこっちで政治的作戦を練るというイメージですね。(カナダはトロントが経済の中心地でした。)
ホワイトハウス、国会議事堂、各省庁、国立墓地、国立ミュージアム等、主立った施設が市内の中心地に固められている。首都ならではの光景です。

中でも、僕が印象深かったのは海兵隊記念碑(硫黄島記念碑)です。現場に立った時、言い表す事の出来ない気持ちにさせられました。

硫黄島(東京都、いおうとう)は太平洋戦争の激戦の一つで、初めて日本の純な領土内での戦いがあった場所です。戦争末期、グアム、サイパンまでテリトリーを広げた連合国軍が次の目標においたのが日本本土への攻撃。

地図を見てもらえれば分かると思いますが、グアムやサイパンから東京に向けて直線を引くと、ほぼ、中間地点に硫黄島があります。連合国軍がここを手にする事は、日本本土への攻撃を優位に進める事を意味します。ここで燃料の補給を可能にする事により、それまでの燃料消費の4分の1で日本本土に到達が出来る。その為に、この地での戦いが、過去に例が無いくらいに激しいものになったんです。

僕がその記念碑を訪れた日は、日曜日ということもあってか観光客で賑わいを見せていました。数年前、イーストクリントウッドの映画で、この島の戦いが日米でフォーカスされた。一つはアメリカ側の兵士の話として、そしてもう一つが日本側の兵士の話として。僕は恥ずかしながら、ここの島で起こった事を最近まで知らなかった。その映画が上映された当時にも触れる事はありませんでした。

記念碑の周りにいた、アメリカ人の一人に訊きました。

『この戦いは、アメリカで一番大きな戦いの一つなのか?』

その人は答えた。『そうだ。全てのアメリカ人が知っているよ。』

僕は不思議なくらいそのアメリカ人が爽やかに思えました。

これだけなら、まだ、僕も、『国の差』だから仕方が無いと思えます。

僕がこの島の事を知ったのは、青山繁晴さんの話を聞いてからです。ここで亡くなった方に対する対応が日米で差があるんです。戦に負けた後、連合国軍は、多くの日本兵の亡骸の上にアスファルトを流し込み本土攻撃の為の滑走路を造りました。

その後、戦争が終わり島が日本に返還された。アメリカはこの戦いで亡くなられた多くの兵士の亡骸を、最終的に本土にまで持ち帰り国民を守った勇敢な兵士として国民に伝えました。

日本は、戦争当時、使用されていた滑走路を『便利だから』という理由でそのまま自衛隊の滑走路として利用し続けています。それだけ周りが見えなくなるくらいに敗戦から立ち直ることが大変なことだったのも理解出来なくはありませんが、それが現在にも状況が変わらないのは僕には残念にも思えます。

だから、まだ硫黄島で戦われた多くの日本兵の亡骸が本土に帰還出来ていないのです。要するに、死ぬ思いで、実際に命を掛けて、一日でも長く硫黄島での戦いを長引かせ、女性や子どものいる本土への攻撃を遅らせようと戦い抜いた魂のことよりも、『便利さ』を優先したのです。

そして、それを戦後の教育は、国民に伝える事をしていない。その証拠が、硫黄島は現在も一般人が立ち入る事が出来ないのです。そして、今、僕らの国はお金の面では豊かになったかもしれませんが、親が子を殺め、多くの国民が苦しみ抜いた上に自分の命を殺める。大事な物を忘れてしまったように思います。こんな国にする為に、当時の兵士の方々は死んでいったのでは無いと思うのです。

だから、僕は、忘れていた大切な物をもう一度考え直す為に、戦争があった現場を僕らが確認出来るようにしなければならないと思う。これが明日の日本に繋がると思います。

当時、何があったのか、なぜ、そうなったのかをもっと、まっすぐ教えるべきだと思う。

『戦争は悪』という単純な思考で停止するのでは無く、なぜ、その道を歩まなければなかったのか。またその後、日本はどういう道をあゆんだのかを教えなくてはならないと思う。

記念碑の現場を踏んで感じた、言い表す事の出来なかった気持ちは、きちんと、アメリカ人が自分たちの上の世代の思いを認識をしていることへの『羨ましい』気持ちだったようです。

あの場で、立ち尽くす事しか出来なかったのが、今の僕であり、ひょっとすると、今の日本人の姿なのかもしれない。

そして、もう一つ感じた事。硫黄島記念碑は大きい。

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一周するだけでも、見た感じ数十人くらいの大人が手をつないでやっとのくらい。その周りに、アメリカが今まで経験してきた戦争の名が一周するくらいに多く刻まれていた。

アメリカ建国当時の物から、現在に至るまで。

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アメリカが外交関係では、徹底的に自国の国益を優先する国である事は忘れてはいけません。それがむしろ当たり前の国の姿です。今回のワシントンD.C.に訪れる事が出来て、これらの違いについて感じる事が出来た。

現場を踏んだ人間として、僕が感じた事を、周りの人たちと考え合うことが出来れば幸いに思います。

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久保田牧土
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