ベランダから見る一般家庭の風景とリベンジ
キッチンの灯りが点く。ベランダで夜風を吸っていると車やバイクの排気音に混じって家庭の営みが始まる。僕はそれを遠い世界の出来事のように眺めている。普通だ。それは僕が子供と呼ばれる時分に居た空間だ。大学へ進学すると共にそれは著しく失われていったけれども、郷愁を追体験するには十分な灯りだった。あの頃の家庭像は令和の時代にそぐわないのかもしれない。それでも変わらないものがあるような気がする。
僕は所謂温かい家庭を築くことを目指して生きてはいなかった。そもそも温かい家庭を知らない。親族が、僕が大人になるまで隠し通していたいろんな秘密も、大人になった僕を驚かせるには至らなかった。無論脅かすつもりで内密にしていたのではないのは解っている。理想とされる家庭像が極々一部の人々の中でしか成就されないのは今更言うまでもない。人間同士の生業だ。事件が起きない方が稀だろう。どこの家庭でも問題を抱えている。
僕は子供が好きだ。0歳からたぶん15歳くらいまでは好きだ。彼ら彼女らに待ち受けている未来を少しでも良いものにするためにあらゆるアドバイスを惜しまないだろう。レールを踏み外し、獣道をかき分けてきた僕だからこそできる助言があると思う。普段は世間を呪って生きている僕だけど、だからこそ伝えられる処世術がある。もし僕に子供がいたなら、その全てを与えるつもりだ。僕より巧く子供に接せられる大人は少ないだろう。その自信はある。
そしてその処世術は僕自身にも適応される。見てろよクソ世界め。僕はお前らの誰よりも幸せになってやる。悔しかったら僕に教えを乞うんだな。読むべき本くらいは教えてやろう。そうだ、そうやって笑っていろ。何十年後かに思い知るだろう。僕が正しかったってことをな。レールの外の走り方もちゃんと知っている。ダイバーシティがなんだ。みんな幸せになれ。
結局みんなで笑って死にたいんだ、僕は。
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