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『生きる意味って必要ですか?』という質問に答えてみた

2022年はじめてのnote更新です。

特に書くネタもなかったので、Querieでお題を募集してみたところ、面白い質問が届いたので、2022年一発目のnoteはこちらにしたいと思います。

【Querieに届いた質問(一部表現を修正しています)】


いわんこさんの書く文章が好きです!!

いわんこさんにとって、生きる意味って必要ですか?もしくはわからないもの(わからないものでOKだ)ですか?

また生への積極的な意志は持たないといけないと思いますか?本人が望んだポジティブな自死はどう捉えますか?

気軽に人と話すことではないと思っているので、人の意見をきける機会はなく、もしいわんこさんの話をきければ嬉しいです。

質問内容的に背景を気にされるかもしれないので、一応私の思っていることを以下書きます。(病んでいるわけではないです)

私は生きる理由や目的が欲しいタイプで、大切な人が私の死を知ったら悲しむ、が生きる理由なので、その大切な人が全員この世から旅立ったらすぐ死ぬつもりです。

生きたかった人が生きられないことや、辛い状況で亡くなることは本当に悲しく苦しいと感じます。大切な人の死の度、神様!自分が代わりをするから大切な人を少しでも生かしてくれとも思います。

ただ、生への執着がさらさら無い自身に対して、自分の死は特に苦しいものではないです。生への意志を奮い立たせる必要もわかっていません。

必要・不必要の話ではないという言葉も想定はできるのですが、「目的や意味の無い会議は無くしていきましょう!」と同じ感覚です。

 

【ぼくの回答】


まずは質問ありがとうございます。「そろそろまとまった長文を書きたいな」と思っていたところだったので、面白いテーマを頂けて本当にありがたい限りです。


さて、まずは結論から書こうと思います。
最初のご質問、「いわんこさんにとって生きる意味って必要ですか?もしくはわからないもの(わからないものでOKだ)ですか?」にお答えすると、「生きる意味なんて必要ない」になるかと思います。二つ目のご質問、「また生への積極的な意志は持たないといけないと思いますか?」についても、ほとんど似たような回答になります。つまり「生への積極的な意志なんて持つ必要はない」というものです。最後に「本人が望んだポジティブな自死はどう捉えますか?」についてですが、これは少し難しいですが、「ケースバイケース」になるかと思います。3つ目だけ最後に付け加えるとして、まずは最初の2つについて、ぼくなりの考えを書きます。

 「生きる意味なんて必要ない」「生への積極的な意志を持つ必要はない」という字面だけ捉えると、まるでぼくが「生きる」という行為に否定的な人間に思われそうなので、きちんと説明させてください。

まず、ぼく個人は「生きる」ということを極めて肯定的にとらえています。30年余りの人生で「生きる」ということが楽しくなかった時期はほとんどなかったです。ぼくはうつ病を経験したことがあり、そのときは流石に「死ぬほどキツー」と思いましたが、そのときですら「もうダメだ。死にたい」とはなりませんでしたし、いまとなっては「うつ病を経験してよかった」とすら思っています。自己肯定感も極めて高いです。これは「イケメンだから」とか「仕事ができるから」とかではなく(ぼくは実際そのどちらにも明確に当てはまりません)、単純に「自分」という存在が好きなんですね。そこに理由はありません。

では、なぜそんなポジティブ人間が「生きる意味なんて必要ない」「生への積極的な意志を持つ必要はない」と捉えているのか。じつは、ぼくにとってこれは矛盾したことでもなんでもないです。というのも、そもそも、人間が「生きる意味とはなんなのか」を考える状況は「暇で退屈しているから」以外ありえないからです。毎日を懸命に生きている人間、あるいは日々を楽しく過ごしている人間はそんなことを考えません。
部活でも仕事でも育児でもなんでもいいのですが、なにかに熱中している人間、あるいは特段打ち込めるものはなくとも、満ち足りた日々を送っている人間はそんなことを考えません。「生きる」ことが当たり前に存在しているので、意味を問う必要がないからです。蛇口をひねれば水が出るのを疑うことはないでしょう。当たり前にそこにあるものだからです。

ただ。ここでぼくが強調しておきたいのは「だから生きる意味について考える過程そのものが不要なのか」とは、ぼくは「決して言っていない」ということです。

どれだけ毎日を懸命に生きていたとしても、あるいは楽しく生きていたとしても、ふと暇と退屈が忍び寄ると、自らの存在意義を考えます。暇と退屈は(誇張抜きで)人を殺します。

上述の通り、ぼくはうつ病を経験しました。うつ病真っ盛りのときなんて、それこそ毎日「生きる意味」について考えていましたし、それに関する本を読み漁りました。そういった過程を経たからこそ、いまのぼくがあると思っています。「生きる意味について1回も考えたことない」という人はほとんどいないと思いますし、仮にいたとしてもおそらくよほど恵まれた人間だと思われますが、個人的には、上記について考える機会のなかった人間が「生きている」と言えるのかというと少し懐疑的です(「うつ病になれ」と言っているわけではないので誤解ないようにお願いします。あんなもんは経験しないに越したことはないです)。

いろいろ試行錯誤した結果、ぼくが得た結論は「生きる意味に縛られた人生はとても窮屈だ」というものでした。なるほど、「生きる意味」を見出せた人生は確かに素敵かもしれません。実際そうだと思います。しかし、それは懸命に目の前の日々を生きた上で、結果的に見つかるものでしかないし、見つかる保証もない。なにより「生きる意味」というワード自体が「人間として生きるのであれば、生きる意味を見つけなければならない」という義務的な文脈をはらむことが多い。そしてその文脈に縛られて窮屈そうに生きている人を、ぼくは少なからず見てきました。

「生きる意味」を手放した時に、逆説的に「生きる」ことがあらためて呼吸のように自分を巡ったのを覚えています。ぼくが「うつ病を経験してよかった」と書いたのは、これが理由です。ぼくと同じように生きる意味について考える過程を経て、「生きる意味を見出した」という人もいるでしょう。ぼくはそれをことさらに否定するつもりはありません。どちらかと重要なのはその結論ではなく、「生きる意味について考える過程」そのものだからです。ただ、個人的には「万が一、またその生きる意味がなくなったりしたらしんどいよ」とは思いますが。

さて。最初の二つのご質問については、おおよそ書ききりました。ただ最後のご質問、「本人が望んだポジティブな自死はどう捉えますか?」についてはまだ書けていなかったですし、こちらについて回答させてください。

正直な話、「ポジティブな死」という状況が個人的には想像がつきませんでした。たとえば末期病患者やアルツハイマー患者が「延命治療を中断し、自らの意思でいっそ家族の元で死ぬことを選ぶ」などを指して「ポジティブな死」というのであれば、本当にケースバイケースですが同意することもあると思います。生命活動を送るということと、「人として生きる」ことは必ずしも一致しないであろうからです。むろん異論反論があるかとは思いますが、ぼくの意見はこうです。

そうではなく、「ポジティブな死」のことを、たとえばぼくの目の前で、少なくとも身体的には健康な若者に「生きることがしんどいので、死をポジティブにとらえます!!首吊ります!!!」とか言われる状況を指しているのであれば、ほぼ間違いなくぶん殴り倒して止めます。「じゃあおまえは俺の人生がつらいことに責任とれるのか!?」とか言われそうですが、「おまえの人生の責任なんて取るつもりないわ、ボケ!!」ともう一度ぶん殴り倒しそうです。最後だけ急になぜかスパルタになったわけですが、まじめな話をすると「ほぼ間違いなくこうするだろうけど、尊厳死を認める自分と整合とれてなくない?」と、自分でもちょっとよくわからなくなってしまったのがその理由です。まあぼくも人間なんでこんなもんで勘弁してください。

以上、つらつらと脈絡なく書きましたが、面白い質問をありがとうございました。またのご質問をお待ちしております。

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