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チャーリー・パーカーと拒食症

(前回のあらすじ)
彼ことRen Yengchiは神の啓示により実家のピアノの前に導かれた。だがしかし、パワーコードしか知らない彼にとって、それはあまりにも過酷な楽器だったのである!

夏だったと思う。夜だった。蛍光灯を消した室内のラジオから流れたジャズ。たしかジャズの歴史を振り返るみたいな番組だった。序盤でいきなり奴は現れた。俺は驚愕した。こんな音楽は聴いたことがない、と。

もはや音楽ではなかったのかもしれない。ラジオを聴く習慣ができて、俺はこの世界のあらゆる音楽に触れた。だが奴の演奏はそれまでに聴いたどんな音楽とも違う。それまでに聴いたジャズはすべて、奴に比べれば子供だましに過ぎないだろう。

夜だった。営業時間をとっくに過ぎた真夜中のジャズクラブ。客はいない。店内に残っているのは焦点の定まらない目つきの薬物中毒者と、あきらかにまともな職業にはついていない黒服の男たちだった。

照明が落とされているので店内の奥に設けられた小さなステージは見えない。黒い影が動く。わずかな光にアルトサックスの筐体がほのかに照らされる。銃撃戦が始まったのかと思った。だがその音は目の前の黒い影と、ほのかに輝くアルトサックスから聞こえていることに遅れて気づく。

俺の目の前で、奴はこめかみに銃を突きつけられていた。黒服の男が奴の真横に立っていた。演奏を止めることは死を意味した。あるいは、男を満足させる演奏ができなければ。それでも奴は吹き続けている。黒い肌を青々と脈立たせて。

速かった。BPM自体が速いが体感速度はもっと速かった。そのくせ演奏にまったく乱れはなかった。俺も楽器を演奏するからわかるが、ただ必死で練習したからといってあのような演奏はできない。ましてや銃を突きつけられている。いつ破綻してもおかしくない速度だった。

俺のすぐ背後から怒号があがる。薬物中毒者の集団だ。罵声を浴びせているのか。いや違う。連中にとって奴の演奏はどんな薬物より脳髄に響く。

奴は首を激しく痙攣させ、汗みどろになって吹き続けている。俺には照らされた汗が血みたいに見えた。黒服の男たちがいない。薬物中毒者たちもいない。気づけば俺は自分の部屋にいた。

まだ俺は憶えている。あの夜、眼前で繰り広げられた惨劇を。

それは本当のジャズの姿だった。

その昔ロックは不良の音楽と呼ばれていたらしいが、それならジャズなんて悪人の音楽だ。悪魔の音楽と呼んでもいい。あのスピード感。緊張感。圧倒的な音の塊。カフェや居酒屋で流れているジャズと呼ばれる音楽は、本物の悪魔から悪意を根こそぎ抜き去った「うわずみ」に過ぎない。

、、、

彼はアルバイトで稼いだ金を手に楽器店を訪れた。

最初はテナーサックスに憧れていた。を例外とすれば彼の好むサックス奏者はみなテナーを吹いていたからだ。しかしいざ店頭で実物を見ると思いのほか大きいことに気づいた。彼の体格では扱いきれないのではないか。それに何といっても、彼にとってジャズとはチャーリー・パーカーに他ならない。あの夜、ラジオを聴かなければ、彼はこれほどまでにジャズという音楽にのめり込むことはなかっただろう。

何日か楽器店に通って、彼は結局アルトサックスを購入した。

音楽に興味のない人からは「サックスって簡単に吹けるものなの?」とよく訊かれるが、あんなもんだれでも吹ける。たしかにトランペットなどのマウスピースは音を鳴らすのにコツと練習が必要だが(ちょっと吹いていたからわかる)、サックスなどリード式マウスピースを設けた管楽器は、リードの厚みと質さえ奏者と相性が良ければ簡単に音は鳴る。

問題はその「音」である。

サックス演奏において「フラジオフレット」と呼ばれる奏法がある。キィの押さえ方などを工夫することで本来サックスの構造上は鳴らすことができないとされる超高音域を鳴らす技術である。

本来なら特殊奏法にあたるが、彼はデフォルトからして既にフラジオフレットである。要するにピギャーとかプフォーとかガチョーンいう音しか鳴らないのである。

もっとも彼はジャズの中でもジョン・ゾーンなど変態的なほうのジャズを好んで聴いていたので特に問題はなかった。

本当の問題はそこではない。

数時間前に遡る、、、

何日か楽器店に通って、彼は結局アルトサックスを購入した。

念願だったサックス手に入れて、喜んで店を出て、走って電車に乗って、さっそく家に帰って、自室に入って、ケース開けて、サックス組み立てて、ストラップつけて、首から下げて、筐体を支えて、両手指をキィに添えて、マウスピースくわえて、音を鳴ら首が折れそうになった

、、、

彼は今にして思うと大変に恵まれた環境で育てられたが、当時は心身ともに荒んだ生活を送っており、現在と比較してもひどく痩せていた。アルトサックスの重量ですら彼の身に余った。ましてやテナーサックスを購入していたら、彼は絶命していたに違いない。

だから彼が40代無職となった現在も毎日を楽しく暮らしているのは間違いなくチャーリー・パーカーのおかげである。

彼は生まれて初めて吹奏楽部の女子を尊敬した。あんなもの持ってよく演奏できるな、と。今でもたまにテナーサックスを持った女子⚪︎学生を見かけるが、いったいどういう身体をしているのかと彼はいつも喰い入るように凝視している。断じて性的な意味ではない。

(つづく)


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