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阿部薫そして尺八

(前回のあらすじ)
彼ことRen Yengchiは念願かなってアルトサックスを手に入れた。意気揚々と練習を開始するが、出す音がすべてフラジオフレットになってしまうという、貧相な体格のペーター・ブロッツェマンとでも呼ぶべき残念なサックス奏者が意図せずして誕生してしまうのである!

圧倒的なまでに身体的なハンディキャップを抱えていたものの、彼はサックス演奏に没頭した。ギターやピアノは小手先でも弾ける(←偏見)が、サックスなど管楽器は自分の身体全体を使って音を出す。それが彼には新鮮で、心地が良かった。相変わらず出す音の大半がフラジオフレットだったが、彼は気にせず吹き続けた。

かのオーネット・コールマンも若い頃はまったく周囲から理解されず、ひたすら自宅で吹いていたという。「くだらないことでも、3年くらい続けたら何かしら見えてくる世界がある」とはコールマンの名言だが、彼は会社員時代にゴルフの練習を3年くらい続けたが、見えてきたのは「ゴルフは紳士のスポーツ」と言われるわりに本当の紳士を一人も見たことがないという事実である。ただジャケットを着用したおっさんがはしゃいでいるだけである。

話がズレたが、彼はフリージャズに傾倒していた。アメリカ以上にヨーロッパと日本でマニアックなフリージャズが流行していた事実も知った。

だから阿部薫も名前だけは知っていた。20代で急逝した伝説のアルトサックス奏者として。

CDショップに1枚だけ置いてあったアルバムは「木曜日の夜」と題されていた。家に帰って聴いた。ライブ音源らしい。10秒間ほどの静寂とざわめきの中から唐突に刃物で斬りつけるかのようなサックスの音が響く。心臓が止まりそうになった。この1音だけで空気が変わった。

無伴奏サックスソロという形式の音楽はもちろん知っていた。他のサックス奏者の演奏も既に聴いていた。でも阿部薫は、何かが決定的に違う。哀しかった。どしゃぶりの雨の中で泣き叫んでいるようだった。

孤独だった。一人で演奏しているからじゃない。演奏後の拍手の音から、少なくとも10人くらいは客席にいることがわかる。でも10人のうちだれも、目の前の演奏を理解していないんじゃないか。というより、ついていけてないんじゃないか。阿部薫だけが一人で叫んでいた。

ただのフリージャズだと思っていた。ジャズではなかった。音楽ですらなかった。楽器を演奏するという行為があるだけだった。演奏ですらなかったかもしれない。だれからも理解されない男が叫んでいるだけだった。

エモーショナルな演奏という言葉がある。感情を込めて演奏していると語るミュージシャンがいる。ずっと僕には信用できなかった。

いくら感情を込めたところで、楽器の音に奏者の感情が現れるわけがない。幻想に過ぎない。演奏という行為は、どこまでいっても行為でしかない。

僕はどうしたらいいのか。

既存の音楽をただ踏襲するだけの音楽家を、僕は軽蔑していた。その人にしかできない、オリジナルな表現を望んでいた。

この頃には既に楽譜に書かれた音楽をただ演奏するだけの音楽に飽いていた。本物の即興演奏には、その奏者のすべてが現れる。聴いてきた音楽。練習してきたフレーズ。楽器の演奏技術も含めて奏者の実力は10分もあれば露呈する。もし事前に用意したフレーズがあったとしても、早々に枯渇するだろう。そこから本当の演奏が、表現が始まる。

この楽器を使って、何が表現できるというのか。

そのことを考えた。阿部薫には敵わないと思った。負けたという意味じゃなくて、同じことをやっても意味がないと思った。この演奏に匹敵する表現がどこにあるのかと思った。

阿部薫はアルトサックス以外にも様々な楽器を使って演奏していたが、そのひとつに尺八があった。ただしクラリネットのマウスピースとリードを尺八の唄口に強引にテープで巻きつけた代物だったらしい。

そうか尺八か、と思った。尺八で阿部薫のような、刃物のように鋭いアルトサックスの響きは出せないだろう。でも、だからこそ、阿部薫では到達できなかった何かに、何か、表現のようなものに、近づけないだろうか。

こうして彼は尺八を手に入れることを決意したが、ひとつ問題がある。楽器店に尺八が置いていないのである。当時は日本に住んでいたのに。

現在でこそ中国製の安価な尺八であればamazonでも買えるが、当時の日本で尺八を手に入れたいと思ったら、どこかにあるはずの和楽器専門店を探すか、地方都市のカルチャーセンターの邦楽教室に相談するか、尺八の工房を訪ねるかの3択だっただろう。

彼は無知で無恥な若者だったので深く考えもせずに3つ目の手段を選んだが、これに関して詳述することは控える。

手に入れたばかりの尺八を構えて、唇に近づけて息を吹き込むと掠れた音が鳴り響いた。

音楽に興味のない人からは「尺八って独学で吹けるものなの?」とよく訊かれるが、あんなもんだれでも吹ける。たしかに尺八は難しい楽器だと言われているが、実のところ「尺八とは、長期におよぶ鍛錬と精神修行の果てにようやく鳴らすことのできる、非常に奥深い道なのである」というイメージを世間に広めて自身の社会的地位を高めようと画策する一部の邦楽家が流布した誤情報に過ぎない。

音が鳴った。彼にはそれで充分だった。

あとはこの音で、どのような表現をするか。

彼はフリーインプロヴィゼーションの世界に尺八奏者として飛び込むことを決意した。

、、、

しかし、、、

、、、

その先は、ただの現実だった。

、、、

ここから先に記述を進めるのは御免こうむりたい。

、、、

彼にはこれ以降の記憶がないからだ。

、、、

というより、、、

、、、

断片的な記憶を、、、

、、、

断片的な記憶を、彼はいまだ言葉にできずにいる。

、、、

ただ、、、

、、、

ただ、才能がない人間が、自分に才能がないことを最悪な形で思い知らされたら、どうなってしまうのか、とだけ、、、

、、、

音楽に人生のすべてを懸けていた人間が、自分の音楽を最悪な形で否定されたら、どうなってしまうのか、とだけ、、、

、、、

修羅が待っていた。

(つづく)



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