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失敗と成功の詰まった一年半の物語 再編集版

普段の僕の投稿は主に子ども達のことを中心にしています。妻に大きな病気があってそれを克服したり、三人の子どもに恵まれ、その子に先天性の心疾患があることが分かり、結婚来、次々に遑無く訪れる日々の戦いを綴ることが多いのです。

先に触れた心疾患の三女を授かったことで、半年に渡りそれまで勤めていた会社を休養することを決断し、その日々が間もなく終わりを告げようとしておます。

敢えて一言で言えば、日々、仕事人として働くことを中断したからこそ、得られたこと達があります。

もちろん何より大きな喜びは家族との時間です。

それに加えて、自分の身体のメンテナスや家計の見直しなど、大きな時間を頂けたからこそ、出会えたこと達があります。

ふと思い出したことがあります。

10年以上前に、同じ様にキャリアをストップさせて、その当時なりに、必死になって物事に取り組んだ経験です。

前置きが長くなりましたが、今日は僕がワーホリから日本に帰ってきた時に、一年半のカナダでの生活を振り返った文章に手を入れて投稿します。

大人になってからのワーホリに行くことや海外生活、英語などに興味をお持ちの方、また過去に海外生活をされていた方などに読んでいただけたら嬉しく思います。今は難しいかもしれませんが、あなたにもその時は来ると信じます。

僕のワーホリ生活の最後は日本にいる家族とのお別れを迎えますが、どうやって英語への意識を維持したのかの、参考になれば幸いです。

(また趣旨は異なりますが、読んで頂きたい期待を込めて、三女に纏わるマガジンに追加致します。)


カナダ滞在は2011年4月〜2012年10月です。この文章は帰国後の、2012年年末から翌年始に掛けて書いたものです。あくまで当時はこうだったと言うことを踏まえてご覧下さい。

カナダでの生活を振り返る

前の仕事から離れて丁度、2年が経ちました。そして、今、再就活を始めてます(当時)。いい巡り合わせがあるまで、焦らずに行きたいと思います。

カナダに住んできました。
震災が起こって間もない2011月4月1日から2012年10月8日まで。とても一言では表現出来ない時間でしたが、あえて言うなら本当に充実した時間でした。

理由は夢です。違う物を知りたかった。英語はその為のツールであって。

日本を離れる

まず、成田から飛行機で8時間半。そんな長時間飛行に乗る事なんてそれまでに無かったし、エアーカナダのアテンダントの接客のフランクさに、徐々に違う国に行く感覚を知りました。
バンクーバーに着いた後、税関を通るのも必死です。義務教育と少しの海外旅行で得た英語が通じる確信なんてなかったので、バタバタしていました。日本人の代理店さんとの待ち合わせのロビーまで、一緒の飛行機になった同期の子と慌ててたような••。

カナダに到着

車に載せてもらって一時的に生活するシェアハウスまでの移動。空はどんより、時差ぼけで眠い、でも異国に居る、なんだか新しい物ばかりで頭が混乱していました。

2週間、同じ時期に来た子たちと生活を共にしたんですが、それも今思うといい経験でした。年もバラバラ、男も女も交じって。料理食べさせてもらったり、シャワーの順番争ったり、なんか、楽しかったです。またシェアハウスとか住んでもいいかなぁなんて思います。

ESLが始まる

学校が始まりました。もちろん全部英語。どれだけ、甘いもの食べても足りないくらいしんどいものでした(笑)先生の指示が分からなかったので、周りの様子を伺いながらの日々です。知っている単語を並べて伝えようと必死でした。今思うとカナディアンの先生も、モチベーションを落とさない為に、必死でこちらの意図を理解しようと歩み寄ってくれていたと思います。だから通じていたつもりでいた。

夏のバックパッカー

2011年6月、北米の夏は格別に気持ちのいい気候です。その夏の間に旅行に出たかったんで、バックパッカーしてきました。カナダの東部とアメリカの東部の街を。

5週間、どの場所も初めてで、自分が今までしてきた事とか、自分が何者か分からなくなるくらい、贅沢な時間でした。英語は相変わらず、体当たり的な部分が大きかったけど、現地でおばあちゃんみたいな人と行動を共にしたり、仕事で来てる諸国の人と話も出来きました。仕事しながらでも長期の休みで、バックパッカーしている同世代の人とか。コミュニケーション出来てる事が嬉しかったのです。そこでしか出来ない事ですよね。

次のステップに繋がる出会い

その中で、英語うまいな~って日本人の人にあって、その人のルーツを聞けた事が次に繋がりました。やはり、人生、出会いが大切ですね。

で、バンクーバーに戻って、旅の中で紹介してもらった英語の先生の門を叩きました。そこがもう、目から鱗な空間でした。そこには英語習得への希望がありました。

基礎の英文法を学び直す

トライアルで英語の整理の仕方を教えてもらえるなと感じました。『僕はこの時計に10㌦払いました』を英語で言うと『I payed $10 for this watch.』って発想。
辞書で調べて丸覚えじゃなくて、『for』は前後の『$10』と『this watch』を交換するイメージで考えればいい!と。それ以降、すっと頭にイメージが入ってくるようになりました。

TOEIC400点台からのスタート

僕にとって指針の一つになったのがTOEICの点数でした。数字が全てじゃないにしても、何かの目標が無いと続けられないので、900点取って帰国しようと決めました。日本に帰っても英語続けられる資格という感覚もあっての事です。カナダに渡って初めてが410点だったので
本当に長いレースの始まりでした。

基礎を固める為の日々

しんどかった。朝から晩まで、英語読んで単語叩き込んで日本語訳とって英作文して。『なんで俺、カナダ居るのに日本語で授業受けてるんだろう。カナダにいるんだからもっと、英語環境にしないと!』という、葛藤もありましたが、先生のおっしゃる事を理解する事の大変さが上回っていました。

朝8時のバスに乗って21時のバスで帰って。帰りはいつも、頭がもう動かない状態です。それでも、紆余曲折ありながら続けたので、徐々に変化が起こりました。少しずつ新聞が読めるようになったり、現地のニュースが理解出来るようになり始めたのです。

好きという感情の芽生

基礎を固めるのと比例して英語を好きになり始めました。学校で習った表現が、日常に出て来る、出てくる。街にある広告や新聞に目がいくようになりました。そうなると街中がテキストブックですよ。仕様を知り尽くしたipadをネタに英会話の為に、わざとお店に入ったり。

理解し始めると、アレルギーも薄くなるものですね。4ヶ月程したら、点数が840にまで伸びていた。東北の地震を気遣ってくれる人もいたし、逆にもろに人種差別的な言葉を履いてくる人もいました。全部ひっくるめて、現地での勉強ですね。

ビジネスカレッジで眠れない日々を過ごす

そこから少し違う事をしました。なかなか点数が延びなかった状況で、より実践的な英語の場所に身を置きたいのと、より自分を表現する力を得る為に、ビジネスカレッジ入学する事にしました。実際TOEICだけだと『聞く』『読む』だけの力だから、仕事で使うには少し違う勉強した方が得策かなって事で。結果、英語の力のアップとTOEICにも繋がる事に期待して。

そこからの半年間、別の大変さがあった。月に2単位、計12科目のグループワークがあって、その殆どの終盤でプレゼンがありました。TOEICで840取っていた自分だけど、カナディアンの先生の授業のスピードについていく事が出来ませんでした。全然ポイントが掴めなかったのです。
周りの子達はちゃんと英語を学んできた子達が多く、次元が違うように思いました。とんでもない場所に来てしまったな••って感覚。

英語ができないのもそうだし、自信を持って、何かを出来ないのが嫌でした。本当、周りに支えてもらったなって気持ちです。日本人の友だちも年下の子達が多くて、最初は色々気にもしたりしたけど、やっていくうちに上手くやっていけるようになったと思います。韓国、インド、カナダ、インドネシア、ベトナム、ブラジル、フランス、メキシコ。いろんな国の生徒さんが集まっていたのですが、本当にいい関係でいられるには最終的には人間性が大事だと思います。ちゃんと意見を聞けて、負担もシェア出来て。

英語を英語で考えられる感覚を得る

2012年8月、卒業の月、マーケットプラン、ばたばたしたけどチームメイトに恵まれていい物を造る事が出来ました。時間をどうしても作ることができなくてリハーサル無しで本番を迎えたけれど、大きな練習無く頭の中にあったイメージを、英語に出来るようになってた。あれは大きな進歩でした。カナダに渡って1年と4ヶ月です。

ワーホリの総仕上げ、TOIEC900を目指して

2012年8月にビジネスカレッジを卒業して、そこからもう一回TOEICに集中して900点取って、家族呼んで旅行しながら10月くらいに帰国しようと考えてました。

もう一回、僕に英語を教えてくれた先生の門を叩いたんですが、僕のビジネスカレッジでの半年間は間違いじゃなかったんでしょう。以前に苦労してた課題を卒なくこなす事が出来たし、聞きたい事を自分の英語でカナディアンのボキャ担当の先生にぶつけられたし。やっと I am able to communicate in English.までたどり着いたんでしょう。本当に、長かった、世界が変わっていた。英語は時間掛かるよ。でも、ちゃんとやれば、それなりに身に付くよ。

まさかの緊急帰国

ここからが大変で。

2012年9月1日、後一週間後に試験がある土曜日の夜、日本の姉から緊急で連絡があって。
『あと、お父さん、2ヶ月もつかどうか分からない。すぐに戻ってきて』と。
あ~ついに、その時が来たかと。元々肝臓が悪くて、入退院の繰り返しだったけど、ついに。翌日の飛行機に空きがあったので、迷い無くチケットを押さえ日曜日の昼間の飛行機で緊急帰国。

約1年半離れていた祖国、トイレが奇麗、空港のスタッフの礼儀が正しい、違いに感動はあった。ただ気持ちは穏やかではない。

早く、会いたい。会いたい。ただそれだけ。

父との再会

病院で久々の再開。帰国した事を言っていなかったんで、エレベータが空いた瞬間、ほんと、驚いてた(笑)そりゃそうさ、一年半会ってなかった、急に仕事辞めてカナダ行くって言い出したバカ息子が、急に帰ってきやがったんだもん。

ただ、肝臓が悪かった祖父の末期と同じように肌が黄色くなっていた父を見て、そこで現実を感じました。余命宣告があった事は本人には告知せずだったんで、VISAの関係で一時帰国をしたって事にしての滞在でした。カナダで見たもの、旅行中に見たもの、シアトルでイチローを見た事、ほんと、それまで居なかった時間を埋めるように話題が次々と自然に口から出てきてた。まだ意識もハッキリしてたし、手すりを持ちながら自力で歩けていた。なんだか、安心がありました。

で、同時に考えたのはいつ、バンクーバーを本格的に離れるのか、つまりいつバンクーバーに戻るかを。最後大きな目標はTOEIC900をとる事。僕にとってそれは大きな目標です。日本に居る事で安心はありました。家族が居る、食べ物もおいしい、種類も豊富、サービスもすばらしい。ただ一つ、英語が無かった。それまで、ずっとあった英語環境がなかった。そんなもの、求める方がおかしい、でも僕はその時にはカナダに住んでいる人間だった。こんな時にって思われるかもしれないけど、安心感と同時にそれまで築いてきた物を壊す恐怖がありました。

最後の戦い

僕は1週間後にバンクーバーに戻った。9月末のTOEIC受けて、10月に帰国して会える事を祈って。
病室の親父に『またね』っと次に会える事を願って、空港に向かった。
バンクーバーに帰る事を決めた以上は、どこかで最悪の事は覚悟をしていました。これが最後かもしれないと。

感情が言葉に乗った

葛藤を持ちながらのバンクーバー、税関では、短期間に入出国を繰り返した僕に、職員からの尋問がスタートした。一年半前、バンクーバーに着いた時との違いは、『何を聞かれているのか』『自分がどう答えなきゃいけないのか』がクリアーになっていた事。精神的なしんどさ、時差ぼけなど、コンディション最悪の中で税関職員との戦いでした。

職員『なんでこんなに、頻繁に入出国を繰り返す?』
僕『家族に会いに帰っていた。親父が良くないんです』
職員『なぜ家族が大変な時に、またカナダにもどってくるんだ?それにお前はずっとカナダに居たのに、なんでまだ帰ってくるんだ?』
(かなり、厳しい状況でした。向こうにしても、変な人間を入れる訳にいかないですからね)
僕『ずっと、英語を勉強していて、やっと試験でいい点数がとれそうなんだ、それがあれば僕の次の道にも繋がります、その為に英語環境が必要なんです』

そんな事を喋っているうちに、日本で見てきた現実を思い出して、ちょろっと涙してしまいました。そしたら自然と、自分の口から
『I'm reminded of my father.』(父を思い出しました)
っと、出たんです。

厳しい状況だったけど、やっと自分の英語と感情がリンクした瞬間だったと思います。
語学はその環境に入らないと、延びないね。そういう事だね。
こんな状況だったけど、そこは心から嬉しかった。
最後には、職員に『英語、上手だね』っと言ってもらい、カナダに再入国を許可された。

長くいた街には英語力だけでなく、それだけの人間関係が育っていた

そこからは、精神的に不安定な日々が続きました。本当に自分の判断は正しかったのか。自問自答の日々。自分の事も責めたし。英語大事にし過ぎて、本当に大事な物を無くしてるんじゃないかって。考えても仕方ない事ばかり頭の中がグルグル。体はカナダ、心は日本にありました。覚悟をしたつもりだったけど、そんなものに覚悟するは無理だ。家族の事は無理だわ。

そんな時には友だちの支えですね。僕の精神状態を察して、みんなフォローしてくれました。長い時間過ごした街には、それと同じ分、仲間が居たんです。楽しい時よりむしろ、辛い時に居てくれる友だちに感謝。
『いろいろ、辛い事はあったけど、それを踏まえてここに戻ってきた事に誇りを』
それに気付かせてくれたのも友だちでした。

その発想を得た瞬間、自分でも不思議なくらい気持ちが楽になって、英語がもっと入ってくるようになりました。

初めて英語を愉しむことが出来た

2012年9月29日、試験本番は初めて200問全て回答が終わりました。分からなかった問題の数が7個くらいで。何よりも試験中に英語を愉しめた事に満足でした。長かった、いろいろあったけど、よくやったなって。

父との別れ

その翌週の10月4日、僕の帰国の5日前にそれを待たずに、父は旅立ちました。Skypeって凄いね。遠くに居ても、そんな形だったけれど、見送りに参加出来てよかった。
どう引っくり返しても各行事に間に合う事は出来なかったんで、僕が次に父にあったのは10月9日に帰国して自宅で写真とお花になった状態でした。

ほんと、最後の自分の英語の調子は信じられないくらいよかった。多分、何か関係あったのかしらね。

大きな結果を頂きました

10日5日、結果出ました。TOEIC950でした。よく頑張りました。ほんと、支えてくれたみんなに感謝です。ありがとう。

あれから、もう3ヶ月。
高校卒業以来10年以上、一緒に暮らしていなかった母との時間でした。ゆっくりさせてもらった。感謝感謝、ありがとう。

本当は、次の道が決まってから振り返るのがいいと思うけど、次は中途採用なんで、決まりそうになると一気に事が進み出しそうで、そうなるとゆっくり振り返る時間もなくなるんじゃないかと思ったんで、今日書く事にしました。

みんなにもいろいろあったよね。転職した友だち、結婚が決まった友だち、子どもが産まれた友だち、ほんとそれぞれの道へと。全部、嬉しく思った。こんなに長い間、留守にしていた僕と繋がっていてくれた事にね。本当に、ありがとう。

そして、カナダで出会った友だち、みんな、ほんと、ありがとう。
もし、あなたがいなければ、今の僕はないでしょう。

得た物と失った物の比較で、物事を評価しなさいって言葉を聞いた事があります。

僕は、留学、成功だったな。英語ってツールもそうだし、結果を出せたことも出す為にもがき苦しんだ過程も全て含めて。これから生きていく力の一つになっていると思う。新しい事を学ぶって事の尊さ。これからもそんなのの連続だよね。
もちろん支えてくれた家族にも、深い感謝です。
正直、お金も時間も掛かった。でもそんだけ、意味があったと思う。

ざ~っくりと振り返りましたが、こんな時間を過ごしていました。あなたにとってはどんな時間でしたか?また会った時にお互いの事、話しましょうね。

下手くそな、文章を最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます。

以上が振り返りです。

そんな僕もこの経験から五年後に冒頭記したことですがご縁を頂き、今では三女の父となり、人生折り返しとも言える年齢に差し掛かりました。

今までの経験をこうやって形にする事に、細やかながらの意味があることを願います。

またあなたに会える事を、楽しみにしています。

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同じ経験をされるかもしれない、これからのあなたにとって少しでも助けになればと思いながら僕の体験記を書いています。他方、この病気は困難が少なくないので、この記事達に辿り着く人が少なく済むのも嬉しい事です。

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