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【番外編】止まる人、止まれない人

今回は番外編ということでテーマを明確にして語ってみたいと思います。テーマは「止まる人、止まれない人 ー焦るこころが生む不幸について」です。

どうしてそんなに急ぐのか?

そう問いかけてみたくなる人で世界は溢れている。

例えば朝の保育園。お母さん、お父さん、どちらも急いでいる。子どもがなかなか先生のもとに行ってくれない。グズって泣き出してしまう。そんなとき少なくない親御さんが「パパ(あるいはママ)仕事に遅れちゃう!はやくして!」と声を荒げて子どもに向き合っている。子どもの反応は様々だ。より激しく泣いてしまう子、びっくりして泣き止む子、大きい声に身体が硬直してしまう子。他所の家庭に口出しすることはできないので見て見ぬフリをしているが、親も子どももどちらも不幸に思えてしまう。

わたしはと言えば、儲からない自営業をしているので比較的余裕がある(こういうネガティブな自虐を言うと先輩起業家には怒られることもあるので控えめに)。

わたしたちは7時頃に家を出て徒歩で保育園に向かう。そのまま到着してしまうと保育園の開園より早くついてしまうので近くの公園に立ち寄る。ブランコや滑り台などで一通り遊んでから保育園の敷地にはいり、お着替えなどの準備をして教室に向かう。事前に公園で遊んだかどうかなど関係なく、我が子も他の子と同じように教室に入る前にはグズる。グズったら無理に先生に引き渡すことをせずに、掲示されているポスターや子どもたちが描いた絵を眺めながら我が子の気分を落ち着かせる。3分で済むこともあれば、15分以上かかることもある。「子どもを甘やかすと癖になるから泣いてでも引き渡した方がいい」と助言されることもある。その助言は有難く頂戴しておくが、それは父親としてわたしがやりたいことなので、出来るかぎりやり続けようと思う。

なぜ、ヒトは急ぐのか。

その答えは簡単である。組織の一員として仕事をしているからである。組織にはルールがあり、会社には就業規則がある。それは会社員であれ、アルバイトであれ、なんであれ自分で自分の時間をコントロールできないことに原因があるだろう。”原因がある”なんて言うと語感が強すぎて反発があるかもしれない。しかし、組織の一員として安定した給与を得るために、対価として差し出さざるを得ないものそれが「時間」なのだ。

保育園に預ける期間は短ければ3年。もし0歳や1歳から預けていたら5〜6年ほどになるのだろうか。小学校に入学する歳になれば少しは落ち着くかもしれないからそれまでの辛抱。そう考えている人も多いかもしれない。でも毎日、毎朝イライラしてしまう。怒ってしまう。そして自己嫌悪してしまう。あと何年だろう。待ち遠しく一日一日を数えている日々はツラいはずだ。

どうしてわたしたちは立ち止まれないのか。

その答えも簡単だ。一度道から外れたことをしてしまうと取り返すのがとても大変だからだ。そしてそこには有害な男性性が蔓延していることも原因だと思う。今回は先ず前者の「取り返すのが難しい問題」について述べたい。

わたしには「取り返すのが難しい問題」に悩まされた経験があるから非常によく分かる。わたしは新卒で入社した会社を2年で辞め、大学院に進学した。そこから定職を得るのは大変だった。院卒の需要が無いことを身に染みて感じたし、就業期間2年と早く辞めてしまったこともネガティブな要素になってしまったと思う。

その後ようやく定職に就きある程度のキャリアを積んだあと、わたしは起業した。別に起業なんてしたいとも思わなかったのだが、会社員としてあと30年も働くのかと思うともう身体的にも精神的にも家族との向き合い的にも会社にはいられるとは思えなかった。

しかしながら急に会社をはじめて満足に稼ぐことはできない。そりゃそうだ。だからアルバイトをしようと考えた。歳は41歳、Indeedなどのアルバイト募集サイトを見て応募してみるも返ってくるのは「貴殿の今後のご活躍をお祈りします」ばかりだ。今どき顔写真を貼った履歴書を送れと要求してくるような会社が多いことに辟易したが、年齢か見た目か性別か、はたまたわたしのグチャグチャな経歴書が問題なのか、わたしを雇ってくれるような奇特な会社はこの社会に存在しないようである。凹む。

こういう話を聞くと、あなた可哀想とか、自己責任だろとか、反面教師にして自分はそうならないようにしようと思うかもしれない。そうすると、今いる場所で働き続けることが最適解になってしまう。立ち止まったら人生負けなのだって思うだろう。けど、本当にそれが最適なのだろうか。

みんなマグロだな

マグロは泳ぐのを止めたら死んでしまうという。わたしからしたら、世の中の全員マグロなのだ。お前らみんなマグロだろ、と街中で叫んだら警察を呼ばれて取り押さえられてしまうだろうから我慢するけど、心の中ではそう思っている。本当に止まったら死んでしまうマグロに喩えるのはマグロに失礼かもしれないので、”自転車操業”という方がより適切かもしれない。自転車であれば降りればいい。押して歩けばいいのだ。

傍からみて時間に追われているな、忙しくて余裕無さそうだなと思える人に「一旦立ち止まってみたら?」と誰かにいうと「そう簡単に止まれないんだよ」と返される。そう返す相手の顔は「バカじゃないの?」という気持ちで溢れていさえする。

立ち止まることは不安だし怖い

では、わたしは何故立ち止まったのだろう。よほどの変人なことは間違いないし否定しない。ただ、休職しなければならないほどに身体的・精神的に追い詰められてしまったこともその決断を後押しした。そして、立ち止まったことによる代償も支払い続けている。しかし、数ある選択肢のなかからわたしは”立ち止まること”を選び取っただけだ。だから多くの人も選択することはできるが”立ち止まらないこと”を選び続けているということになる。

別に無理に立ち止まれと言いたいわけではない。立ち止まることなんてせずに健康に健全に生きていける人なんて沢山いると思う。
わたしからしたら、なんて資本主義に最適化した性格や身体を兼ね備えた人なんだろうと羨ましくも思える。しかし、そうでない人も少なからずいる。そういう人に「立ち止まっても大丈夫」「立ち止まってまた社会に戻りたくなったら戻ればいいよ」という役割こそがいま必要と思う。

ただ政府や自治体が提供する「社会復帰」はまた労働者として社会に復帰させることを目的としたものではなかろうか。

会社やその他の組織に馴染めずに一旦降りた人に対して、さらにまた労働者として社会に復帰させるというのは結構な地獄であるように思う。そのためにコミュニケーション力とかストレス耐性を訓練して身につけさせるとか、頭イカれてるだろう。

失敗したら再帰できない国ニッポン

まだまだそう思われる国なのは事実だ。

しかし、誰もチャレンジせず、みんな会社にぶら下がり続ける社会はダメだダメだと言い続けて何年経ったのか?と問いたい。

いま日本に必要なのは、そういう中身の無い掛け声ではなく。真に伴走する仲間だろう。銀行もベンチャーキャピタルも儲かるスタートアップにしか伴走しない。そうした資本主義的な伴走ではなく、この世界を生き残るための伴走。わたしにはそれが必要だと思うし、わたしと同様にそういうものを必要とする人にわたし自身も伴走していきたい。

わたしはわたしを助けてくれる人を募集しているし、何ができるか分からないけれど、わたしに助けられることがあれば募集したい。世の中は地獄だ。立ち止まってもいいんだ。消耗しきった後では遅いのだ。立ち止まって考える時間があれば、きっと何か見つかるはず。

次は「有害な男性性」についてまとめたい。

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