『ワンエグ』は自らを「関係性アニメ」だと偽っている
こんばんわ。深夜区トウカと申します。
前回の記事で「『ワンダーエッグ・プライオリティ(以下ワンエグ)』はアイの物語!」という話をしました。
(読まなくてもこの記事を読む分には全く問題ありません!)
その時に『ワンエグ』は最終話まではアネモネリア全員の物語に見えるなと思い、そこを掘り下げてみることにしました。
記事の性質上ネタバレがあるので注意してください。
前置き:関係性アニメの定義
まず、この記事で言うところの「関係性アニメ」が何なのか、はっきりさせておきましょう。
その意味はズバリ
「キャラクター同士の関係が変化し、それが物語の背骨となっているアニメ」
ということ。
典型例は恋愛ものです。二人のメインキャラクターがいてその関係が進展するというドラマを描いたもの。
他にも、スポ根なども関係性アニメと呼称していいでしょう。作品によりますが、スポーツそのものよりもスポーツによって変化する関係がメイン、と言う場合が多いと思います。
もちろん、日常アニメだってそうです。
『けいおん!』はバンドもの・音楽アニメという側面を持っていますが、あれは当然HTTの人間関係が背骨になっています。
このように、関係性アニメとは要素の一つであり、大体は他の要素とセットになっています。また、大体のアニメは関係性アニメ要素を持っています。
ですから、『ワンエグ』の持つアクション・SF・サイコホラーといった側面を否定せず、関係性アニメと呼ぶことができるのです。
ただし、私の意見では『ワンエグ』という作品は関係性アニメではありません。なぜなら、この作品の究極は主人公・アイの成長にあるからです。
そして、このアニメは最後まで自分のことを関係性アニメだと偽っていて、最後の最後、オチの部分で視聴者にこの物語がアイの成長譚であることを明かしたのです。
では、どのようにして『ワンエグ』は我々を関係性アニメだと誤認させたのでしょう?
要因その①:OP・EDからの伏線回収
その一つは、伏線回収です。ここではストーリーの大筋ではなく、OPやEDの画面で張られた(と思われる)伏線を作中で回収していく場面を見ていきます。
ケース1:ねいる、リカ、桃恵とすれ違うアイ
これはもはや言うまでもないことかも知れませんが、『ワンエグ』OPには未登場キャラクターとすれ違うアイの姿が描かれています。
ここで登場が示唆されているキャラクターと本編で出会っていく、というのはいかにも伏線回収的、そして関係性アニメ的です。
ケース2:ラーメンを食べるねいるとリカ
EDでラーメン屋を見つめているねいるですが、第10話で実際にリカとラーメンを食べにいくことが示唆されます。
これ、リカがEDで見てたのずっとラーメンだと思ってたんですがよくよく見たら普通にうどんとそばですね。カツ丼もあるし。論拠、崩れ落ちました。
が、それでも「麺類を食べたそうにしているねいる」と「リカと食べにいくことが示唆されている」ことは変わらないので許してください。
つまり、この二つのシーンで我々は
「ねいるが麺類を食べたそうにしているという伏線がリカと仲良くなる過程で回収されたのだなあ」
と思うわけです。
ケース3:ネイルをするアネモネリア
これもケース2と同じロジックです。
桃恵はEDでマニキュア等を眺めていて、第9話で実際にねいる宅でネイル会が実行されます。
これもEDで張った伏線を本編中、アネモネリアが仲良くなる過程として回収していることになるでしょう。
これらの伏線回収によって、我々はまんまと「このアニメは関係性アニメだ!」と思い込むことになるのです。
要因その②:エッグ世界と対比される「アイの救いによって構築される関係」
私たちを錯覚させた要因に、もう一つ心当たりがありました。それは、「エッグ世界と現実世界の両方でアイは救いの手を差し伸べている」ということ。
アイは、エッグ世界で何人もの人助けをします。しかし、エッグ世界ではその人を助けられても、すぐに別れが来てしまう。
そらに対して、現実世界では人助けをしても人は消えたりしません。そこから関係が構築されていきます。
アイは現実世界でねいる、リカ、桃恵を救うシーンが存在します。
そこで我々受け取り手は
「エッグ世界では助けた人は消えちゃうけど、そこと対比になっている現実世界では消えないし関係が残るんだなあ」
と勝手な対比関係を生み出し、アネモネリアという存在の確かさをそこから認識する、という理屈です。
エッグ世界と現実世界が対になっていることを表していると思しきシーンもあります。その一つがこちら。
一枚目が第一話、二枚目がOPですが、構図とキャラクターの配置がそっくりになっています。異なるのはアイの位置だけです。
この符号は二話目すぐにOPが来るというシーン間の近さからも何か意志があるのでは、と思わされます。
このように、視覚的イメージにおいても我々は(恐らく意図的に)エッグ世界と現実世界は反対になっている、という意識を刷り込まれているのです。
要は、「難しいことを考える前に直感的に対になっていると感じている」、という話ですね。
まとめ
『ワンエグ』は「伏線回収」と「エッグ世界・現実対比」という二つの手段を用いて、明確に『ワンエグ』を関係性アニメに見せかけていたのです。
この見せかけていた、というのが重要で、これが成功していたからこそ最後の最後、アイ個人の物語だという話を見てどんでん返しを食らった気分になる。
また、そこがこの作品の評価が分かれるポイントでもあるでしょう。
この作品を関係性アニメとして楽しみたかった人はあのオチに納得できなかったのではないかと思います。そういった人が多いのもまた『ワンエグ』製作陣が自らを偽っていた、という論の補強になるのです。
以上、私なりの『ワンエグ』分析でした。
あとがき
『ワンエグ』というアニメ無くしてアニヲタとしての私を語ることはできません。そのくらい重要なアニメなのですが、どうしてもアプローチが難しく、前回記事から手を変え品を変えとやってみました。「語りたいことはいっぱいあるのに語り方が難しい」、これは嬉しいのやら悲しいのやらという感じです。前回記事はやりたいことが多すぎて要素を入れすぎたきらいがあったので、今回はできるだけスリムな感じにしましたが、それもどうでしょう……。
ただ、やはり好きなものの話をしている時が一番楽しいです。アニメも漫画も、これからも好きを続けて行けたら本望です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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