夢と怒り_210806
退院した辺りから、夢の中で夢と気付かず意思を持つようになってきた。僕が本当に取りそうな言動を取るのでおもしろい。明晰夢ではない。
昨晩は夢の中で怒っていた。理屈が通じない相手に喧嘩を売ったら相手がヤクザで、それでも恫喝し続けたらナイフで切られたり刺されたりした。不思議と少しだけ痛かった。別な相手には明らかに無礼な態度を取られて家やコンビニの中をめちゃくちゃに荒らしまくった。暴れっぷりがひどいものだから通報されて警察に取り押さえられそうになるが、こちらは正当な理由があって暴れているので警告に聞く耳を持たず、警察の顔面に鉄拳をお見舞いした。アクションやクライム映画の観過ぎだろうか、僕は夢の中では喧嘩がめっぽう強かった。怒り狂ったまま目を覚ましたら軋むくらいiPhoneを握りしめていた。夢は本当におもしろい。
以前僕の音楽活動の先輩に「俺もお前も創作の根源には怒りがある。怒りのエネルギーでプロダクトを作っている」と言われた。プロの見通しだから恐らく全くの的外れではないと思う。他人、しかも能力がある人からの分析はとてもありがたい。音楽活動に結合されているかはともかく、確かに僕はほとんどいつも何かに怒っている。基本的に幸せに生きたいし怒っていないときもある。また特定個人に対して怒りが湧くことはほぼない。罪を憎んで人を憎まずの姿勢だ。けれど世の中にはその"罪"が多すぎる。"罪"を認識していながらストラクチャやシステムを改善しようとしないとき僕は"人"に対して怒る。もちろんその背景にもまた別な"罪"が隠されている事実は認識している。でもいつかは"人"を指導しなければいけない。"罪"は多くの場合自然に解消されないから、問題解決のためにはどこかで"人"の意志を必要とする。だから段階を見極めて、これ以上は後退できないなと感じたときに"人"に怒る。
とは言え"罪"を辿っていくと往々にして僕が直接怒れない"人"や"罪"に行き着いてしまう。その時僕は世界に絶望してSNSや作品で怒りを表現する。やり場のない、やりきれない想いを不特定多数に発信する。僕には総合的人類が愚かなのか一人ひとりが別なベクトルで愚かなのかその複合なのか判別がつかない。「愚かレベル10」と「愚かレベル1+1+1+1+1+1+1+1+1+1」は明確に違う。後者の全ての「1」にはそれぞれ違うメタタグがついている。帝王学や群集心理という概念があるから、恐らく世の中の愚かさは上記2つの複合型なのだと思う。僕がどう転んだって手はつけられない。だから今日も独り世の中の愚かさに怒っている。僕も誰かに愚かだと思われていることだろう。どちらが正しいのか誰にも証明はできない。
もっとシンプルな世界に生きたかったな。
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