脳と意識と悪習と
「脳」とか「意識」というものが一体何なのかという話を考えてみます。
自分はべつに研究者でもないし、資料など読み漁っているわけでもないので詳しくは知らないし知識などは多分間違いだらけなんですが。大雑把に考えるだけなら自由です。
脳というものは生物が世代交代による遺伝子適応では間に合わない状況や環境に適応するために発達したのでは、という話はすごく納得できます。確かにそれはそうだ、生き物が厳しい環境でちんたらやってたらすぐ絶滅してしまう。
そして意識。色々考えているはずの自分。興味がある人ならば聞いたことはあるでしょうが、人間の意識というものは全くよく分からないものだと。これだけ色んなテクノロジーが進んで色んな研究をされても結局よく分かっていないと言われている。なぜそんなものが必要なのか、何処にあるのか。考えてもいまいち分からない。
もう少し追っていくと、意識ができることは「拒否」だけ。という話が出てきます。詳しくは知りませんが、人が何かをしようと意識するコンマ何秒前には既に脳の電気信号が出ているということが実験で分かっているということで。単純に言うと意識が「行こう」と思う前に、脳が「行け」と命令しているという話。
ただ意識は脳からの命令を止めることができると。つまり意識ができることは「拒否」だけだという話になってくるらしいんですよね。それで人間に自由意志など存在しない、とか随分ややこしい話になっていくわけです。
まぁそんなことを晩御飯にうどんを茹でながらふと考えてたんですが。
自分なりに解釈してみると、これは単純に「拒否」というよりは「改善案」ではないのか?と。なぜ脳が「行け」と言ったシグナルを拒否するのか?と考えると意識は止めた方がいいと予想したからのはずです。目の前の道が危ないとか様々な状況を分析して、脳は「行け」と言っていても意識は「いやここは危険なので行かない方がいい」と判断して止める。
そもそも脳が状況や環境に適応するために発達したと考えると、当然より良い方法、つまり生存する可能性が高い方を選ぶようにしなければならない。そのより良い方法を選ぶために意識という不思議なものを用意する必要があったのではないか?と考えるとごく自然の流れではないかと思えてくるのです。単なる脳の反応では量れないものを量る必要がある。
そしてなぜ我々の意識が死ぬほど苦しんでいるかというと、生存する可能性が高い方ではなく、おかしな方向に文明社会というものから強制的に向かわせられているからではないかと思うわけです。
少し話を変えると、個人的には人類の歴史は悪習と改善の連続なのではないかと思っているわけですが。
人類の歴史というやつは突然全く新しくて良いものを思いついて作ってきたというよりは、不便を解消するために物を発明してきたとか、悪いことがどんどん悪化してストッパーをかけたとかそういう面が強いと思うんです。
例えば土器とか石器というものは「この方が便利だよね」って物であって、生活に無関係な物が突然作られたわけではないでしょう。水を飲んだり使うのにいちいち水場まで行って手で汲んでいたのではあまりにも効率が悪いし貯めて保存もできない。周囲のやっている通りに、もっと原始的に産まれたままに教わったままにやっていくつもりだったならばいつまでもそういうものは作られなかったはず。
もう少し近代で言えば、八時間労働制なんて元々一日十数時間以上の地獄のような奴隷労働をちょっと減らしたら少し改善したね、くらいの悪習の名残なわけです。別にある日突然八時間労働って素晴らしい!と思いついて始まったわけではない。
もう少し身近に考えてみても、社会では上の世代からただ教えられたままに、ただ周りに合わせているだけで続いている謎の行動は多いのではないかと。それひょっとして悪習ではないですか?とは強く言っておきたい。ちなみに個人的にはそういう悪習はなるべく人に伝えないように努力している。
と色々考えてみるとつまり人間の文明社会というやつは正に脳と意識で作られてきた世界なのではないか?と思えてくるのです。人間の脳が出してくるただやれという命令。それがそのまま通ったものと拒否をした改善案が今現在の社会であるし、同時にそれは悪習の名残であるし現在進行形の悪習である。
となれば人間ができることはただひたすらに続いている悪習を拒否して改善していくことなのではないかと思うわけです。なぜならそれが人間一人一人が持っている意識の役目だから。