トライガン――ヴァッシュの綺麗事は何故許されるのか
皆さんはあの男、ヴァッシュ・ザ・スタンピードを知っているだろうか?
行く先々で騒動を巻き起こし、歩いた道は瓦礫で埋もれる恐怖の人間台風にして、『るろうに剣心』と双璧をなす不殺漫画『トライガン』(およびトライガン・マキシマム)の主人公である。
『血界戦線』がアニメで有名になったから、作者繋がりで知った人も結構いるかもしれない。
過去の事件とトラウマに起因する不殺の信念をもつ主人公ではあるものの、剣心とヴァッシュではそのスケールが大きく異なる。ヴァッシュは、星じゅうを駆け回ってイザコザに首を突っ込んでは、老若男女善人も悪党もその手が届く全ての人を守ろうとする。
星を丸ごと救っちまうのか、スゲー! と思うかもしれないけども、彼は人間台風とか言われる程だから、実際のところかなり迷惑な存在だ。剣心があくまで身の回りでの人助けと世直しをやっていたのに対し、ヴァッシュの不殺は押し付けがましく、他人の揉め事にズケズケと立ち入っては命の大切さや平和の尊さを説きやがるのです。
あなたのそのお怒りもごもっとも、今殺されそうになっているそいつは救いようのない悪党だ、という場合でも絶対に死人を出すまいと争いに首を突っ込んでいくんですね。
「暴力は受けた側からしかその本質は語れない」と言うくせに、他人の復讐は力づくでも止めようとする。目の前で人を死なせたくない、自分が消してしまった人たちは優しかったからと、全くの身勝手で他人の事情に踏み入っていく。
僕は報復する人間に説教する奴が大嫌いなので、「復讐は良くない!」系のセリフには虫唾が走るのが常なのですが、『トライガン』においては事情が違います。
ポイントになるのがファンならご存知あの男の存在。
廃れに廃れ荒み切った荒野の惑星で、巨大な十字架型の銃を背負い生き残るために人を殺す関西弁の殺し屋ニコラス・D・ウルフウッド。
度を越した理想主義のヴァッシュと対をなす現実主義者で、お人よしのヴァッシュに苦言を呈し、イヤミを言い、時にはくそったれな現実を叫ぶことで、平和思想に振り切れた作品のより戻しをはかるいい感じの兄ちゃんです。
二人は共闘することが多く、相互に信頼があり、思想や境遇の違いからしょっちゅういがみ合いながらもその掛け合いは暖かくほほえましい。『トライガン』はこの凸凹コンビを中心に、『うしおととら』のようなW主人公の様相も孕みつつ進んでいきます。
ヴァッシュが全身全霊で推し進める綺麗事に、後ろを歩くウルフウッドの現実論が埃をふっかけて汚していくんですね。
少年漫画はキャラクターが屋台骨です。底抜けのお人よし主人公が平和に振り切った作品の価値基準を、相棒のやさぐれた殺し屋が、シリアスの中にちょっぴりギャグを巻き込んだ絶妙な掛け合いでぐぐぐーっと真ん中辺りまで引っ張ってゆくなんて構図は、人気が出ないわけがありませんわな。
作品的には一応この形式によってバランスがとられるのですが、『トライガン』が名作たる理由はその一歩先にあります。
単なる異なる思想のキャラクターを置いてのバランス取りだけでは終わらない二つのポイントがあるんですね。
それはなにかというと、この正反対な二人が、相互に相手の立場を経験し合うことになるのです。
これが一つ目。
普段なら「しゃーねーな」で済むところも、人類の存亡をかけた戦いが激化して追い詰められていくとですね、それではいかなくなるわけです。ついにお互いの主張を受け流せず衝突する時がやってくるわけですよ。相手の立場などわかりようもなく、二人とも結構辛辣な発言をぶつけます。
「…選ばなアカンねや!! 一人も殺せん奴に一人も救えるもんかい
ワシら神様と違うねん 万能でないだけ鬼にもならなアカン…」
「…弱虫はおまえの方だウルフウッド なんでもかんでもあっさり見限ってる」
「おまえ…以前いったよな 僕の笑い方はカラッポだって…
でも僕からすると今のおまえは…心が悲鳴をあげているくせに無理矢理鬼になってる
そんな風に見えるぜ」
生にしがみつく為に死を与えるウルフウッドと、多くの死を巻き起こしたが故に生に固執するヴァッシュ。どちらも熾烈なる人生の積み重ねに裏打ちされた確固たる信念を持ち、自分の人生を守ろうとすれば、お互いにお互いを否定せざるを得ない。相手の人生を深く斬りつけ抉りとるようなやりとりもした。
しかしどうしても相容れなかった道が、ある時お互いに交わることになります。
つまり、自分の命よりも優先し守りたい相手と銃を突きつけあう「殺せない戦い」と、
大切な人を守るために命を天秤にかけざるをえない「殺さないと失う」戦いを、
それぞれが立場を入れ替えて経験する。
「救いたいんは本当やねんか…神様…よう神様…人殺しは人殺しか
綺麗事ぬかして笑かすないう事か…」
殺さないで戦う、守るために戦う、それがいかに大変なことかをウルフウッドは知る。
「笑えトンガリ…おまえはやっぱり笑ってる方がええ
カラッポなんていうて 悪かった…」
そして、謝るんです。あの時放ったのは心無い一言だったと、心から素直に詫びるんですよ。
一方ヴァッシュは、守るために初めて人を殺す。ウルフウッドの言った通りに、天秤にかけて、選んで、殺す。生かすために殺すことを選ぶ。その時敵のセリフから、「選択」が強調される。
そのあとで独白が入るんですよ。
「お前も…こんな気持ちだったのか」
そしてヴァッシュも、弱虫だといったことを思い返して、かおをぐっしゃぐしゃにして、号泣するんですよ。自分の信念がやぶれたことよりも、友人の心を理解できなかった申し訳なさと不甲斐なさで、めっちゃくっちゃ泣く。
これで、おあいこになります。
それぞれ感情的に無神経に相手の人生に立ち入ったことを悔い、謝罪して、お互い様になるんです。
作者の思想的には綺麗事に傾いてるっぽくはありますが、作品的にはウルフウッド側の主張にも一定の理解を示している構造になっている。
その者の置かれた劣悪な境遇に思いを馳せることもせず、神聖に清廉で純潔な理想でもって踏みつぶしていく綺麗事の暴力性を矯めることに成功している。その配慮がある。
だからこそ、『トライガン』における綺麗事は許されるのです。まったくいいコンビだと膝を打つしかないですね。
地球文明崩壊後の荒れ果てた異星での人の命なんて、綿菓子よりも軽いですよ。そこで生きていくなんて、人外じゃなけりゃあ、汚れの一つや二つあるものなんですよ。
「しゃあないやろ 誰かが牙にならんと誰かが泣く事になるんや…」
相反する主張の根源は二人とも同じでした。二人とも滅茶苦茶優しくていい奴なんです。
そして、ヴァッシュとウルフウッドの相互信頼は終盤において感動に次ぐ感動を与えてくれました。
「鉄板か大穴かそんな事は知らん」「間違ってないぜ」「言い訳をせえへんかった」「理由としちゃこれで十分だ」と、名言とそれが放たれる興奮必至涙腺崩壊感動の名シーンの数々。
しかしなんといってもヴァッシュ×ウルフウッドで一番の名シーンは教会の鐘が鳴るシーンです。あのシーンで泣かない奴は感情がないと思う。演出が素晴らしい。そしてそこに、ヴァッシュの綺麗事が許される二つ目の理由がある。
リヴィオと孤児院を守り切って、それでも孤児院の皆に殺し屋としての正体を明かすのを諦めて、ヴァッシュと酒を飲みながら語らうウルフウッド。二人のやり取りはコミカルで、絵もデフォルメの強いコマがあったりして微笑ましいはずなのに、どこか静かで寂しげで切ない。
神も見放したような、祈りなんて意味をなさない荒れ果てた荒野の上で、ヴァッシュはウルフウッドの幸せを泣きながら祈る。ウルフウッドがふと空を見上げると、孤児院の皆が脱出に使った飛空艇から、明らかに子供が作った紙吹雪が降ってくる。
目の前でドンパチやってた殺し屋がドーピングで急成長した施設のお兄ちゃんだったことを知った子供達が、それを受け入れ、感謝の意を込めて祝福した紙吹雪。お兄ちゃんが戻ってきたらこれでお祝いするんだと作ってためておいたもの。
それは、殺し屋ウルフウッドの人生へのこれ以上ない肯定なんですよ。作品全体として、ウルフウッドの立場を尊重して肯定した展開。これがあることが二つ目の理由です。ウルフウッドの生き方は施設の子供達からだけでなく作品のキモ、骨組みの部分から理解され、救済された。
そして子供達からの暖かいメッセージに包まれたウルフウッドの慟哭があり、ヴァッシュも共に天を仰ぎ、ついに教会の鐘が鳴って、ページをめくると大きな見開きで…………
あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
おああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
ああっ、あっ、あああああああああああああああああああああああああああああ!!!
ああ、あああ…………
ほんとね、どうなるかと思ってたんだよ。最後。
ヴァッシュ消滅ENDもあるんじゃないかって気がしてて。
それが最終14巻でさ、表紙がさ、あの満面の笑顔だよ。よかったよ、ほんとに。
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